カシスリキュールとオレンジジュース(キャラ紹介画像アリ)
「――そうなんだよね……。何ていうか、初めて会ったのに、初めて会った感じがしなかったの。とにかく、この人のことは、自分より大事にできるっていう確信があったんだ。今思えば、あれが〈運命〉だったんだなって……」
小さな秘密のバー【追憶の砂時計】のカウンターで、朝奈がうっとりとそう述懐していると――……。
細い煙草を咥えた夜香が、両鼻から紫煙をむはあっと豪快に吐き出した。
「……何それ? 突っ込み待ち?」
眇めた目でこちらを眺めている夜香に、朝奈はぷっと膨れた。
「夜香ちゃんは冷めすぎだよっ。運命とか、信じてないの?」
「一回も信じたことねえわ……。てかさ、もう何年も会えてないんだから、それ運命じゃなくない? 運命なら、もっと会えそうなもんじゃないのよ……」
痛いところを衝かれて、朝奈がますます頬を膨らませる。
「それはそうかもしれないけど……。でも、今でもたまに夢に見たりするし。あたしは彼が幸せでいてくれたらそれでいいんだもんっ」
「ふぅーん……」
つまらなそうに肩をすくめたが、素っ気ない割に、夜香は何百回でも朝奈のこの同じ話を聞いてくれる。
もう、いつどこで初めて会ったかも判然としない――……、朝奈の切ない、片思いの彼の話を。
すると、朝奈達の話を聞きながら朝ご飯を作ってくれていた昼恵が、明るく声をかけてきた。
「はぁい、お粥できたわよぉ。熱いから、舌を火傷しないように気をつけてね」
昨夜は客が来なくて、手持無沙汰になり過ぎて、三姉妹揃って深酒してしまったのだ。
最終的には裸足でカウンターに上がって三人で踊りまくったのだが……あれはいったい何のテンションだったんだろう?
酒酔いというのは、時に謎である。
昼恵が丁寧に出汁から取ってくれた、芹が添えられた鱈のお粥は、酒に疲れた胃袋の底から温まるようだった。
朝奈達は、肩を並べて舌鼓を打った。
「ん~っ。やっぱり昼恵ちゃんの作る朝ご飯って美味しい。ほんと最高過ぎ……」
「昨日は自分の朝ご飯が最高って言ってなかった?」
「いいんだもーん。〈最高〉はいつでも更新されるために存在するのでありますよっ」
朝奈が言うと、昼恵がにこにこ笑って言った。
「でも、『美味しい』って言われるより嬉しい誉め言葉はないわ。朝奈ちゃんのそういう素直なところ、好きよ」
「へっへっへ」
昼恵に優しく頭を撫でられ、朝奈がにやにやしていると、ふいに夜香が昼恵に訊いた。
「そういえば、昼恵ちゃんは?」
「え?」
「運命とか、信じてるの?」
夜香に訊かれ、昼恵が小首を傾げる。
「そうねえ……」
鱈の旨みが浸み出したお粥を頬張り終えた昼恵が、柔らかな声で答えた。
「信じる人が幸せになる運命なら、いいんじゃない?」
「ほえー……。なるほど……。深いですな……」
何だか含蓄のありそうな昼恵の回答に朝奈が唸っていると、夜香が隣で眉を上げる。
「……ん? それ、答えになってなくない?」
「ふふふ」
意味深に微笑んで、昼恵が曖昧に濁す。
夜香は肩をすくめて、独り言のように呟いた。
「……ま、もし運命なんてもんがあるなら、あたしは朝奈が幸せになれる運命がいいけどね」
「ん? お? もしかして夜香ちゃん、今いいこと言ったぁ――……?」
朝奈が声を上げた、その時だった。
この所在地不明の隠れ家バー【追憶の砂時計】に備えつけられた、たった一つ外界と繋がるエレベーターが……、大仰な音を立てて軋み始めた。
話したいことのある、〈誰か〉を乗せて。
「あぁ……、お客さんか」
「そうみたいね……」
三姉妹は食器を片づけ、来訪者が現れるのを待ったのだった――。
++ ♢ ++
(……今度こそは〈違う〉って思ったのに。何であたしって、いっつもこうなるんだろう……?)
降下していくエレベーターの中で、【井上智咲】は、恒例の一人反省会を繰り広げていた。
そう――確かに今回の彼は、いつもと違う気がした。
最初からいきなり好きになり過ぎなかったし、彼がどんな人柄か、よくわかっているつもりでいた。
……でも、そんなのは、〈つもり〉でしかなかった。
蓋を開けてみたら、智咲はまたいつもと変わらない――いや、いつも以上のドツボにハマッて、出るに出られなくなっていた。
苦しくて切なくて恨んで憤って、自分をひたすらにこき下ろして駄目出しして嫌いになる……そんな自己嫌悪の毎日に陥って。
(あああっ、駄目だ! また脳内で独り言劇場始まっちゃってるよ……)
こんな時は、清々(せいせい)するまで気持ちを外に吐き出してしまった方がいい。
そう思って、母親か、妹か、それとも親友に電話をかけようとした――、その時だった。
乗っているエレベーターがどこかの階に停まり、格子扉が開く。
橙色の光に照らされたどこかの地下店舗――どうやらバーのようだ――を眺めて、どこか不思議に思いながらも、智咲はエレベーターを降りた。
何となく……自分はこのバーに来るためにエレベーターに乗ったのだという確信があった。
♢ 〇 ♢
「……このバーって、三人でやってらっしゃるんですね」
少しよそいきな口調で智咲が言うと、朝奈というポニーテールの女の子が頷いた。
「そうなんすよー! 営業時間とか、マジ適当っすけどね。お客さんが来た時が営業中って感じで……」
その朝奈が、薄くスライスしたポテトを手際よく油で揚げて、智咲の前に出してくれる。
軽く塩を振った揚げたてのポテトチップはパリパリと食感がよくて香ばしく、後引く味で何枚でも食べられてしまう。
家でするみたいに箸でポテトチップを食べる智咲に、黒髪のロングヘアを揺らした大人っぽい雰囲気の夜香という女が、注文したカシスオレンジを差し出してくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
一口飲んでみると、オレンジジュースの濃度がかなり高めで、甘くて美味しい。
いきなり強いお酒を頼むと男に引かれる気がして、智咲は、いつもファーストオーダーでは無難オブ無難なカシオレにするのだが――。
まあ、これはこれで、飲み慣れれば悪くない。
カシスオレンジで甘みを補充してポテトチップの塩分で舌を焼いて……と無限ループを繰り返している智咲に、隣の席に座った昼恵が声をかけてくる。
「それで、智咲ちゃんは何があったの?」
「え……?」
「言わなくてもわかるわ。誰かに話したいことがあるんでしょう? そういう人が、うちの店に来るの。ね、最初っから全部、ここで吐き出していっちゃいなさい。きっとすっきりするわ」
割烹着を着た昼恵におっとりとした声で勧められ、どうしてか、智咲もそうするのが自然なことのような気がしてくる。
何を話そう――何を話したいんだっけ。
そう考えていると、バーカウンターに乗せられた砂時計のオブジェが、ふいに輝きを増した。
それと同時に、気がつかないくらいの緩やかさで、店内の照明が絞られていく。
智咲は、自分のつまらない話を、それでも少しずつ話し始めた。
話す度に、その言葉一つ一つが、映像となって砂時計の落とす砂粒に映し出されていく……。