兎の目玉(上)
俺の暮らす集落では主に兎を喰う。みんな兎を狩っては首を刎ねて胴や四肢を喰らって生きている。当然俺も兎を喰う。そして兎の部位で一番おいしいのは目玉なのである。俺はいつもこいつらの二つ目玉を楽しみに狩をする。兎の目玉は可愛いし、何より食感が良い。舌触りなんか、今まで食べてきたものの中で一等俺を喜ばせるのだ。他の喰いもんなんかこれと比べてしまったら気持ち悪くって喉を通らない。俺は兎の目玉が大好きなのだ。
だがそのせいで問題がある。この集落に住む奴は兎を喰らうときにまず兎の首を切って肉の方を調理するが、悲しいことにちょん切られた頭の方は調理されないのだ。どうなるのかというと、集落の人間がそれを神聖なものとして扱いだして神棚に飾り、念仏を唱えあげくの果て踊り出す。俺には意味が分からなかった。死体に祈って何の意味があるのだろう。いや、そんなことはどうでもいいのだ。俺にはその棚の上に並ばされた兎の頭の、目玉を喰いたくてしょうがないのだ。せっかくの食料をどうしてわざわざあんな高いところへ置いてしまうのか。俺は兎の目玉が大好きだ。でもみんながそれを気高く神聖なものとして扱うから、目玉を欲する俺はいつもコソコソしなければならない。同じ土地で生まれたのに酷いもんだ。
六歳の時、俺は初めて兎の目玉を喰った。ただの興味本位といたずらだった。その時から祈りの儀式を非常に面倒な作業だと思っていて、何をそんなに必死に兎に向かってひれ伏すのか知らん。夜の儀式がおわると、皆がいなくなったところを見計らって兎の目玉をくりぬいた。可愛かったからグロテスクとかはあまり思わず、そのあとなんとなく口に突っ込んでみると、なんということだろうか、絶品なのだ。今迄に食ってきた飯がどんなにまずいものであったのか、そこではっきり自覚した。その日俺はあまりの衝撃で全く眠れずに、薄っぺらい布団を抜け出して夜の道を走った。そのとき程すがすがしく心地よい風は初めてだった。思い返すたびに俺は両手を広げたくなる。俺はあのとき、村の陰湿な掟からつかの間開放された気分になった。自分の人生が始まった気がした。俺はその日から、自分で狩った兎の頭は儀式に使わないで目玉を喰うようになった。村のやつらは傲慢だから、頭の提出率が悪い俺を見下していた。
俺の暮らす集落では二十歳になると成人として認められ、これまた儀式が行われる。その日には普段よりずっと多い兎の頭を飾って祈りをささげ、成人を祝うのだ。死体の頭で祝い事をするなんて気が狂っているんじゃないかと俺は毎年思う。成人する奴らが狩った一年分の兎の頭を使うから、俺は成人する年の一年間、無理やりにでも兎の頭を回収された。だから二十歳になったその年は最悪だった。
成人式の日、集落の若者全員が集められた。とんでもない量の兎の頭が俺たちを囲んでいる。兎の眼に瞼は下ろされず、ただ陰湿な瞳たちが成人する者たちを見るともなく見ている。俺からしたら御馳走に囲まれているも等しい状態だったが、食べることの出来ないただの死体だとすれば気味悪い。周りのやつらの反応は様々で、汗をかいて必死に手を握って眼を瞑ってごにょごにょ言う奴とか、ビビッて冷や汗ばかりかくやつとか、兎の頭に何の関心もなく、結婚できるようになったことにはしゃいだりする奴(この村では成人すると結婚が許される)とか色々いた気がする。俺は兎の目玉を喰いたくってしょうがないだけだった。何といっても、一年間てんで喰うことが出来なかった目玉が、今、目の前に大量に陳列されているのだ。俺は周りのやつと違う意味でずっと冷や汗をかいていた。俺が兎の目玉を好物にしていることはまだ誰にも知られていなかった。時々、提出する兎の頭に眼球が入っていないことを訊かれる事もあったが、黙りこくったりテキトウな返事をしておけば丸く収まった。みんなこう思うからだ。「あいつとは話が通じない。放っておけ」
村長が俺たちの居るとこより一段上に登って、なにやら話始めた。村長の方にも兎の頭の輪は広がっている。俺は兎の目玉が眼に入ってどうしても喰ってしまいたい。俺は周りのやつと違う意味で固く目を瞑った。次目を開けてしまったら、もう耐えられないと思った。瞼の裏は真っ黒なだけだ。俺は飢えているのだ。俺は飢えているのだ。
