土地神・弧之善(2)
「きゃあっ!」
急に脚が水路の水の中に引きずり込まれた。光月! と叫ぶ蓮の声は、水の膜を通してくぐもり、聞こえなくなる。咳込んだ息が、ゴボ、と水泡となって浮かんだ。
『満希……。漸く我が城にお前を呼び寄せることが出来た……』
水の中で光月の脚を引っ張って引きずり込んだのは、沢口だった。口許ににたあ、と笑みを浮かべ、光月に近寄る。その顔には鱗が浮いており、耳は大きなひれとなっていた。……明らかに異形である。
「満希って、誰の事!? それにあなた、誰!?」
『みつき、の名をもって生まれたお前は、我が恋人、満希の生まれ変わりだ』
沢口のような成りで光月を否定する、この人は誰だ。光月は怒りで叫んだ。
「そんな人の事、知らない! 私は弧之善様が生まれた時から見守ってくれた私でしかないし、私の心は弧之善様のものだわ! あなたなんて知らない!」
『思い出せ、満希。俺と共にあった時のことを。幸せだった、遠い日のことを』
「知らない、知らない! あなたなんて知らない! 勝手に代役にしないで! 私の人生は私のものだわ!」
手をブン! と大きく振り、近寄る沢口だった何か、を避ける。彼は苛立ったように眉を寄せ、妖しい呪文を口に載せた。
『我が恋人、満希の魂をここに。二つの魂の結合によって、お前と俺の婚儀を成すと、我、ミズサワの名で宣誓する!』
ミズサワ? ミズサワだって? それは葉子と東姫から聞かされた、人間の娘に恋をして彷徨う水神の名前だ。……じゃあ、沢口は水の神なの?
光月が混乱していると、体の内側から急速に力が抜けていく。意識が遠のく中、かすかに弧之善の声が聞こえたような気がした。
「光月殿! ミズサワ、止めろ! 魂を取り出しても、光月殿はお前のものにはならない!」
水の城に現れた弧之善が、ミズサワを止めに入る。ミズサワはその大きな水かきの付いた爪で、弧之善の腹を切りつけた。ううっ、と弧之善が苦し気な声を上げる。
「ふははは! 濡れた毛皮から水を含んで溶けてしまえ! 五百年来の念願を邪魔するやつなど、俺と満希の間には要らん!」
水の中で腹を切りつけられ、内包している神力が水に溶けだし、力を失っていく弧之善を置き去りに、ミズサワは光月の体からいとおしい満希の魂を抜いて城の奥へと進む。城の一番奥の間に横たわっているのは、満希の体だった。満希亡き後、ミズサワが神力で作り上げた、いとしい恋人の亡骸。
「ああ、満希。やっと君に再び会える時が来た。喜びに手が震えそうだよ、満希」
ミズサワは満希の横に跪くと、光月の体から取り出した満希の魂を高らかに持ち上げ、そっとその魂を満希の体に落とした。ふわっと緩やかに落ちゆく魂は、かつての主、満希の体に馴染み、吸い込まれる筈だった。しかし。
光り輝く魂は、満希の体に触れずにその間にパチッと赤い光を発した。魂は弾かれ、宙を舞う。
「くっ! 中身にまでやつの呪詛が! ええい、忌々しい!」
ミズサワは苛立ち気に立ち上がり、魂を高坏に安置すると、奥の間を出た。呪詛の根源、弧之善を完璧に殺すためである。
「弧之善様!」
「弧之善様、しっかりなさってください!」
水の中でミズサワによって傷つけられた弧之善は、寸でのところを駆けつけた煌と瑛によって岸辺に持ち上げられた。薄い神気を感じて、煌と瑛はお互いを見合い、頷いた。
「弧之善様に頂いた命、今いっとき、お預けいたします」
瑛がそう言うと、煌が先に、そして瑛も煌に続いて弧之善の体に手をかざした。二人の手と弧之善の体の間に赤い狐火が揺れ、弧之善に吸い込まれて行く。同時に煌と瑛は小さな狐の姿に変化していった。煌と瑛は、弧之善の神力で作り出された存在。神力が失われれば、形を保つことは出来ない。だが、二人はこの選択をした。弧之善が居なければ、月湧は保たれないのだ。
ふう、と瞼を持ちあげた弧之善の傍らに寄り添う二匹の狐。事情を察知した弧之善が二匹の頭を撫でた。
「……お前たちの決断を、無駄にはしない。待っていなさい、必ず光月殿を救ってみせる」
