東姫(2)
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「さ、出来たわ」
久子がそう言って浴衣の背中をポンと叩いた。鮮やかな椿が咲き誇る浴衣地に裏地が黄色の黒い帯を、正面で折って変形結びしている。前から見ると黒い地に黄色が射し色に見えてとても目を引く。鏡の前でまじまじと自分の姿を確認して、かああっ、と頬に熱が昇る。
照れるのは、普段上げない髪の所為だ。光月は首丈のボブなのだが、折角襟足を出して着物を着るのだからと、無造作ヘアのお団子にしてみた。襟足に小さなお団子しか出来なかったが、普段髪を上げ慣れていない所為で、やけに張り切っているように見える。それに、パリッとした柄に負けないように、メイクも普段を変えたし。
(いやいや、張り切ってるって思われたら、めちゃくちゃ恥ずかしいけど、これくらいじゃないと浴衣に負けるし、仕方ないことなの! 決して、別の意味じゃないから!!)
もはやどの方面に対する言い訳なのか分からない言い訳を内心して、家を出た。神社へ行くと、既に弧之善がそこに居て、その立ち姿に思わず見とれた。
弧之善の浴衣は様々な色合いの藍色の市松模様が配置されたデザインで実に清涼感漂うチョイスだ。帯はグレー。シックで銀髪が映える。
今まで見てきた狩衣姿とも洋装とも違い、『お出かけ』感が出ていて、照れくささが一層マシマシになる。
「では参ろうか、光月殿」
弧之善が社からこちらに歩み出ると、二匹の狛狐たちが行儀よく頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ、弧之善様」
「良い夜をお過ごしくださいませ」
えっ? 二人はいかないの?
そう思って弧之善を見ると、私だけでは役不足か、と不満そうに問われる。
「いやいやいやいや、そんなこと、全然ないですけど……!」
弧之善に会って以来、ずっと三人一緒だった。今日もてっきり四人で行くのだとばかり思っていたのに。恋愛偏差値0のOLが、急に異性と二人で夜に出掛けるというのは、なかなか高いハードル吹っかけてきたな!?
などという光月の動揺も知らず、弧之善はしれっと光月の手を取ると、鳥居を出た。
丁度日が暮れようとしており、西の山際の空がピンク色に染まっている。山で鳴く蝉しぐれの真っただ中を二人で歩いていく。夏特有の蒸し暑さも加わり、じわり、と汗がにじむようだった。
「……弧之善様、手ぇ、大丈夫ですか……」
「ん? 何もないが?」
緊張もあって手に汗をかいていると思うのだけど、弧之善は気にしないという。そういえば弧之善の手のひらからは汗などを感じない。やはり人間と作りが違うのかもしれない。人あらざるもの、という存在を、まじまじと感じる。
ねっとりとした夏の夕刻の中を、下駄をカタカタ鳴らしながら歩く。髪を上げてきて正解だった。普段着のTシャツやキャミソールのような通気性は、浴衣にはない。時折そよりと流れる風に襟足を攫ってもらって涼を得た。
「しかし、先程から光月殿から涼やかな香りがしている」
弧之善が、不意にそう言った。くん、と鼻を動かすと、事もあろうか光月のうなじに顔を埋めた。バクン! と心臓が跳ねあがる。
「ひゃっ! なにするんですか、弧之善様! 嗅ぐならこっち、こっちです!!」
バッと体を離して、弧之善の鼻先に手首を寄せる。家を出てくるときに涼の一端としてシトラスのコロンを振りかけてきたのだ。
「ふむ、爽やかな香りだ。蜜柑の房を破った時のような香りだ。香を付けていたのか」
「ちょっとは涼しくなるかと思って……」
でも、今ので体温が3度くらい上がった気がする。手にも汗をかいたのに、その外した手も、再び弧之善に攫われてしまうし、恥ずかしいことこの上ない。
「手、気持ち悪くないですか……」
「ないよ。光月殿のぬくもりがいとおしい」
目を細めて手にほおずりしながら言うもんだから、狐のやることだと分かっていても、辺りが暗くなっていて良かったと思う。
(はー、この狐さんめ。タラシか)
どくどくと打つ心臓の理由を乱暴に挿げ替えて、光月は弧之善の隣を歩いて行った。