目を瞑ると、周りのやつらのこそこそ話がよく聞こえてくる。「兎の神様、兎の神様、どうか僕らの未来にご加護を…」「なぁ、どうして俺ら兎の頭に囲まれてんの?怖いんだけど」「ねぇねぇ、私村の連中の中だったらあいつが一番ハンサムだと思うのよね」「えー、あいつぅ?どこがいいのよ」「村長、いつにもまして話長くね」「怖いなぁ、早く終わんないかなぁ」「兎の神様……」
「コラァッ!!」
しん、と静まり返る。
「そこのお前!私の話の途中で居眠りするなんて、失礼だと思わないのかっ!」
俺は瞼を開いた。白んで眩しかった。なぜ雑談と悪口をしていた奴らではなく、俺がキレられているんだろう。俺は最初にそう思った。その次に、ここは適当に謝っておけば済む場面だと気づいた。俺は盛大に溜まっていた溜息を殺す。
「……すいませ」
「全く、お前はいつもこうだ。兎の神様のお頭を提出しない、人が苦労して活動しているときに一人でさぼってやがるし……成人したからって、油断するんじゃないぞ。お前なんか、私たちにとって迷惑でしかないんだ。誰のおかげでここまで生きてこれたと思っている」
確かにそうだ。俺に反論の余地などない。産まれてきてからこの日まで、俺は人の役に立ったことが一度でもあっただろうか。どうやっても人並みに届かず、見よう見まねに行動すれば気味悪がられ、ずっと迷惑ばかりかけていた。だから村長の言っていることは正しい。そうだ、正しいんだ......
俺は立ち上がった。仕方ない、と思った。だって、仕方がないんだ。次、目を開けてしまったらどうするべきなのか、決めたんだ。
俺は歩き出した。気味悪がった連中は俺を避けて道を開ける。俺は兎の頭に近づいた。わしゃ、と兎の耳の付け根を掴んだ。どういう反応を皆がしたのかは分からない。俺は村の者を気にしなかったのか、それとも見せつけたかったのかすら覚えていない。俺は兎の頭を口に近づけて、そのまま眼球を喰らった。まずは右目だ。ずいぶん遠くの方で騒ぎ声が聞こえた気がする。それにしても久しぶりの目玉は美味い。いつもは顔から取り出してから喰っていたから、一口目嚙り付いたときにふわふわしている毛が気になった。そういえばこの兎は死んでもなお毛が抜け落ちないし柔らかい。俺はその発見をして少し嬉しくなったから、兎に顔をうずめた。そのときになぜか柔い毛は濡れた。だがこの時間もつかの間、まだ咀嚼も終わらないうちに俺は引っ張られて土に叩きつけられてしまった。拍子に兎の頭は飛んで行った。頭が痛い。グラグラする視野で見上げてみると、異物を見た人間の眼球がいくつも浮かび上がっていた。知らぬ間に後ろで手を縛られていた。冷たいものが顔に付いたから、なんだと思ったら誰かの唾だった。誰かに蹴っ飛ばされて大きな影が被さったと思った瞬間、大きな衝撃が走ってもう覚えていない。
酷く冷たいものが痛くって俺は目を覚ました。薄い意識が次第にはっきりしていき、冷たいものの正体は鉄の床であることが分かった。上体を起こすと足がやたらと重くて不思議だ。見ると左足に錆びた鎖と錘がつながっていた。…何だこれは。俺はなぜ鎖などつけられているんだ?叩いたり引っ張たりしても無論壊せない。鍵穴があるが、この状態では鍵の持ち主を探すこともままならない。どうしたものかと途方に暮れていると、どこからともなく足音が響いてきた。顔を上げるとこれまた錆びた鉄格子が俺を閉じ込めていた。ここは牢屋のような場所だろうか。足音が鉄格子の手前で止まる。何本もの棒を挟んでそいつは俺を見下ろした。
俺は訊いた。
「なぁ、何故俺は閉じ込められているんだ?」
彼は答えた。
「君はよっぽど鈍感だなぁ。それはね、兎の目玉なんか喰っちゃうからだよ」
彼はそう言って笑った。初めて聞く声だ。服装も見たことないし、きっと村の者ではない。
「お前は誰だ」
「おっと、失礼。僕は罪の裁きを生業としているんだ。よろしく」
