東姫(4)
東姫の許からどうやって帰ったのかも覚えていない。気が付いたらバス停からトボトボとひび割れたアスファルトの坂道を、一人で上っていた。
……弧之善は、追いかけてこなかった。東姫が止めたのか、弧之善が自分の使命に向き合うことにしたのかどうかは分からない。もし弧之善が追いかけてきたとしても、今の光月は弧之善に、月湧に向き合ってもらうよう頼むしか、他に手立てがない。
弧之善が狂ってしまう未来を、作りたくなかった。誰だって、自分の見知った人が狂う未来を、見たくないと思うのは普通だろう。
カラカラ、と下駄を引きずって歩いていると、未知の前方左手にある、弧之善の社の鳥居から煌が出てきた。煌は戸惑った様子で、光月に話し掛けてくる。
「……なんで一人で帰って来てんだ」
「弧之善様、帰ってきてないのね……」
じゃあ、東姫とまだ話をしているんだろう。もしかして、仲直りしたかもしれない。俯いたままの光月を訝って、煌が話し掛ける。
「なんか……、あったのか?」
「煌さん。このままだと、弧之善様が狂っちゃうって、知ってたんだよね……?」
光月が聞くと、煌はハッとした顔になった。知ってたんだ。知ってて、煌と瑛は、弧之善様の行動を止めなかった。狛狐として、失格なのではないだろうか。
「神様のお付きとして、それは駄目なんじゃないのかな……。葉子ちゃんの方が、よっぽど弧之善様の事、考えてるよ……」
「なに言ってんだ。お前が、あの甘味で月湧を盛り上げて弧之善様の命に息を吹き込むって言ったから、俺たちは協力したんだぞ。あの甘味が完成して月湧に人が戻れば、弧之善様はまた人々にお心を砕くようになる。それが一番いい解決策だと思ったんだ。お前が言うように、弧之善様はご自分の生きる術とお前への気持ちをごっちゃにしておられる。ご自分の生きる道がはっきりすれば、お前への恋慕はなくなると思ったんだ」
「じゃあ、月湧に人が戻れば、弧之善様は神さまとしてちゃんと生きられるのね?」
光月の問いに、煌が、ああ、と頷く。一縷の望みが湧いてきた。そもそも、光月はそのつもりだったし、夏休みが半分終わり、秋祭りも近づいてきている。弧之善云々は関係なく、揚げシューに専念すればいい。
「分かったわ。私は私で、月湧を盛り上げることを考える。煌さんと瑛さんは、弧之善様を支えてあげて」
「言われなくたって、狛狐の役目は主を支えることなんだよ。お前が心配することじゃねえ」
コツン、と頭を叩かれて、そっか、と、光月はやっと微笑むことが出来た。
翌日、光月が揚げシューの練習をしていると、瑛が家を訪ねてきた。瑛は縦四つに折られ白い和紙を持っており、やさし気な微笑みを浮かべると、それを光月に手渡した。
「それは、弧之善様から託された、甘味の名前だよ」
揚げシューの名前。……そういえば、弧之善に頼んでいたんだった。和紙を開くと、そこには筆文字で、『月の化粧』と書いてあった。
「月の……けしょう?」
「けわい、と読むんだよ。意味は化粧する、という意味で、月をかたどった油揚げが色とりどりのクリームで飾られていることを意味しているそうだ」
けわい……。奥ゆかしい単語だし、カラフルなクリームのことをそうやって表現してもらったのは嬉しい。油揚げという和風の素材に、古風なネーミングをしてもらったのも嬉しかった。
「素敵な名前ですね……。名前に負けないように、ちゃんと作らなきゃ……」
「そうだね。それから、これは、弧之善様のこの品に込めた思いだよ」
そう言ってもう一通、折りたたまれた和紙を渡してくれた。そこには達筆な字で、『月湧の化粧うるはし宵の山 ひかり降らせよ雲のまにまに』と歌がつづられていた。
「これは……?」
