1-2 オーディション
黒猫との生活。日常。アイドルデビューへの挑戦。
カレン・・・カレン・・・起きて・・・カレン・・・
誰かに優しく呼ばれたような気がして、カレンは静かに瞼をひらく。
ぼんやりとした視界の中で、周囲を見回す。いつもの位置に置いてある目覚まし時計を手繰り寄せる。
セットしたはずの時間からもう10分ほど過ぎている。
いつの間に止めたのだろうか。一テンポ置いてスマートフォンのアラームが鳴りはじめる。指先で画面に触れて停止させる。
今日のアルバイトは休みにしてもらった。アイドルグループのオーディションに参加するためだ。
歩いて窓辺に向かいカーテンを開けると柔らかい日差しが差し込んでくる。
とても良く晴れた朝だ。窓を開けて室内にフワリと吹き込んできた清々しい風を身体に纏いながら背伸びをした。
坂の上にあるこの住まいからは遠くに小さな公園が見える。近所のお年寄り夫婦がジャージ姿で体操をしている。良く見かける仲の良さそうな老夫婦だ。
窓の外の景色を眺めているとふわりと脛の辺りに柔らかく触れるように足元に黒猫がすり寄って来る。
猫の毛並みに撫でられて肌に心地良さを感じる。
「おはよう。マメタン」
カレンに名前を呼ばれて黒猫はにゃぁと挨拶するように小さく鳴いた。喉の奥をゴロゴロと鳴らしている。
雨の日にこの子を連れて帰ってきてもうすぐ一年になる。子猫の成長は早い。もうすっかり大きくなった。まとわり付く身体の面積が日に日に大きく広くなっていくのを実感しながら過ごしてきた。
神社で鳴いていた子猫を連れてきたあの日、カレンは自分の住まいを通り過ぎて大家の道子の家をびしょ濡れのまま、真っ先に訪ねた。借りている住まいで猫を飼うことをきちんと先に了解を得たかった。
カレンと子猫を抱いてびしょ濡れで訪ねてきた姿を見て道子は戸惑ったが、事情を聴いたり問い詰めたりするより先に、まずは自宅の中へと導き招きいれた。
道子がバスタオルを手渡すとカレンは自分より先に子猫の身体を優しく拭き上げた。
道子はお風呂を沸かすから入りなさいと言ってくれたが、カレンは借りたバスタオルに黒猫をくるんだまま、何より優先して猫を飼うことについての許可を道子に求めた。数秒の間、道子は思惑してカレンと猫の姿をしばらく眺めた後で、黙って首を縦に振った。
ありがとう。カレンはびしょ濡れのまま道子に満面の笑顔を返した。
改めて道子がお風呂に入っていくように提案するが、カレンは丁寧に断って自宅へと急いで戻る。
少し寂しそうに道子はその後ろ姿を玄関先で見送った。
カレンは固形のキャットフードと猫用の缶詰を専用の皿に準備する。黒猫=マメタンはとりわけこの缶詰を好んで食べた。いつでも切らさないようにバイト代を貰ったら、優先的にまとめて買い込んである。
その隣の皿に自分の朝食を用意する。先にダイヤルを回しておいたトースターがチンと鳴って食パンが焼きあがる。手早くハムエッグを焼いてその上に乗せる。冷蔵庫から取り出した野菜ジュースをグラスに注ぎ、それらを盆にひとまとめに乗せて低い丸テーブルへと運ぶ。食卓兼、ダイニングテーブル兼化粧台の簡素な丸テーブルはネット販売で購入したもので、簡易的なつくりだったが猫と自分だけの暮らしには特に不自由は無かった。猫の朝ごはんをテーブル脇に置いて並んで一緒に食べる。
「いただきます」黒猫=マメタンは必ずカレンのその言葉を待ってから、食事を始めた。
約1年前。子猫を拾った翌日の朝。カレンは子猫を連れて神社へと戻った。念の為この子の家族を探すためにもう一度行ってみた。神社の敷地内で子猫を離して自由に散策をさせながら、自分自身も神社の中を見て回った。
外に離されても子猫は走り去ることはなかった。カレンのことを振り返り気にしながら鼻をひくひくさせて周囲を散策していた。しばらくの間神社の中を歩き回っていたが、アルバイトの時間に遅れないように時間をみて一度自宅へと戻った。玄関先まで行くと、ちょうど隣に住む大家の道子が玄関先を箒で掃除していた。カレンの姿を見つけて駆け寄って来る。
「大丈夫だった?風邪ひいてない?}
「はい。だいじょうぶです。ありがとうございます」
道子はうんうんと頷きながら、カレンを見て、抱いている子猫の目線に合わせて少しかがむ。
「あんたも、風邪ひいてないかい?」そういって子猫の鼻先を人差し指で軽く触れた。