彼はまた笑う。こいつは俺と同じくらい瘦せていて、でも身なりが上品で肌が真っ白だった。やたらと笑っているが何が愉快なのか分からない。むしろ不愉快である。俺は睨みつけた。
「何の刑に処されるんだ、俺は」
彼は大げさにのけぞった。いちいち苛立つ奴だ。
「いやぁ、そんな怖い目で見ないでよ。僕何にもしてないじゃん。あー、まぁ、ゴホン、えー気の毒だけど今んとこ死刑ね、君」
「何故だ。身に覚えがない」
「えー、だからさぁ」
彼はやれやれと言わんばかりに首を振った。
「きみぃ、知らないとは言わせないよ。この集落じゃ兎って神様らしいじゃん。君は神のおめめ喰っちゃたんだよ。捜査でわかったけど、日常的にもね。完全に異常者扱いになってるのよ」
彼は鉄格子を握ったまま子供みたいに体を前後に振っている。俺の一大事を退屈そうに語りやがる。それにしても、やはり俺は異常者扱いだったのか。今更驚くことでもないが、仮にこの状況を生きのびたとしても、あの場所へ帰ることは二度とないのだろう。そして俺には興味が沸いた。
「お前もそう思うか」
「え?」
「俺が異常者だと思うか」
彼はよじっていた体を元に戻した。俺は村の外の人間が俺の事をどう思うのか知りたかったのだ。
「僕は立場的に個人的な意見は言えないよ。まー、もっとうまく立ち回ればよかったのにとかは思うけどね。それに、君は神様を信じる人たちを侮辱したんだ。罪は重いよ……そんなことより、反省する気はない?死刑よりマシになる可能性はまだある」
彼の低い声は脅しを含んでいた。助かりたければ言うことを聞けと。彼はじっと黙って俺の返事を待った。しかし俺は彼の想定よりも早く答えを出したと思う。
「馬鹿らしい。いったい誰に向かって反省すればいいんだ。この世で最も愚かな死に方でも何でもしてやる」
俺は生まれてこの方、嘘をついたことが無かった。思ったことしか言えなかった。鉄格子の向こうの彼は時が止まったように動かなくなった。俺の考えなしに呆れて何も言えなくなったのか、困り果てて途方に暮れたのかよく分からないが立ったまましばらく何も言わなかった。なんだかとても長い時間に感じられたので俺は彼に声をかけようとしたが、それを遮るように彼はしゃがむと俺とおんなじ目線になった。よく見ると疲れ切った瞳がこちらを覗いた。意外にも怒りや苦労が渦巻く目だった。しかしそのおかげか彼の瞳が反射するのは明るく綺麗なもののように思えた。人間の顔を正面からちゃんと見るのはいつぶりだろうか。それでもこんなに美しい人は初めて見た。
「……ねぇ、…なんでそんなに愉快そうな顔するのさ」
彼は顔を歪ませて怪訝そうにした。俺は自分の顔を触った。確かに口角が上がっている。
「いや、お前みたいな色男に罪着せられんなら悪い気もしない気がしてきた…」
彼は顔で俺がどんなトンチンカンなことを言い放ったかを表現してみせた。と思うとしゃがんだまま後ろにぶっ倒れてのた打ち回り始めた。抱腹絶倒とはこのことか、と俺は座ったままその異常者を呆然と見たままだ。暫くして彼は起き上がるとしゃがんだ体制に戻り、錆び付いた鉄格子を握る。ヘラヘラまだ笑って呼吸が大変そうだった。
「ははは、死ぬ前に言うことかよ」
急に、がくっと項垂れた。俺は何もしないで見ている。彼は溜息を大きくついた。
「どうして僕らはこんな形でしか会えなかったのかな…」
意味の分からないことをほざく。
「まだ生きるつもりだろう、君」
ひどく呆れた、そしてどこか悲しげな声だった。
「当たり前のことを聞くな」
俺がそう答えると彼は顔を上げて歪に笑った。
「君を見込んで頼みがある」
「突然だな。俺を殺しに来たんじゃなかったのか」
「失礼な。君が死に走ったような発言さえしなければ僕は君を延命できたんだ。でも、君はどっちも気に入らないようだし……ここから逃がしてあげるよ。言うこと聞いてくれたらね。色男からのお願いだよ」
「内容は何だ」
「ここからずっと東に僕の故郷がある。春方村という。そこへ行ってある薬を妹に届けてほしいんだ。妹は僕に似てマジ美人だからすぐわかると思うけど、寝たきりだからそこんとこよろしく」
「どうして俺じゃなきゃいけないんだ?」
