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ずっと寝ていたい

作者: 村崎羯諦

 手を伸ばし、ヘッドボードに置かれた携帯で時間を確認する。午前八時半。寝過ごしてしまったなとぼんやりと考えると同時に、ちょうど昨日バイトを首になったことを思い出す。寝返りを打ち、携帯をもう一度元の位置に戻す。仕事がなければ怠い身体にムチを打ち、起き上がる必要もない。別に起きてやりたいこともないので、起き上がる理由もない。目は不思議と冴えている。しかし、自分の中からすっぽりと起き上がろうという意思が抜け落ちてしまっていた。外は寒く、掛け布団がいつもより重たく感じる。掛け布団を自分の首元まで手繰り寄せる。ホコリが舞い、少しだけ咳き込んだ。


 俺は再び目を閉じる。すると、夢を見ているかのように、昨日の出来事が映像となって思い浮かんでくる。重たいダンボールを一人で抱え、一歩ずつ一歩ずつ階段を登っていく。くたびれた右足が、濡れた踏面の上を滑る。身体が後ろにのけぞる。あれほど重たかった荷物が一瞬だけ軽くなる。スローモーションのように、俺と荷物が階段をゆっくりと転げ落ちていく。駆け寄ってくる社員。彼はひっくり返った荷物を持ち上げ、絶望の表情を浮かべる。遠くから聞こえてくる罵声。背中に感じる鈍い痛み。俺は硬いコンクリートの上で仰向けになったまま、そのまま目を閉じた。


 意識が一瞬だけ途絶えた後、ゆっくりと目を開ける。身体の位置を動かすと、遅れてやってきた筋肉痛が腰と太ももに電流のように流れる。携帯を確認する。午後の四時。お腹が空き、尿意もある。しかし、身体と心は重い。積極的に生きようと心がけているわけでもないのに、どうして食事を取らなければならないのか、どうして排泄しなければならないのか。薄く靄がかかった頭で必死にその理由を見つけようとしているうちに、まぶたが重たくなり、俺は再び目を閉じた。


 夢と意識の狭間に、大学時代の記憶が顔を覗かせる。険しい顔を浮かべる目の前の面接官たち。必死に説明しようとするたびに。舌がもつれ、支離滅裂な言葉が口からこぼれ出る。真ん中の面接官が苛立たしげに、もっと具体的に説明してくださいと問い詰めてくる。一番右の面接官が左手にはめた腕時計をちらりと見て、小さくため息をつく。俺の頭が真っ白になる。言葉が出てこない。震える声でようやく絞り出せたのは、たった一言、すみませんという言葉だけだった。


 下半身が冷たい。股間に手をやると、尿をもらしていることに気がついた。着替えなければならない。シーツを洗わなければならない。しかし、それらはまるで自分ではない誰かへの命令であるかのように虚ろにこだまする。そういえば空腹感もどこかへいっている。カーテンの隙間から差し込む光はいつの間にか消え失せ、明るかった部屋は再び暗く、沈み込んでいた。一日を不意にしてしまったという罪悪感も、もうそろそろ起きようという考えもない。別に起きていたっていいことなんてないし、このままずっと寝ていたい。がらんどうになった心に残っていたのはそんな単純な気持ちだけだった。


 俺は高卒認定試験の結果通知が入っている封筒を手に持っている。小刻みに震えている手で封を切り、中からA4の紙を取り出す。真ん中に、黒の太文字で書かれた『合格』という言葉。俺は椅子に座っていた母親に結果を伝える。母親の顔に驚きの表情が浮かび、それから喜びの表情へと変わる。母親は俺から封筒を受け取り、舐めるように文面を読んでいく。口に手をあて、目の端からひとしずくの涙が溢れる。お父さんに電話しなくちゃ。母親は合格通知を握りしめたまま、涙声でそう言った。母親が携帯を取り出し、父親へと電話をかける。俺は自分の目に手をやる。涙が俺の指先を濡らし、冷たかった。


 目を閉じ、目を開ける。それをもう何回繰り返したかわからない。混濁する意識のままヘッドボードに置かれた携帯を取る。しかし、いくらボタンを押しても反応はない。充電が切れていることに気が付いても、机の上に置きっぱなしの電源ケーブルへと手をのばそうとは思わなかった。どうせ連絡を寄越してくる友人もいない。俺は携帯を元の位置に戻した。濡れた股間はいつの間にか乾き、鼻につんとくる臭いだけが残っている。その代わり、背中に違和感を覚える。俺は寝返りを打ち、服の中から背中へと手を回してみる。俺の背中は腐ったみかんのようにただれていた。指先で軽くこすり、その指を自分の顔まで持ってきて確認する。爪の間には、赤黒い垢に混じって、青白いカビのようなものが詰まっていた。


