** 最終章 **
すっかり陽が暮れた。
薄橙色の柔らかな光の街路灯が並んでいる。店舗の看板もおのおのに点灯し、商店街の買い物客は影を引きずって行き交う。空を包む紫色はより深くなり、星たちもかすかにささやき始めていた。
大塚の後ろについて商店街を歩き、花屋に向かった。
「あれ、田村さん。もうあまり酒臭くないよ。そうこうしているうちに、酒が抜けたんだよ。良かったね。クサくない。クサくないよ」
大塚がクンクンと匂いを嗅いで言った。
「そんな。あれだけの量を飲んですっかり抜けるはずがありません。大家さん、下手な芝居はやめてください」
顎をさすってじょりじょりっと、確かめた。匂いだけじゃない。無精髭も気になる。
「じゃあ、こうしよう。今、酒は付き合い程度には飲むが、溺れることはなくなった。自分でコントロールできるようになったから大丈夫だ。心配するな。って言えばいいよ。あんたのことだ。まるっきり酒をやめたなんて言うほうが、逆に信じてもらえないんじゃないかな・・・」
いい加減なことを言う大家だ。
せめて、配達にでも行っといてくれ。と願ったが、遠目で店の前にいる娘の姿が見えた。お客さんに深々とお辞儀をして店に戻った。ああ、もうダメだ。全て正直に話すしかないのか――。
大塚が花屋近くの、自動販売機の陰に身を隠した。田村も呼ばれて隠れた。
「田村さん、武士の情けだ。最初私はここにいる。一通り説明したら、私を呼ぶんだ。娘さんの泣くところなんか見たくないからね、上手く言うんだよ」
「私だって見たくありませんよ」
田村は重い足取りでゆっくりと花屋に向かった。
足下に枯れ葉が一枚落ちていた。
拾ってみると、根元に若干緑が残っている。緑色から黄色にグラデーションが掛かり、さらに葉先に向かって、茶色くカラカラに乾いている。虫食いの穴も三か所開いていた。田村は、思いっきり枯れ葉を握りつぶし、手の中でグシャグシャと砕いた。執拗なほど揉んで、出来るだけ粉々に砕いた。手を開くと、風に舞って飛んだ。
もう半年以上も会ってないな。この間もお茶の誘いを断ったっけ。また、飲むようになってから会えなくなった。きっと不安に思っているに違いない。酒の心配かけるだけでもやりきれないのに、金の無心に来ることになるなんて。俺はなんてことを。
花屋の店先に立って、小さな鉢植えを眺めた。横でススキが、風に吹かれて穂先を振っている。店内に目を移すと、店主さんが電話にでて対応している。ああ、あの時お世話になった方だ。お礼を言わなくちゃ。
かすみが床をはいている。やばい、見つかる。と、顔を下げた。
「いらっしゃいませ・・・お父さん」
「・・・」
「元気?」
「ああ・・・」
「そう・・・どうしたの?」
「いや、その、たまには・・・」
かすみが近づいてきて、シャツの襟を直してくれた。
「お酒、飲んでる?」
と、聞いてきた。別に責めるわけでもなかった。
いや。っと、言いかけてやめた。否定するのが癖になっている。何を今さら。
「ちょっとだけ・・・すまん」
「うん・・・ちょっとだけみたいね」
かすみは優しく微笑んだ。何も言えなくなった。
「・・・」
「どうしたの?なにか困ってるの?」
「・・・」
「お父さん・・・おとうさん・・・」
手で顔を覆って、かすみが泣き崩れてしゃがみ込んだ。
指に絆創膏が巻いてあった。どうした?薔薇のトゲでも刺さったのか。子どもの頃、絆創膏を巻くのはお父さんの役目だったな。剥がれそうじゃないか。もう一度、巻きなおそう。俺にやらせてくれ。財布を見たが、今日に限って――絆創膏はなかった。
* * *
隠れて見ていた大塚は、眼を丸くして、かすみの泣き崩れる様子を凝視していた。すぐさま、目の前の自動販売機でビールを買って、一気飲みした。
* * *
「すまん、かすみ・・・すまん・・・」
しゃがみ込んだかすみの背中を、さすってやることぐらいしか出来なかった。
ポケットにクシャクシャのハンカチがあったので、それを渡した。
かすみは受け取って、一度、目に押し当てた。