「この薬、希少すぎて見つかったら研究対象になるんだよ。なんでも治す薬って言われてる。国に知られたら地獄まで追いかけられる」
「身代わりかよ」
「や僕が言ってもいいんだけど、故郷に着くころには僕もう病気でどうなってるか分からないんだ。美人薄命さ。きっと僕はこの時のために生きてきたんだ。君は僕にとって初めての友達だ。ここを脱走した後の命の保証はあんま無い。僕は君に賭けた。僕はもうどうしようもない」
彼は真剣な眼差しで俺を見つめた。彼はみすぼらしい異常者に全てを託そうとしているのだと、鈍感な自分にも分かった。なんでもない口調で話していたのに、互いに黙ると空気は張り詰めていた。
「……」
「……」
「なんだ、お前も大概気が狂っていやがるな」
彼の瞳が輝いた。俺は歪に笑ってみせた。それを見て彼の口角も再び歪んでにやける。彼はいかにも怪しそうな袋とあらかじめ作ってあったらしい作戦付きの脱走ルート、それから彼の故郷までの地図をポケットから取り出して、鉄格子越しに俺に手渡した。彼は鍵で錘を解いた。鎖の外し方は知らないらしい。俺たちは立ち上がって、もう言葉も交わさずに並んで歩いた。
彼と別れた後、俺はひたすら走っていた。真夜中で、最初は自分の駆ける足音と息遣いしか聞こえなかったが、次第に自分を探す喧騒が響いてきた。構わず森林を走り続ける。ぜぇぜぇ走る。俺には絶対に捕まらない自信があった。あいつらは何も知らない。何もわかっちゃいない。あいつらは、遠くへ行く俺を、彼を、実は存在すらよく分からないままいつか忘れるのだ。錘は彼に断ち切ってもらった。鎖は引きずっている。裸足だから石や木の根が肉に食い込む。風を切る。東へ行く。
もう明るくなった。今、俺は川魚を喰っている。魚。久しぶりにものを食べている気がする。朝になってから喧騒はしばらく聞こえていないから、追手は撒けたらしい。
喰い終わると再び進む。今度は歩く。地図を見ると彼の故郷はまだ随分先だ。精巧な地図で俺はやや見惚れた。一時間も一緒にいなかった彼を何故か懐かしく思った。砂漠みたいにつまらない土地でも、ごつごつの岩石ばっかりでも、冷たいだけの雨が降っても耐えて歩き続ける。砂は砂で、岩石は岩石で、雨は雨で、ずっと何にも変わらないのだろう。
夢で彼の故郷に出会う。でもやっぱり目は覚める。人には会わない。兎にも会わない。どのくらいの時間がたったのかも分からない。ただ歩いていくと、やっと村が見えていた。近づくと、彼が記した故郷の特徴とよく似ている見た目だったから、やっと着いたと知った。
その村への入り口には門番がいて、いかにも無断で入ってはいけなさそうだった。俺は尋ねた。
「この村の名前は、春方であっているか」
門番は俺の身なりを見て訝し気だったが、
「ああ」
と頷いた。俺は地図に書いてある台詞をそのまま言い放った。
「俺はこの村を出て働いている者から伝言を預かっていて…この村一番の美人にそれを直接伝えるよう頼まれたのだ」
門番はさらに怪訝な顔つきになる。確かにこれだとただ美人に会いたい人みたいになってしまう。言葉を追加する。
「彼はその美人が病気を患っていることを知っていて、でも持ち場を離れられず、やむを得ず俺に伝言を頼んだという形だ。しかも俺の口から出ることが重要らしい。託されたんだ、お願いだ、面会の時間を頂けないか」
怪訝な顔つきの門番は、しかし心当たりがあるらしく自分より背の高い俺を見上げた。
「その伝言で、彼女の病気が治るとでもいうのか」
その口ぶりは、彼女がこの村で如何に大切にされているのかを示していた。俺は大きくうなずいた。
「ああ、必ず治る。保証する」
門番は少し逡巡したのち、俺を村に入れる決心をした。
「案内する」
そう言われたので俺は黙って後ろをくっついていった。
彼女が置かれているらしい家は、村の一番奥にあった。遠く隔離されて山に近く、木が影を作って薄暗い。彼女が居るらしい家の入口の幕を開けると、やたらと白いものが横たわっていた。外は晴れているけれど、ここだけは非常に薄暗く、彼女を悪い気配で取り囲んでいた。彼女は薄っぺらい毛布に埋もれて目を閉じている。門番は俺を中に入れるとまた外に出て行った。