ピーヒャラドンドン。懐かしい祭ばやしの音が聞こえて、光月の心は一気に浮き立った。
「綿あめ! イカ焼き! かき氷! フランクフルト!」
立ち並ぶ屋台の屋根を前に、光月は興奮状態だった。既に神社の参道には多くの人が溢れ、石畳の上はぎゅうぎゅうの人ごみだった。それでも暖簾に書かれた文字に興奮する光月を、弧之善は笑った。
「光月殿、食べ物ばかりではないか」
「私、食べること好きなんですよね。昔からよく食べる子で、おばあちゃんは大変だったと思います」
光月の言葉に弧之善は昔を思い出したようだった。
「そういえば、光月殿のままごとは、やけに食卓風景が多かったな。子供の遊びというものは、自分が親になって、人形や居ると仮定した人の世話をしたりすることもあると思うのだが、光月殿にはそれがなかった。いつも木の葉の皿にいろんなご馳走を並べてもらって、私はあれが食べれないことが非常に悔しかった」
懐かしそうな目で中空を見る弧之善が微笑む。そうやって光月を見守って、光月といろんな経験を分かち合いたいと思ってくれていたのだなあと思うと、今、こうやって二人で行動できて良かったと思う。
「私もですよ、弧之善様。あの頃コンちゃんが一番の遊び相手でしたから、コンちゃんが話せて、木の葉のお皿を受け取ってくれたらどんなにいいかと思ってました」
一番の友達のコンちゃんの口から言葉は発せられたらどんなにいいかと思ってた。コンちゃんのもふもふの手が人間の手だったらどんなにいいかと思ってた。……そう考えると、いま光月は、あの頃の願望の世界に居るのだなと、ふと思う。コンちゃんと喋り、コンちゃんと手を繋いでともに歩いている。あのころの夢の中に、今いるのだ。
「ふふふ……。あの頃の私に、大きくなったらコンちゃんと喋れるよ、って教えてあげたいです」
「私も、力のなかったあの頃に、光月殿に力を貰えると教えてやりたい」
二人は過去の自分に同じことを思っていた。顔を見合って、ふふふと笑う。くすぐったい。大事な友人とこうして顔を見て喋れることが奇跡のようだった。電車に乗った時に放された手が、大きな手に包まれる。
「しかし、あの頃のままでは嫌だぞ、光月殿。数々の想い人にしたような心の色を、私にも見せて欲しい」
ぐっと握られた手の力強さが、弧之善が何度も唱えてきた本気だという気持ちを伝えてくる。光月もきゅっと弧之善の手を握り返して、そうして見つめてくる目を見つめ返した。
「……弧之善様が求めるような気持ちかどうかは分からないですけど、最初にお会いした時の怒りは収まりました。それにこんなに平凡な私のことを好きだって言ってもらって、嬉しいんです。ずっと比べられて選ばれてこなかったから、比べもせずに好きだって言ってもらったのは、本当に初めてで嬉しいんです。……好きって気持ちかどうかは、分からないんですけど……」
最後、もにょもにょと口ごもったのはよくなかったかな。でも弧之善様には聞こえてたみたいで、尻尾をふりふりしててもおかしくなさそうな顔だった。ふふっと笑みがこぼれる。嬉しいな。弧之善様の『好き』がやっと心に浸透してきた感じ。しゅわしゅわ甘いソーダ水の中に浮かんでるみたい。弧之善様のすることは時々ちょっと刺激的だけど、でもそれも全部甘い。このまま浸かってたらふやけちゃうかな。そんな気持ちよさ。
「ねえ、弧之善様。綿あめ、半分こしましょう。弧之善様と一緒に食べたいです」
そう言って綿あめの屋台を指さした時、その視線の先にはっとする人を見つけてしまった。
……三ヶ月間、毎日帰りの電車で見続けてきたあの人。文庫のあの人。
彼は友達と喋りながらこちらに歩いてくる。蒼依にスマホを向けたあの時、隣に光月もいたんだから、少しくらいは反応するかもしれない。蒼依にスマホを向けられて驚いた顔をした、光月のことを……。
友達とのおしゃべりが途切れない彼が歩み進んでくる。光月たちもまた、神社の奥の方へと進んで行く。
「でさー、…………」
スッと彼のシャツの袖の先が光月の浴衣の袖に当たった。でも彼はものの見事に光月の横を通り過ぎて行った。
「…………」




