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「お父さん、今は絵を描いてないの?」
ラッピングを手早くこなしながら、時枝がさりげなく聞いてきた。
「お酒を飲むようになってからは、一枚も・・・」
リボンを巻いていたかすみの手が止まる。
10歳の誕生日に父が描いてくれた肖像画を思い出した。
黒目が無くて顔がキュウリみたいにそっていた。かすみは「これ嫌い。私こんな顔じゃない」と言って不機嫌になった。同じ年、父は母の誕生日にも黒目が無くて顔の長い肖像画を渡した。母はモディリアーニが好きだったのでとても喜んでいた。
母の嬉しそうな姿を見たかすみは、自分の肖像画をもう一度見直してみた。「これ嫌い」と思っていたものが、「なんで黒目が無いんだろう」という興味深いものに変わった。
今思えば、あれが自分の出発点だった。とかすみはたまに振り返る。
父がお酒を飲み、絵を描かなくなって家庭不和が日に日に増していった。
卒業制作で大学からの帰りが遅くなり、夜12時を過ぎてかすみが帰宅した時だった。
玄関を開けると、有田焼の花瓶と香炉が床に落ちて割れていた。なにこれ。と思い、リビングに駆け込むと、母が座り込んで泣いていた。「お母さん、どうしたの?」と声を掛けた。が、父だ。とすぐ気がついた。
食器棚からもマイセンやウェッジ・ウッドの食器が落ちて割れている。ドイツ製の置き時計は、床に叩きつられたように壊され、変形して部品が飛び出していた。いずれも母のお気に入りの代物だった。
父のアトリエから物音が響いていたので、ドアを開けると、自分で描いた絵も破壊していた。キャンバスを叩きつけ、踏んづけては、投げつけた。十数点の残骸が部屋中に転がっている。
「お父さん。やめて!」
と叫んだが、父はひとしきり暴れたあと、あちこちの壁に体をぶつけながら、家を出て行った。
暴れたことを全く記憶していなかった父は、自分でも驚いていた。しばらく経ってお酒が入ると、また繰り返した。そんなことが何度も続いた。
かすみも母親もどんどん疲弊していった。
一時期、かすみは父親を嫌悪してまったく口を利かなくなった。
ある日、泥酔した父が、玄関に倒れ込むように帰宅し、呂律が回らない舌で大声で叫んでいる。
「かすみ。おいやげ~。おいやげだぞ。ほら、ほら」
かすみに何かを買って帰ってきたと言う。レジ袋を持っていた。見ると、むき出しのパンケーキと8段重ねのソフトクリームが無造作に、大量に詰め込んであった。パンケーキの熱でソフトクリームはドロドロに溶けている。やたらと甘い匂いが鼻に付き、怒りが込み上げた。
「お父さん、何なのよこれ!」
「なんら。なにが不満なんだ。どこが不満なんだ」
父は、立ち上がったり転んだりしながら、土足で上がり込んだ。
「かすみ。ろこだ?」
やだ。私はここにいるのに。と戸惑うかすみ。
「おまえはこれが好きらったよな。パンケーキとソフトクリームが好きらった。間違いない。好きだった。好きだったじゃないか!」
レジ袋の中のパンケーキを掴んで、家中の至るところに投げつけた。ソフトクリームと混ざって、ドロドロに溶けたものが家具や壁など、そこら中にはじけて飛び散った。
「いい加減にして!」
母が、花瓶のバラと水を父にぶちまけた。
それからというもの、かすみは、自分以上に父を嫌悪する母を見ていたら、やるせなさとせつなさに耐え切れなくなっていった。
そんな時は、あの、父がくれた肖像画の前に立ち、ぼんやり眺めることにした。それは部屋の壁から外した事の無かった唯一の絵だった。相変わらず黒目が無い。そして顔はキュウリみたい。でも、かすみはその絵を見ていると、だんだんと吸い込まれるような感覚になり、周囲の視界がぼやけていった。嫌な思いすらぼやけて消えていった。
「お父さんがさ、完全に立ち直ったらだけど・・・描かせてみたら」
時枝が耳打ちするように言ってきた。
かすみは小首をかしげる。
もちろん、父が再び描いてくれたら嬉しい。だけど、絵を描かなくなったそもそもの原因がはっきりしない。売れなくて卑下しているのか、本質がつかめなくて諦めたのか。その両方かもしれない。そんな過敏な領域に立ち入っていいのかどうか――。
そして、あまり認めたくはないが、かすみにはもう一つ心当たりがあった。父が絵を描かなくなった主な原因。それは、私にあるのかも知れない。と。
「でさ、かすみちゃんの彫刻とお父さんの絵を、店のこの辺に飾ってみるってのはどう?ちょっとしたグループ展よ。で、かすみちゃんのお母さんを呼んで、見せるの」
「えっ」
かすみは、しばらく考えた。
そして、
「それ、どうかな~・・・お母さん・・・どうかな~・・・」
と、腕組みをして悩んだ。
「私、お節介ババアかな~・・・どうかな~・・・」
と、時枝も腕組みをしたら、かすみとポーズが合っていた。




