東姫(3)
光月は驚いていた。三ヶ月前まで、あれほど心をときめかせていた彼に見向きもされなかったことに、こんなにも全く傷付いていないなんて。
(私って、本当に……)
なんて軽薄な女なんだろう。こんな女が、月湧を慈愛の心で見守り続け、光月を一途に想ってくれる弧之善に釣り合うのだろうか。
足が止まる。弧之善が光月の手をぐっと握った。
「光月殿、どうしたのだ」
弧之善は気遣わし気な表情でこちらを覗き込んでくる。一分の不安も見過ごすまいとするその瞳に、光月は苦い息を吐きだした。
「すみません……。……片想いしてた人が……、……いたので……」
あんなに会うのが楽しみだっただったのに、という気持ちから意識を背けたくて、目をぎゅっと瞑る。その様子が痛々しかったのか、弧之善がぐっと光月のことを掻き抱いた。
「……っ!」
「光月殿、すまない……っ。だが約束する。私は絶対に光月殿の前を通り過ぎたりしない。絶対に光月殿を繋ぎとめてみせる。だから光月殿のこれからを、私に託してくれないか」
耳元に聞こえた弧之善の声は、光月の運命を捻じ曲げた自責の念と、決して光月を諦めないという強い決意に満ちていた。弧之善によって運命を曲げられ、恋うた人すら夏の暑さに乾く水のように忘れる光月の痛みを塞ごうとするように、弧之善は全身で光月を求めた。光月もまた、その辛さを忘れたくて縋った。目の奥がじわりと熱くなる。
……弧之善は、光月が生涯を終えて居なくなっても、きっと光月のことを忘れないんだろう。そんな気がした。想われる身として、それはとても甘くて陶酔しそうな毒だ。でもその毒で弧之善の心をさいなむのだったら……? それでも光月の口から零れたのは、弧之善に縋る言葉だった。
「ぜったい……、絶対ですよ、弧之善様……っ。絶対私を諦めないでください……っ。弧之善様が諦めないで居てくれたら、……私は、自分に自信が持てる気がするから……っ」
ぎゅうぎゅうと抱き締めてくる弧之善の浴衣を涙で濡らして、光月は弧之善に応えた。弧之善は光月の頭にほおずりをして、抱き締める力をつよくした。その時。
「ほほ、わらわの前で、わらわを差し置いて、よくも睦まじい姿を見せるものよ。のう、弧之善」
鈴をころりと転がしたような声でそう聞こえて、光月は弧之善からパッと体を引きはがした。見るとそこには、ぬばたま色の長い髪の毛が美しい、白磁のような肌をした女性が佇んでいて、光月たちのことを見ていた。やわらかな微笑みを浮かべた瞳は月のカーブを描き、紅を履いた唇がなまめかしい。朱色に桜文模様を描いた豪奢な着物に負け名くらいの華やかなかんばせ。松模様の扇を持つ手指が華奢で細い。
「東姫。もう少し場を考えて出て来てはくれまいか」
「わらわの土地で、わらわを祀る祭りの最中に何を言う。場を考えよというならおぬしの方ではないのかえ、弧之善」
そう言って東姫はコロコロと笑う。弧之善を揶揄おうとする色が露わで、光月は自分があそこで弧之善に縋らなければ、もうちょっと弧之善が彼女を訪ねる体裁をと整えられたのだと思って、申し訳ない気持ちになった。弧之善は光月のその気持ちを分かったのか、光月の肩にやさしく触れた後、光月に向かっていた姿勢を東姫に向けて、まずは謝罪した。
「うむ、もう少し祭りを堪能してから改めて挨拶するつもりだったのだ。しかし、まだ宵の刻でもなかろうに、登場が早い理由はなんだ」
東姫は弧之善の言葉に、光月を見て目を細めた。
「そこなるものは人の子ではないかえ、弧之善。これは一体どうしたことじゃ」
「人の子ではあるが、私が再び人型を取れたのも、全ては光月殿のおかげなのだ。恩人と言っていい」
「ほう、恩人。ではおぬしは、恩人である人の子と、ああも熱烈な抱擁をするのかえ?」
熱烈、と言われてしまって、顔に火が付いたようだ。狛狐二人に見られるのは慣れたけど、それ以外の人に見られていたのはやはり恥ずかしい。
「光月殿が私に向き合ってくれたおかげで、私はもう一度生きようと思ったのだ。そういう御仁を、寄る辺としてはいけないのだろうか、東姫」
弧之善がそこまで言うと、東姫が、ほほほ、と面白そうに笑った。
「おぬしは人に対して真っ直ぐだった故、人に見捨てられた時はどうしようかと思ったぞえ。おぬしを見てくれる人間が現れて良かった。人の子よ、わらわからも礼を言う。弧之善に寄り添ってくれて感謝する」
「い、いえ、そんな……」
どっちかというと光月の失恋に寄り添ってくれたのが弧之善だ。だが、光月『が』弧之善『に』向き合った、なんて言われてしまって、それを修正できないでいる。弧之善がまだそう思っているのかな、と東姫との会話で感じたからだ。毎日挨拶していたことをそう思っているのだろう、未だに弧之善の中では『信仰心』と『恋情』がごっちゃになったままのようだ。それは光月としては少し寂しい。
