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** 4 **

 

「うちの父は若い頃、絵を描いていまして・・・」

 花の茎に、パチンと、ハサミを入れながらかすみが言った。

 先程の時枝の目撃談を聞いて、少し安堵し昔話が口をついた。普通に歩いていた頃の、若き日の父の姿がかすみの脳裏に蘇ってきた。


 イーゼルとキャンパスを抱え、風を切って土手の上を颯爽と歩く父。その後ろ姿を見ながら、まだ幼かったかすみはあとをついていった。麦わら帽子を被り、白いワンピースを着ていた。

「かすみ、ここに立って日傘をさしてごらん。そうだそうだ、いいぞ」

 と父は喜んでいた。何年かしてモネを知り、父のやりかったことが理解できた。


「小っちゃい頃、よくモデルをやらされたんですよ。でも、ただ立っているだけってつまんなくって、散歩してくる子犬を撫でたり、しゃがんで蟻を見たりしたら、うちの父、困っちゃって」

 かすみは思い出して可笑しかった。

「日傘をさして立っていたら、強い風が吹いて傘が飛ばされちゃったんです。走って追いかけたら、私転んじゃって。膝を擦りむいて。たいした傷じゃないのに子供だったから、わんわん泣いちゃって。父が周りの人に、絆創膏ないですか?って駆けずり回って探してくれて、ようやく見つけて貼ってくれたんです。なんだか知らないけど、あの記憶は強烈に残っているんですよね。それ以来父は、絆創膏を必ず財布に入れて持ち歩いていました・・・」

「ふふ、モデルさんも大変ね」

 時枝も、小っちゃい頃のかすみを想像したのか、微笑んでいた。

「父ってズルいんですよ。『帰りにパンケーキ食べような』ってよく釣られたんです。私、子供の頃ロッテリアのパンケーキが大好きだったから、それがモデル代。――夏は、ブロードウェイの地下のソフトクリーム。8段重ねの特大サイズ」

「アレ。私も好き」

「食べきれないので、父と一緒に二人で一本。倒さないようにって、慎重に食べたっけなあ。おいしかったなあ。大人になってからずっと食べてないなあ」

 パチンと、ハサミを入れた。

「あら、私は今でもよく食べに行くわよ」

「え、そうなんですか」

「8種類、覚えてる?」

「なんでしたっけ」

「バニラ・チョコレート・ストロベリー・カフェオレ・バナナ・ぶどう・抹茶・ラムネ」

 時枝は指折り数えて、ひと息で言った。

「あ、そうそう。すごい。覚えているなんて」

「だから、現役なのよ。今度、一緒に行きましょうよ」

「わあ、嬉しい。行きましょ行きましょ」

「その代わり、一人一本よ」

「大丈夫。もう、子供じゃありません」

 キッと目に力を入れ、パチン、とハサミを鳴らせてみせた。

「おぬし、やるな」

 時枝の頬が若干緩んだ。


「お父さん、画家さんだったの?」

 時枝にそう聞かれると、今度は少し照れ臭かった。

「食べていける程ではなかったんですけど。二科展とか、いろんな公募展に出品したり、個展を開いたり、結構勢力的にやってて・・・」

「へえ・・・かすみちゃんはその血を受け継いだのね。センスいいもん」

「どうでしょう。父の色彩感覚に影響受けたふしはあると思うけど・・・」

「お父さんの絵、好きだったんだ」

「う~ん・・・いいのもあったんですけど、そうでもないのが多かったかな」

「おや、辛口ね」

「ただ、私がいまだに彫刻やっているのも、やっぱり父の影響かと。美大に行けたのも、父の後押しがあったからなんです」

「いいお父さんじゃない」

 と褒められ、かすみは少しはにかんで、パチンと、花の茎にハサミを入れた。


 ラファエロ前派に傾倒している頃の父の絵は好きだった。

 話もよく聞かされた。

「奴らは、もともと中二病の学生だったんだ。俺たちは秘密結社だ。といって集まったのがラファエロ前派の連中だ」

「秘密結社?」かすみは首を傾げた。

「最近で言うと、涼宮ハルヒのSOS団。みたいなものかな」

「そっかそっか。前派って?」

「うん。なぜ、ラファエロ前派かというと、ルネサンスの巨匠ラファエロより、前の時代の絵のほうが、良くねぇ!と言い出したんだよ」

「何で?」とかすみは尋ねた。

「19世紀、イギリスの王立アカデミーで教えていた美術の授業は古臭かったんだ。百年ぐらい進歩が止まっていたらしい。それこそ『ルネッサーンス』と言って、ラファエロを賛美するような授業ばかりだった。そんな授業に飽き飽きしていたミレイやハント、ロセッティ達の学生は、いっそもっと昔の、中世の絵のほうがいいじゃん。と言って、学校のやり方に異を唱え、反体制運動を展開した」

「なにをしたの?」

「なんてことはない。地味な運動だったんだ。みんなで『P・R・B』という謎の署名を絵につけてコンクールに出すという、ただそれだけのことだったんだけどな。でも、次第にアカデミー内では『なんだ?このP・R・Bって、どういう意味だ?』と、話題になり注目を集めていった」

「どういう意味なの?」

「プレ・ラファエロ・ブラザーフットの頭文字だ。ブラザーフットとは『兄弟団』とも訳すが、キリスト教社会では宗教的秘密結社の意味合いが強い。彼らは『ラファエロ以前の秘密結社』という意味で命名していた。どうだ。謎の署名なんて、やってること中二っぽいだろ」

「ほんとだ。うん、うん」

 父はそう言って、ラファエロ前派の絵を並べて見せ、事細かに説明してくれた。中学生だったかすみは、胸が躍り話に聞き入った。


 高校生になった頃だった。父が妙な事を始めた。キャンパスに向って、筆につけた絵の具を巻き散らしていた。何をやっているのか聞いた。

「お父さんは本質を追求したいんだ。意識的に筆を走らせても所詮は人の成せる仕業なんだよ。無意識におこなってこそ本質が浮かび上がってくるんだ。神との共作だ。これはな、ジャクソン・ポロックという偉大な画家が編み出した手法なんだぞ」

 父は得意気に話して、絵の具をぶちまけた。意味が全然わからなかった。

「また、こんなに汚して」

 と、母に怒られたので掃除を手伝ってあげた。父が「すまんな」と言って、ポリポリ頭を掻いていたのを覚えている。


 その意味が、理解できるようになったのは美大に入った後だった。

 彫刻家のジャコメッティに傾倒した。アルベルト・ジャコメッティは本質を見つめる芸術家と言われた。針金のように細長い人物像。手足も異常に細くて長い。一切の無駄を削ぎ落し、本質だけを残すと人間はこうなる。とでも言いたいのか。いや、理屈はいらないと思った。見た瞬間、心を掴まれ、揺さぶられ、触発されてしまった。そして、かすみなりに一心不乱に作品創りに取り組んでいた時、ふと思った。


「自分も本質を追及している」と。


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