俺は友人の、きっと最愛の人の枕元に座った。素早く薬を取り出す。書いてあった通りに水で溶いて彼女の口まで運んでやった。少しずつ、少しずつ飲ませようとしたが、全く飲み込む気配がない。もう死んでいるのではないかと思うほどにぐったりとしている。しかし事情があって諦める訳には行かない。ひたすら繰り返してようやく、彼女は嚥下した。それからひとつ、さざ波のような深呼吸をして彼女は眠った。その一呼吸は、彼女が今本当に久しぶりに眠ることを俺に分からせた。きっと、長い間眠りたくても苦しくて眠れなかったのだろう。
俺はその日、この村に一泊させてもらうことにした。ある男衆らとともに雑魚寝となった。皆やたらと話したがる。
「お前、すんごい身なりだなぁ。どこから来たん?」
「ずっと北からやってきた」
「なんて村の出身だい?」
俺は答えられなかった。俺は自分の生まれ故郷の名さえ知らなかった。興味もなかった。黙っていると他の男が口を開いた。
「来たと言えば、彼女の兄貴はそっち方面に就職に行ったんじゃないっけな。あいつは頭が切れるし色男だが…何分、性格がなぁ……」
あいつはやはり性格が欠点らしい。故郷でも散々な評価である。俺は少し小気味よくなった。
「どんな奴だったんだ」
皆顔を見合わせる。
「ガキの頃から女にモテやがってよぉ……」
「喧嘩っ早かったなぁ。しかも卑怯な手を使って勝ちまくっていた」
「計算が正確でしかも高速だから皆あいつに任せてたな。」
「ニッコニコしてたな、絶え間なく。気味が悪かった」
おおよそ彼と会った時と同じ印象である。
「兄弟はいたのか」
素知らぬふりで俺は訊いた。
「ああ、お前が突然看病した女が彼の妹だよ。美男美女で、村で特に目立つ兄妹だったなぁ。それが妹は病に倒れ、そうかと思うと兄貴が村を出ちまったからな…寂しいもんだよ」
「あいつ薄情もんだよな。身内ぶっ倒れてすぐ離れるか?」
「仲が悪かったらしいな」
「俺もその話聞いたぜ。なんでも、あのヘラヘラ男が妹の前でだけつめってぇ面でしゃっべてたの見たことある奴がいたってよ」
「え二人って仲いいんじゃないの?」
と口を挟んだ奴は一方から拳骨を喰らった。
「いや!あんな美人がヘラヘラ男と仲が良かったわけがねえ!てかそんなんじゃ困る!こっちは仲が悪いっていう証拠が挙がってんだ」
そうだそうだ、という声があがってなんだか変な方向へ話が収拾してしまった。実際は彼は妹のために稼ぎへ出て行ったんだろうけれど、彼はここにはもういないから皆知らない。それに最初こそ面白かったが、友達の悪口を聞くのはあまりいい気分にはならないらしいと知った。
皆が寝静まると俺は目がさえわたってしまった。ひとり布団を抜け出して外に出ることにした。彼女の様子を見に行こうと思ったのだ。
外はひっそりと静かで、自分の足音が響いた。真夜中の地面は月光に照らされて白く浮かび、家々は濃い影を落としている。前を見るとも俯くともなく地面を踏んで行く。彼女の居る家は山際に隔離されているせいでいっそう暗く見える。中を覗くと誰もいない。ただし彼女の靴は置いたままだ。一体どういうことだろうか。
彼女を探すために家を出ると、あたりを包む闇がさらに濃くなった。深海に入ったような気がして見上げると、月が完全に雲に隠れる瞬間だった。僅かな影も見えなくなって、ここがどこなのかすら分からなくなった。また月が顔を出すまで、俺はじっとしているべきだったのだ。
でもなぜか俺はよろめきながら歩き出した。方角に検討もつけず、何かに導かれるように一歩踏み出した。この闇さえ抜ければ、と思った。
再び月明かりが差して辺りが浮かんでくると、奥に白い着物を着た少女が背伸びしていた。彼女は裸足で大きな石の上に立っていた。黒髪が肩までかかっていた。彼女は両手を夜空に伸ばした。その先には白い月があった。掴もうという仕草が見えた。とたんに、彼女は消えてしまった。ドサッ、と音がして、俺は急に異世界から引き戻された気がした。落っこちたのだ。訳もわからないまま俺は駆け寄った。