目に力を宿した弧之善は立ち上がり、水路を見つめた。水の奥からミズサワが浮かび上がってくるのが見える。きっと文字に込めた守りが光月の魂をミズサワから守ったからだろう。ミズサワは水面に浮かび上がると、弧之善を水の中に引きずり込んだ。
「俺と満希の永遠の道は邪魔させない! 邪魔をするならお前の命も満希の器の力にしてくれる!」
ザア! と鋭い爪を向けてくるミズサワに、弧之善は冷静に対処する。
「人は死して戻らぬ! お前の勝手で、新たな命の道を捻じ曲げてはならんと知っての行為か!」
「うるさい、うるさい! 焦がれんばかりの恋情を持ったこともない貴様になぞ、言われたくない!」
嘆きの嵐の中、ミズサワが半狂乱で弧之善に襲い掛かる。長い爪を振りかぶったミズサワに、弧之善は煌と瑛から戻った神力の全てをかけて、その塊をぶつけた。光の軌道が水を巻きこみ、渦を起こしてミズサワにぶつかる。衝撃でミズサワの体が吹っ飛び、水底深くの城の壁を崩した。奥の間の高坏に安置してあった光月の魂が振動に揺れ、ふわふわと宙に浮いた。
「光月殿、帰ろう。光月殿の命の旅路を、私に見守らせてくれ」
弧之善がそう言うと、光月の魂の覆っていた赤い光が呼応するかのように、魂を弧之善の手のひらに運んだ。
「満希……!」
「満希殿はおぬしの中に生きている。いい加減現実を見ろ、ミズサワ」
弧之善は残された力を揮い、水の城を後にした。
「光月、光月!」
ごうごうと嵐が吹き荒れる中、地上では通りかかった村人によって水路から引き上げられた光月の体が横たえられていた。その傍らには泣き叫ぶ蓮と、騒ぎを聞きつけて来た祖父母が居た。弧之善は水面に浮かび上がる前に手に捕らえた光月の魂を大事に持ったまま、気力を振り絞って光月の傍へと歩み寄った。煌と瑛の神力を戻してもらったとはいえ、水の中ではかなりの力を使った。
「光月……、殿……」
息の荒い中、いとおしそうに光月を見る弧之善に、蓮は半狂乱だ。
「にーちゃん、にーちゃん! 光月はどうなっちゃったの!? 俺の代わりに溺れた!?」
「蓮殿……。大丈夫だ、私が、……光月殿を救う」
横たわった光月の傍に跪いた弧之善が、胸の前で手を組む。手の中には水の城から救い出した光月の魂が光っていて、弧之善が祈りの言葉を詠唱する。
『我が名、弧之善において、竹村光月の人生を照らす光と成す。命よ、己が道へと戻れと、宣る!』
弧之善の宣誓により、光月の魂は輝かしいばかりに光を放ち、ミズサワが起こした嘆きの嵐によりなぎ倒された木々で荒れ果ててしまった辺り一帯を包み込む。その場にいた面々が驚きを持ってその様子を見つめていた。光月の魂は弧之善が組んだ手をゆっくりと光月の体に押し込んだことにより、その命を体に宿し、頬に赤みがさした。水に濡れたまつげがふう、と持ち上がり、ぼんやりとした目で中空を眺めた。
「光月! 光月!」
「光月ちゃん!」
駆け寄って自分を覗き込む蓮や祖父母を見透かして、光月は何処かを見た。
「……弧之善様……?」
ぽつりと零した名前を有したその人は、光月を見つめて淡く笑う。
「光月殿……。光月殿の心、私のものだと言ってくれて、嬉しかった」
「だって……、そうなんだもの……。弧之善様が狂ってしまう未来しかないと分かっていても、止められなかったわ……」
震える手をその人に向けて持ち上げる。しかしその手は、その人を捕らえられない。光月の手は、その人を求めて空をさまようが、どれだけ目に映る彼を捕らえようとしても、手には何も感じられない。
「その言葉、聞けて嬉しかった。もう、思い残すことはない」
「ねえ、やだよ!? これっきりお別れなんて嫌! 弧之善様、居なくならないで……!」
「月湧に託した名を、大事にしてくれ……」
空気に溶けるようにして残された言葉もまた、消えていく。手に触れられない体はどんどんその色を薄くしていき、最後にその場に溶け込むように消えた。弧之善様、と、彼の名を呼んだ光月の声もまた、空気に溶けた。