 部屋の外から、吉村くんが来てくれたわよという母親の声が聞こえる。俺は耳を閉じ、抗議の意思をこめてその場で地団駄を踏んだ。学校での恥辱がフラッシュバックのように脳裏に浮かび、自己嫌悪で俺は叫び声を上げる。意味もなく狭い部屋の中を歩き回る。凹んだ壁を殴る。手の甲が痛い。それでも、心の痛みをごまかすことすら叶わなかった。


 目を開け、横を振り向くと、フローリングの床にうっすらとほこりが積もっているのが見える。手の甲を見てみると、綿毛のようなカビが手の甲から二の腕にかけてポツリとポツリと生えていた。俺は左手の人差し指でそのカビを根本から搔いてみる。かさぶたのようにカビは剥がれ落ち、代わりに青黒く変色した皮膚が現れた。痛みはない。壊死してしまっていたからなのか、それとも痛みを感じることそれ自体ができなくなったのか。背中と身体の側面が湿っている。ただれた皮膚から染み出す体液でシーツが黄色く変色している。しかし、それに対して大した感情は抱かなかった。別に生きる価値なんてない自分に死が迫っていようとも、それが一体どうしたというのだろう。


 髪を掴まれ、頭を左右に揺さぶられる。そのまま廊下の壁に頭をぶつけられる。息をつく間もなく、腹部に衝撃が走り、その場に倒れ込む。頭上から嘲笑が聞こえる。俺を囲む六本の足のうちの一つが、俺の手を踏む。上からフラッシュが焚かれ、携帯カメラのシャッター音が鳴る。恥ずかしさと恐怖が身体全体を覆い尽くす。その時、視界の隅っこに吉村の姿が映った。クラスの友人と並んで歩いてきた吉村が俺の方へと視線を向ける。俺と吉村の視線がぶつかる。そして、吉村が俺から視線をそむける。もう一度腹部に蹴りが入れられる。ホコリで汚れた学ランの袖で顔を覆う。繰り返される痛みに耐えながら、俺は早く終われと念仏のようにつぶやくことしかできなかった。


 インターホンが鳴る。何度も何度も。俺の家を尋ねてきてくれるような友人はいない。きっと家賃の催促に来た大家なのだろう。それでも起き上がろうという気持ちにはならなかった。こうやって横になり始めてからもうどれくらいの時間が経ったのだろうか。少しだけ考えた後で、なんだかどうでも良くなって考えることをやめた。インターホンが止む。寝返りを打とうとするが、身体は動かなかった。少し前までは染み出す体液で濡れていた身体もシーツもいつの間にか乾いている。臭いはしない。嗅覚が完全に壊れてしまっているのだろう。顔だけを動かすと、枕元に白く変色した大量の髪の毛が抜け落ちているのに気がつく。骨と皮だけになった手でそっと触ってみると形が崩れ細かいほこりになる。自分の耳を触ってみる。耳は柔らかさを失い、硬化していた。少しだけ力を込めて押すと、そのままころりと剥がれ落ちた。


 俺たちはランドセルを公園のベンチに置き、じゃんけんをする。じゃんけんで負けた吉村から俺たちは一斉に逃げ出し、吉村が散り散りになった俺たちを追いかけ始める。十分距離を開けてから、足の遅い吉村をみんなでからかう。一緒に逃げていた横のやつがゲラゲラと笑う。吉村も笑いながら、俺を追いかけてくる。そこには俺を蔑む人間も、劣等感と自己嫌悪感に絡み取られた自分自身もいなかった。空は高く、澄んでいる。足が軽い。身体が軽い。何より、心が軽かった。

 

 意識が戻る。真っ暗な世界の中で玄関の方から誰かがドアに鍵を差し込む音が聞こえてくる。目を開けようとするが、まぶたが上がらない。手も頭も、まるで金縛りにあったみたいに動かなかった。だけど、それが一体どうしたというのだろう。手と頭が動いたとして、身体を起こせたとして、何をすればいいのかわからなかった。だとすれば、このまま眠り続けることと変わりがないのかもしれない。施錠の音が聞こえ、ドアが開く。足音が近づいてきて、床の上に荷物が落っこちる音がした。


「ああっ!! 健ちゃん!!!! 健ちゃん!!!!!!」


 つんざくような叫び声が鼓膜を揺らす。音が刺すように痛かった。痰が絡んだような嗚咽が聞こえてくる。少しだけ時間が空いて、声の主が母親であることの気がつく。俺はまぶたを開けようと少しだけ力を入れたが、すぐに諦めた。幸せになりたくなかったわけでもない。母親を悲しませたくなかったわけでもない。それでも。それでも俺は、このままずっと寝ていたかった。

 

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