石のある叢まで走ると、探し当てた彼女はうつ伏せになって伸びていた。こんな間抜けに落っこちることがあろうか、という程の情けないポーズであった。
「あの…大丈夫か?」
手を差し伸べると彼女は俺に初めて気が付いたらしくパッと上体を起こし、照れ臭そうに笑って俺の手をぎゅっとつかんだ。青白く頼りない指先と土の感触が残った。
「ああ、久しぶりに体を動かせたもんでつい……」
俺は彼女を立ち上がらせるために、くい、と引き上げようとしたが、彼女は動かなかった。俺は意外に思って彼女を見下ろした。彼女は俺を見上げていた。前髪の下のくぼんだ丸い瞳があらゆるものを吸収して輝きに満ちている。そんな瞳で真っすぐ俺を見つめてくるから、俺は慄いても見つめ返すことしかできなかった。それから彼女は嬉しそうに笑った。
「あなた、もしかして私を助けてくれた方ですか?」
「いえ、違います」
俺はあっさりと否定した。彼女は呆気にとられたかと思えば、ちょっと面白そうに口端をあげた。
「あなたの身なりここら辺の物じゃないでしょう。きっと私の兄の頼みでここまで来たのでしょう?」
「そうです。貴女のお兄さんが貴女を助けたんだ」
彼女は元気が出てきたらしく、差し伸べた俺の手などなかったかのように軽やかにぴょっん、と立ち直った。
闇の月明りは彼女をくっきりと照らした。まだ病み上がりで雪の白さの彼女は、それでも何かの健康さで満ちていた。彼女は突然頭を下げた。
「それじゃあ、あなたと兄のおかげですね。命を救っていただき、本当にありがとうございます」
俺は彼女の凛とした声だけ聴こえて、その意味が全く分からなかった。こんな風に感謝されることなんて、初めてのことだったのだ。いや、これは感謝なのか?俺が知らないだけで、ここの地域のなにかの皮肉ではないのか?
邪推でグワングワンになる頭を抱えた俺を、彼女は摩訶不思議そうに見上げた。それからふと気づいたように、
「ああ、お礼しなくてはね。いい歌を聴かせてあげます。祈りの歌ですよ」
彼女は一枚の着物の裾をふくらはぎの辺りではためかせ、先ほどの大きな石に飛び乗った。彼女はさらに瞳を輝かせて、雑木林ばかりのそのまた向こうを見透かした。このとき、彼女は森林と月明りの秘密になった。彼女は深く息を吸って声を乗せた。知らない言葉で、誰かと対話するように歌っていた。森はさざめいて、空気は震え上がった。
俺はただ彼女を見上げて立ち尽くしていた。懐かしい、しかし一度も聴いたことはないことはない歌だ。幼いころの夢や、誰かの優しさが脳裏をなぞった。
彼女の声が消え入ると、急に辺りは静かになり、閉じていた瞳は開かれ、彼女は微睡むように微笑んでいた。少し悲しそうでもあった。彼女の見つめる先には、そういえば彼女の兄がいるのだと思い出してそちらを振り向くと、チカっと眩しいものが光った。太陽が頭をのぞかせたのだ。さっきの月はどこへやら、夜の空気は颯爽と消え去り、太陽の光が普いて朝を告げた。彼女の悲しそうな表情だけ夜に置いてけぼりにされた気がした。しかし当の本人は両手を組んで思い切り空に伸ばすと、朝日をたっぷり受け取ってこちらを振り返って言った。
「どうです?あなた背が高いから、こんな風に見下ろされることあんまりないんじゃない?どう?面白い?」
彼女はいたって愉快そうである。俺を困らせたいのか。
「早く降りてきて」
思いつく限り最もつまらない解答をすると、彼女は渋々飛び降りた。
「ああ、なんということでしょう、旅の方」
目の前に座る村長と思われし老人は、滝のようにあふれる涙で己の立派な髭をびしょびしょに濡らしている。俺は左右からしきりに腕を引っ張られ、固く手を握られブンブン振られる。「いやぁ、実に良かった、良かった、あなたのおかげだ」「あなたがいなければわが村のヒロインは助からなかった」
村長の大きな家の中で、集まった村人たちはまだ日がてっぺんに上る前に宴会騒ぎとなっていた。見たこともない豪華な食事が次々に用意され、すでに酒を煽ってべろべろに寄っている者もいた。俺は酒なんて飲んだことが無いのに無理やり持たされた器にどぼどぼ注がれていく。俺は人間がこんな風に騒いでいるのを、未だかつて見たことが無い。珍しいあまりじっくり観察してみたくなる 。俺の居た村が陰気臭すぎたのか、ここが異常にうるさい村なのか、今のところ確かめるすべはない。