「この歌は、月湧の山が錦に化粧することと、月のけわいの化粧のことを掛けている。どちらにも光が当たるよう、……つまり、人々の目に留まるようにと願っているんだ」
こんな歌まで贈ってくれるなんて……。胸が、ジン、と痺れて何も言えない。あんな風に別れたというのに、弧之善は約束を果たしてくれた。光月も、弧之善が元気になるように頑張らなければならない。
「届けて下さって、ありがとうございます……。弧之善様の気持ち、ちゃんと受け取りましたって、伝えてください」
「ふふ、受け取ったんだね。そう伝えて良いんだね?」
瑛が意味ありげな笑みを浮かべたので、えっ、と言葉が止まる。瑛が人差し指を口に当てて、歌のさらなる解説をしてくれた。
「この歌には、弧之善様の気持ちも込められている。……つまり、弧之善様(神さま)が、恋した月湧の月(光月殿)の為に、夜にももみじが見れるように命じているんだ。この意味を、光月殿は受け取るって言う事なんだね?」
「ええええ!? 弧之善様、全然反省してないじゃないですか! そんな気持ちのままでいたら、弧之善様が狂っちゃうって聞いたから、昨日、駄目だって言ったのに……」
眉尻を下げてそう言うと、両方取ればいいでしょう、と瑛は言った。
「恋愛って、恋焦がれて苦しいだけじゃないでしょう。相手が居なくても、穏やかにその人のことを思っていられたら、弧之善様は狂わない。むしろやさしい時間を過ごせると思うよ。光月殿が、そのように弧之善様に相対してあげればいいんじゃないかな」
瑛は穏やかな微笑みを浮かべてそう言うが、好きになったら一直線、相手が自分のことを見ていないなんて気づかなかった、思い込みの激しい光月には無理な話だ。
「駄目です、瑛さん……。私、そんな風に人を好きになったことないんだもん……。私を通り過ぎて行った人たちに、悲しい気持ちになったし、もし私と弧之善様の立場が逆だったら、私、弧之善様に残されてしまったら、心臓に穴が開いちゃうわ……。そんなのがずーっと続くなんて、耐えられない。ミズサワさまが狂っちゃったのは、当然だと思うんです……」
「光月殿……」
「ですから、葉子ちゃんが言うことは尤もだなって思って。……私は、人間らしく、村をスイーツで盛り上げて、弧之善様のお役に立とうと思うんです」
眉尻を下げて寂しそうに笑う光月に、瑛は、もう決めたの? と問う。
「そうです。そもそも葉子ちゃんの言う通り、私では不釣り合いですよ。弧之善様の熱が冷めたら、東姫と一緒になるように、瑛さんからも促して差し上げてくれませんか?」
「分かったよ。光月殿の気持ち、弧之善様に伝えよう」
瑛はそう言って、玄関から去って行く。光月は手に受け取った命名紙と短歌のつづられた和紙を眺めた。
(月……、かあ……)
弧之善が、自分のことを月のようなものだと言っていたことを思い出す。もしかして元気を取り戻して再び輝きたい、という思いも、この歌には込められているのではないかと思った。
(私は兎も角、弧之善様という月は輝かせなくっちゃ……)
光月は気持ちを改めて、命名紙を広げると、スケッチブックを引きずり出した。揚げシューのラッピングのデザインを考えなければならない。
(折角弧之善様が命名してくださったんだもの、月と紅葉がデザインされてた方が良いなあ。紅葉した山の上に満月とか?)
イメージ図を思い浮かぶだけ、スケッチブックに描いていく。パッケージに添えるリーフレットには贈られた和歌も添えたい。隠された意味は兎も角、ちゃんと月湧のことを歌ってくれた歌だから。
――――錦に化粧した月湧の山に月光が当たり、人々の目に留まりますよう。
美しい歌だな。こんな歌を貰った月のけわいを、ちゃんと仕上げないといけない。一度にたくさんのシューを作ったことのない光月は、改めてキッチンに向かった。