「ダイジョブだよね」かわりにカレンが答える。
満足そうな笑顔で道子は姿勢をもどして背を伸ばしてカレンに尋ねる。
「こんな早くからどこ行ってきたんだい?おさんぽ?」
「この子を拾った神社に行ってきました」
「神社?っていうと、この先の幸神社かい?」
「あ、はい。そうです。この子のお母さんが探しに来てるかもって思って」
「そうかい、で?いなかったかい」
「はい」
「そうかい」そう言って道子はまた腰を屈めて子猫の目線に高さを合わせる。
「じゃあ、あんたは今日から正式にカレンちゃんとこの子、になりな。よかったね。優しいママが見つかって」
もう一度鼻先を指でツンと押すと、子猫がむず痒そうに鼻息を漏らしながら顔をプルプル震わす。
「ふふ。可愛い顔してるじゃないの。で、どうるんだい?でかける時は」
「あ、この子は連れて行けないので、お家でお留守番させます。あ、良かったら時々見てもらえたりしますか?鍵、合鍵お渡ししますので」
「えぇ?あんた。そんな簡単に他人に鍵なんて渡すもんじゃないよ。ぶっそうな世の中なんだからね。でも、そうね。一人で家の中に閉じ込めて置くのもねぇ」
子猫の顔を見つめながら道子はすこし考え込んで、何か思いついたような顔をする。
「よし。じゃぁ、私のお店で預かってあげるよ。毎日お仕事の時は家にきて、帰りに迎えにくるといいわ」
「え?そんな・・・。そんな迷惑かけられません」
「なぁに、言ってるのさ、猫一匹いたくらいで何の手間もかからないよ。それよりうちに来るお客さんにも可愛がられて、お互いいいんじゃない?最近はアニマルセラピーとか言ってさ、年寄りが動物可愛がるのが良いらしいじゃない」
「あ、はぁ。でも・・・」
「いいからいいから。そうしましょう、ね。決まり。あんた。ちゃんといい子にしないさいよ?そそうしたらすぐ追い出すからね」
「え?!」
「冗談だよ。何心配してんの。私が責任もって預かっとくよ。昔猫飼ってたことあるから、心得はあるのよ?ってゆうかカレンちゃんこそ、トイレとか猫砂とかちゃと用意してあるの?」
「あ、いや。まだ・・・」
「ほら。私が今日のうちに用意しておくから、あなたは取り合えず仕事に行きなさい。後のことは任せておいて、ね?」
「でも・・・」
「でもも、ヘチマも無いわよ。それが一番いいのよきっと。大丈夫。無理だと思ったらすぐお返しするわ」
こうして黒猫=マメタンは日中は道子が経営する美容室の中で預かることになった。ある日店から抜け出して騒ぎになったことがあり、近所の老人達で捜索騒ぎになったことがある。たいていは神社か公園で遊んでいて、夕方カレンが帰る頃には美容室へと戻ってきた。カレンのバイト先まで現れたこともしょっちゅうある。
全然、面倒見れて無いじゃないの。と大家の娘でケーキ屋のオーナーである沢田弘恵が母に小言をいう場面もしばしばあった。ちゃんと戻って来るんだからいいじゃないのよ、と道子は応戦した。
どうやっても店を抜け出すし、それでもちゃんとご飯時には戻って来るのでそのうち誰も心配しなくなった。
「猫ってそんなもんなのよ。部屋に閉じ込めて置く方がよっぽど可哀そうでしょ」と道子は開き直る。
道子にしてみれば毎日カレンに二度も会えるという目的が達成されているので、猫がどこをほっつき歩こうがお構いなしで、カレンに毎日会えるのだから誰に何と言わたところで大いに満足だった。
それを見透かした弘恵がいつも呆れた顔をしていた。
時々母の様子を見に来る弘恵に誘われて、カレンと黒猫は道子の家に招かれて食事をする。
道子にとっては一番のお楽しみで、その日は朝から機嫌が良い。腕によりをかけて、張り切って準備をする。
「カレンちゃんがさぁ、東京に来たいって言った時、親から反対されなかったの?」
道子の家での食事会の時に弘恵が聞いたことがある。道子はあえて触れずにいたことだが、ズケズケと聞いた娘に眉をしかめながらも、気になる部分でもあったのでとりあえず黙っている。
「はい。応援してくれました」
「ふーん。でもさ、アイドルになるって言った時はさすがに何か言われたでしょ」
道子はまた渋い顔で上目遣いに娘の弘恵の顔を見る。けれども、ホントは答えを聞きたいのでやはり大人しくしている。
「いや、特には・・・」
「え、そうなの?なんで?とか聞かれなかった?」