「なんだぁ、謙虚なやつだなぁ。こちらとしては、彼女をあなたに身請けて欲しいくらいなんだがなぁ、おい、こっちに連れてきとくれ」
先ほどぶりの彼女が人混みをかき分けかき分け連れられてきた。彼女は昨日の真っ白な服ではなく、皆が着ているような民族衣装を纏っていた。彼女は村長の隣に座って俺と向き合った。彼女のすまし顔は、いかにも初対面を装っている。朝に彼女と別れる前、「後で村長にまた会わされると思うから、その時は私が目を覚ましてから初めて会たっていう設定にしましょ」と耳打ちされたのだ。
「何故?」
俺は訊いた。
「この村、夜って家から出ちゃいけない慣習があるの。悪魔が出るとかなんとか。バレたら厄介なのよね」
なるほど、そういうことなら、と俺も彼女に合わせる。どこの村でもくだらん習慣はあるらしい。悪魔何てものわざわざ信じるのだから可笑しい。
「こんなに美しい子を隔離するなんて方法、実に心苦しかったのですが、ここの医療技術ではどうにもできず…」
今度は村長悲しみに沈んで、せっかく呼んだ村のヒロインを放って話し出す。
「病状がどんどん深刻になっていくさなか、あろうかことか彼女の兄は、自分の妹を残してここを出て行ってしまったのです。彼女は病気で、しかもあの家で独りぼっちだったのだ。なんてかわいそうなことよ。あの兄は、人の心がないんだ。一緒に住んでいると、あいつの病気がうつるんだとかいって、姿をくらましやがった。あんなやつ、わたしたちはもう同じ村の住人とは思っていません」
俺としては黙って聞くのに堪えがたい話だ。しかし何も言えることはない。彼からもらった地図の端にある注意事項に、こう書かれてあったのだ。
「どんな村にも一人は国の調査員が紛れ込んで、この薬を探している。妹が治っても、この薬の存在がばれてしまったら、彼女は研究対象になってしまうかもしれないし、君の身も危ないし、村の人達が関係を疑われてしまう。だから、彼女に飲ませたら即行、薬を捨てろ」
俺は黙っていなければいけない。すると、今まで沈黙を貫いていた彼女が初めて口を開いた。
「村長、その話はもういいでしょう。そんなに悪く言わなくていいじゃないですか」
「...ああ、なんて優しいんだ。でもね、家族だからってあんなのをかばわなくていいんだぞ。さあさ、このお方は君の命の恩人だ。挨拶なさい」
全く納得しそうにない彼女だったが、すぐに笑みを引っ張て来て言った。
「それじゃぁ、ここだと声が通りにくいから、庭の方まで一緒に行きましょう」
そういうと彼女は早速立ち上がって、有無を言わさず俺の腕をつかんだ。賑やかな宴会の端っこを早足で通り、村長の家の庭に着くとようやく彼女は俺を解放した。庭は広く、岩や見たことの無い花が所々に飾られて目を引いた。石で縁取られた池からは金色や紅に塗られた魚がこちらを覗いている。餌を待っているのだろうか。騒ぎが遠くから聞こえてきて、ここは未開の地のように思えた。
「皆、ああやって兄さんの悪口言うのよ。ここにいないからって。誰も口げんかで兄さんに勝てなかったしね」
彼女は俯いて砂利を蹴り飛ばした。
「病気になった時、兄さんは私の病状を見て、すぐにここの医療じゃ治らないと気づいたの。その時兄さんは、前やってきた商人の話を思い出したんだって。この世界には〈なんでも治せる薬〉っていうのが本当にあって、でもうちの国はそれをほとんど持っていないから、公正に流通させることが出来ないし、研究も進んでない。だから国はこの薬を血眼になって探しているっていうね。その商人はね、たぶん、その薬の在処を知っていたのよ。だから兄は彼を当てにしてこの村を出て、商人がいる町を訪ねに行ったの。莫大なお金が必要だろうから、自分の頭脳で稼ぐつもりでね。ホントに、いい兄を持ったのよ私は」
彼女の顔は晴れないままだ。悲しい目が兄そっくりだった。離れてもなお酒の匂いが鼻腔にちらついた。
「私も連れて行って欲しかった。こんな村、出ていきたい」