が、泣きながらも、ハンカチをピンと張り、膝の上で綺麗に四つに畳んで、丁寧に皺を伸ばし、また目に当てた。
すまん。――そんなものしかなくて。
「田村さ~ん。何処へ行ったかと思ったらここにいたの?・・・あれ、あんた娘さんじゃないか」
大塚が真っ赤な顔して走ってやって来た。
かすみは、涙を拭きながら立ち上がり、
「あ、大家さん。父がいつもお世話になってます」
深々とお辞儀をした。
「な~に、最近じゃこっちがお世話になっちゃって・・・」
大塚が馴れ馴れしく肩を組んできた。
「へへへ・・・今じゃ、飲み仲間ってヤツで・・・あ、でもね、心配することないよ。この人ね、今、付き合い程度にしか飲まないから。仕事に響いちゃマズイからって、早い時間で帰っちゃうんだよね・・・そっからが寂しくってね、こっちは、ハハハ」
田村が驚いて、
「大家さん」
と、言いかけるやいなや、
「あ、そうだ。美由紀ママに花を買って行こうか?なにがいいかな?」
大塚が聞いてきた。
「え?私は、やっぱり・・・カスミソウが・・・」
「じゃあ、それ包んでくれる?」
大塚がかすみに言った。
「はい。畏まりました」
かすみは店内に戻っていった。
大塚が肩を組んでいた手を外し、小声で聞いてきた。
「何処まで話した?」
「まだ、何も」
「よし!」
「大家さん・・・」
「明日、知り合いの社長に言って、面接して貰おう。街工場だけど、いいね」
「はい。私、金輪際、酒やめます」
「ありがとうございました」
と言って、かすみが大塚に花束を渡した。
「じゃあ、もう一軒行こうか。田村さん」
大塚が強引に田村を引っ張って歩いて行く。振り向きざまに花束を掲げて、
「ごめんね。お父さん、ちょっとだけお借りしまーす」
「すいません。父を、宜しくお願いします」
かすみが、いつもより深く深くお辞儀をして答えた。
大塚に腕を引っ張られ、連れて行かれながらも、
「ありがとうございます。なんと言っていいか・・・」
と、頭を下げた。
「知らんわ、もう・・・あんたにあげるよ。これ」
大塚からカスミソウを渡された。
「はあ・・・どうも・・・」
「あ~あ、また、かあちゃんに怒られるなぁ~」
「よく分かります」
「冗談じゃないよ・・・」
そう言って、先を歩いて行く大塚の足取りはふらついていた。
田村は歩きながら手に持ったカスミソウに目を落とした。
立ち止まって、ふと、振り返ると、
世界で一番大切な娘が、まだ、深々と頭を下げていた。
* *
その夜、田村はカスミソウの花束を握りしめて自宅のアパートに帰った。
「はあはあはあはあ」と肩で息をしながら、ドアを開け部屋に飛び込んだ。
走って帰ってきたから疲れている。というわけではない。
偉く興奮している。
確かに、体は疲れている。大塚との激闘で疲労困憊だ。
そんなことはどうでもいい。
とにかく、帰るやいなや、花瓶らしきものがないか探した。
昨日の焼酎の瓶が部屋中に転がっている。
これじゃダメだ。他にないか。
――あった。魔法瓶だ。
魔法瓶を流し台で入念に洗って新しい水を入れた。
それをローテーブルの真ん中に置いた。
花束をばらしてカスミソウを魔法瓶に刺した。
カスミソウをほぐして、バランスを整える。
足下にある競馬新聞と赤鉛筆を拾って、カスミソウをじっと見つめた。
競馬新聞を広げたが、これじゃダメだとすぐ捨てた。
クソー。何かないのか。他になにか!
――櫻田みどりだ。
壁に貼ってあるポスターを剥がし、裏の白い部分を表にして床に敷いた。
もう一度、魔法瓶に刺さっているカスミソウをじっと見た。
中腰になり赤鉛筆を立てた時、とくちゃん、かわちゃん、ヨッシーの顔がボヤっと浮かんだ。赤ら顔で陽気に歌っている三人が昨夜はここにいた。紙もペンも、何もないこの部屋に、魔法瓶とポスターと赤鉛筆を持ってきた。紙もペンもない俺のこの部屋に。アイツら、
「酔いどれ天使かっ」
吐く息と同時に出た。
カスミソウを凝視したあと、赤鉛筆を握り直しポスターの裏に描きはじめた。
一心不乱に描いた。無我夢中で描いた。
何かを見つけたかのように。
終