「しかし、悠久の時を生きる我らにとって、人との恋情はあまりにも心をその時に残す力が強い。おぬしはそれでもいいと思うておるのかえ、のう、弧之善。ミズサワのように時を渡り、狂うてしまう可能性もあるやもしれぬじゃろう?」
「ミズサワさま……。月湧の水路の神さまですね、村の子に恋をしたっていう……」
「ミズサワを知っておるのかえ」
「あ、以前葉子さんに聞いて……」
光月がそう言うと、東姫は、そうであったか、と頷いた。
「そうじゃ、ミズサワはひとりの村の女子を好いた。女子はミズサワの許に嫁いだが、人の命は儚い。ミズサワは残されてしまったのじゃ。ミズサワは今でもその女子を忘れられずに土地をさまよっておる。永遠の命を持つ我らと人が想い合うということは、喪った悲しみに我らを残すという事なのじゃよ」
東姫の言に、再び言葉を失う。恋した人を忘れられずに彷徨っているミズサワは、どんなにか悲しいだろう。それと同じことを弧之善がしているのだと知って、光月は弧之善の顔を見た。……弧之善は意外にも悲壮感などをまとわず、穏やかにやさしく光月を見つめて光月の手を取ると、東姫に対した。
「あの時はミズサワの気持ちが分からなかったが、今なら彼の気持ちも理解できる。心を奪われるとは、理屈で左右できないことなのだ、東姫。触れる手から伝わる温度を、この身に無き血が狂おしいと滾るこの心こそ、私たちが人を眩しく見守る理由なのではないかと、そう思うのだ」
平常の心をもって長き時を渡る運命だったが、在りし日の稚児と触れ合って、それを覆し、この身に初めて生を受けたあの感動を、私はずっと忘れないだろう。
弧之善はしっかりとした眼差しで東姫を見てそう言った。東姫もまた、弧之善をしっかりと見ている。
「おぬしはいわば消えかかった魂。その身でありながら、どうして人の感情を宿したまま狂わずに在れると思うのかえ。そこなる者が死してなお、己を保てると信じているのかえ? 加えて神は、その婚姻を、魂をもって交わす。魂の種が違う人の子と無理な契りを交わせば、おぬしに帰る代償も大きかろう。それでも、そのいっときの気の迷いにわらわの気持ちを袖にすると言うのかえ?」
はっきりと通る声で発されたその言葉には愛執の念が込められていた。弧之善を通り越して光月をまっすぐに見つめるその視線で直ぐに気付いた。……この人は弧之善のことを好きなのだ。
それに、東姫によって言及された、光月の死後の話。……光月がこの世から居なくなっても、弧之善の人生は月湧があり続ける限り続く。その時に光月に想いを残さずに居られるか、そういう事を問うているのだろう。
……弧之善が、狂う? こんなにやさしくて、情深い人が?
光月は、自分が意識を手放した後のことを思ってぞっとした。そんな未来に、弧之善を追いやりたいわけではない。
「……わたし……」
「光月殿」
東姫が、光月を見た。弧之善の未来に息を震わせる。答えを迷う光月を、弧之善がしっかりと抱き締めた。
「東姫、今は未来のことについて案じないで欲しい。光月殿にとっては今が一番大事なのだ。私たちとは違う、一瞬の時を生きているのだ。その光月殿に、私は寄り添いたい」
穏やかな微笑みを浮かべて、弧之善は東姫に言った。ハッとして弧之善を見上げると、何もかもを包むような、……そう、神さまの顔をしていた。
これが、慈愛の気持ちなのか。己を犠牲にしてまでも、光月に寄り添うという、その気持ち……。それは恋なんかじゃない。神さましか持ちえない、慈愛であり、凡人である光月が持てない感情だ。光月はそっと、弧之善が囲う腕から離れた。弧之善が、光月を見る。
「弧之善様……、ううん、土地神様。私のことは忘れて、神様のしきたりに則って東姫と婚姻してください。やさしい弧之善様が狂うところなんて見たくない。弧之善様がいくら大丈夫だって言ったって、ミズサワさまっていう神様が狂っちゃった前例があるんだったら、自分を危険にさらしては駄目ですよ」
弧之善を見つめる光月の目に真剣を悟って、弧之善は大きく戦慄いた。
「光月殿! なにゆえそのようなことを言うのだ……! 我が希望、我が命! 光月殿を恋う気持ちを封じられたら、私は生きていけない!」
必死に光月を抱きとめようとする弧之善を、退ける。光月はきっぱりと言った。
「土地神様なんでしょう? だったら、月湧の(・)一人と(・)して(・・)、私を愛して。弧之善様が生きるには、それしかないんですよ」
弧之善が好きだと言った赤い椿の浴衣が、むなしい。光月は弧之善に背を向けて、その場から走り去った。