「どうして?」
「ここの村、変なのよ。すっごい顔面偏差値重視するの」
彼女は表情筋をひきつらせてべぇっ、と舌を見せた。
「美女美男であれば神女神天使扱い。出歩く度に土下座されるし理想押し付けられるのが当たり前だし、面倒だから冷たくすると過剰に悪い印象持たれるのよね。ほら、私なかなか美形でしょ。対象にされるのよ、村の厄介な風習の」
なるほど、この兄妹の顔面に対する確信に近い自信とさっぱりとした無頓着さは、「美形である」という長所のようでこの村では本人にとってかなりの仇となりうる環境が作り出したらしい。
「それにね、顔がいわゆる、不細工だとかバランスが悪いとか言われる形をしていたらね、それだけで奴隷にされたり見下されたりしなくちゃならないのよ。でも、こんな馬鹿げたしきたり作って平和そうに暮らしてるのは美形でも不細工でもない大多数の人達。それにみんな、自分の顔気にしてばっかで、こいつよりはましだ、神の顔には及ばないけど、奴隷よか良いはずって、そんなことばっかり考えてるの。過剰なのよ、皆。だから私、顔面偏差値では決まらない恋愛とか友情って見たことない」
彼女は怒ったように言葉を吐き切ると深く息を吸って空を仰いだ。宴会場から俺たちが戻らないでしばらく経ったことに気づき始める人の声が響いた。
「こんな村だから早く出ていってやりたいんだけど...なかなかそうもいかないわね」
「どうして?」
彼女は悲しそうに笑った。
「兄さんの帰りを待ってるのよ」
俺はとっさに言えなかった。「君の兄さんは病にかかっていて、今生きているか否か分からない」のだと。行く当てのない俺は、しばらくこの村に滞在することにした。言えないまま、安否を確認できないまま、月日だけが過ぎようとした。
彼女は村をひどく嫌っていた。だから外から来た俺に付いて回るようになった。
「ええー?兎の頭飾るの?あなたの所もけったいな風習なのね」
彼女は川の水に足を濡らして水遊びをしている。カンカン照りで水は煌めいた。俺はさっき手掴みで取った魚を焼いていた。
「俺は兎の目玉が大好きでよく食べていた。だから村を追い出されてしまった」
「ええー?」
彼女は輝く脚で水を繰った。
「兎の目玉なんて私食べたことないわ。何味?」
「目玉味」
俺は焼きあがった魚を彼女に差し出した。彼女は水から上がってきてこれを受け取ると、俺の傍までやってきて魚の腹に嚙り付いた。
「うま。兎の目玉って、魚よりうまい?」
俺も同様に嚙り付いた。
「ああ。でも不思議とあの村を出てから目玉以外のものも美味くなった気がする」
「あら」彼女は横で笑った。
「私たちって、地元愛がないね。桃源郷を目指している」
彼女はもぐもぐ口を動かしながら言う。
「どっちもクソくらえだけどね」
「食べながら喋るな…ん?」
私は村の入口にぞろぞろと人が入っていくのを認めた。全員都の同じ服を着ており、なんだか偉そうだなぁ、というのが第一印象であった。
「あの使節団、よく来るのか?」
「来てたまりますか、兄さんなら大歓迎なのだけど…いないようだわ」
俺は何か嫌な予感が胸のあたりをざわつかせていた。少し逃げてしまいたくなるような危機感を次第に膨らませて行ったが、それは確信に変わった。
川の上流の方から誰かが大声で叫んだ。
「おーい。都の使者様がお前たちをお呼びだぞー」
「サライト」
俺はその薬の名前を初めて耳にした。
「サライト、という薬をご存じかね」
俺と彼女は村長や村の者に見守られながら、都の使者とやらと対峙していた。彼らの先陣切っているのが、この眼鏡男だ。
「いいえ、知りません」
「私も」
俺も彼女もあの”なんでも治る薬”のことだろうとは勘づいていたが、国が勝手につけた名前なのだと思うと急に他人事のような気がしてきて自然に嘘をつけた。その薬のことを本当に知らないんじゃないかと自分で勘違いしそうになったくらいだ。そう考えると、物の名前を勝手につけるなんて少々滑稽に思えてくる。
「非常に貴重な薬ですので、見つけ次第国が管理する決まりとなっているのですが…お嬢さん、あなたのお兄さんがね、それを隠し持っていたのですよ」