「あ、はい。特には・・・」
「ふーん。てか、何でアイドルになりたいの?」
「もう。なんなの、あんたはさっきから、いいじゃないのさ、若い子が夢を抱いて生きるって。素敵なことじゃないのよ」
「良く言うわよ。私がもしそんなこと言ったら、お母さん絶対反対したでしょ」
「そりゃ、あんた。そうでしょうよ、あんたがアイドルなんてなれる筈ないんだから」
「うっわ。失礼ね。なによそれ。ねぇ?聞いた?今の発言。問題じゃない?」
カレンに同意を求める。
「あー。でも。普通は心配するんだと思います。そんなこと言い出したら」
カレンの言葉に道子と弘恵はつい顔を見合わせて沈黙してしまう。
「あ、変な意味じゃなくて。父も母も、ホントに応援してくれてんるんです。心配はすごくしてると思います。でも、自由にさせてくれてるんだとも思います。だから。ホント感謝してるんです。親には」
「ふーん。そっか。お母さん。そういえば会ったたんだよね。ご両親に。賃貸契約の時とか」
「ええ。素敵なご両親だったわよ。ご丁寧にお土産も下さったわ。あんたにもおすそわけしたじゃない」
「あー。そうそう。美味しかったわね、あの林檎。うん。すごい良かった。」
「はい。あの時、弘恵さんが焼いてくれたアップルパイも凄い美味しかったです」
「あー、あれは良かったわね。確かに」道子も頷く。
「でしょー?あれねお店の定番メニューにしたいと思ったくらいだもの。やっぱ違うわね、本場青森の林檎は。それに選ぶほうも流石って感じだったわ。すごくいい目してる」
「なーに。偉そうに。ねぇ」
「いえ、そう言っていただけて、きっと喜びます」
「ね、そうよね。母さんはいちいち細かいのよ。ねえねえ、それよりどうしてアイドルなの?小さい頃から憧れてたとか?学園祭でステージして気持ちよかったとか?」
「あ・・・そうですね・・・。小さい頃は憧れました。アイドルっていうか、近所のお姉さんに。すっごい歌が上手くて、綺麗で。地元のカラオケ大会でも活躍して有名で。憧れました。あんなふうにキラキラしたいって」
「なーるほどねー。そこで影響受けたってかんじね。そのお姉さんは?何かやってるの?芸能界にすすんだりした?」
「いや、そんなこともなくて、普通に結婚してお母さんやってます」
「あら。素敵じゃない。一番幸せよそれが」道子が口を挟む。
「なに?何言いたいの?なんかちょっとひっかかるんですけど」
「何って別にそういうつもりじゃないわよ、ねぇ?。あなたこそいちいち気にしすぎよ。つっかかってきて」「はーぁ、どこがよ」
くすくす。とカレンが笑い出す。ヒートアップしそうな親子が冷静さを取り戻して言い合いが一瞬止まる。
「あ、ごめんなさい。いつ見ても面白い。二人のかけあい。ホント。仲良しですよね」
道子と弘恵は互いに視線を交わして休戦協定を結ぶ。実際こうした場面があることで、二人はカレンに救われている。
母娘だけで会うと、今みたいに必ず喧嘩腰になって収拾がつかくなってしまうのだが、カレンを場に招き、間に挟むことによって大事に至らず最後まで食事を楽しむことが出来ているのだ。
「そっか。なにはともあれ。応援してるよ。私も。でもさ、アイドルになっちゃったらアルバイトどうするの?やめちゃったら少し困るな」
「なーに言ってんのよ。この子の夢の脚ひっぱってどうするのよ」
「いや、だってね。評判いいのよ。カレンちゃん。お店が明るくなるしさ。お客さんがみんなファンになっちゃう。お母さんだってその一人じゃん、わかるでしょ?」
「そだね。アタシがファン第一号だね」
道子はとても満足そうにそう言って笑顔になる。
「あ、ちょっと。それずるいな。まあでもしょうがないか、じゃあ私はファン二号ってとこだね。ホントに夢が叶ったらさ、うちのこと宣伝してよね」
「まーた、この子は。もう、やめなさいよ。みっともない」
「何がみっとも無いわけ?経営者として当然でしょうよ、ねぇ?。お母さんの美容室も宣伝してもらえば?」
「なーに言ってんのよ、そんなの迷惑でしょうよ、そんな変なお願いしませんよ私は」
「変なお願いってなんなのよ」
二人がまた言い争いをし始めて、カレンがクスクスと笑い出す。
道子と弘恵との食事会の様子を思い出しながらカレンは朝食のトーストを食べる。
時々黒猫の身体を撫でる。撫でられながら黒猫はたまに喉をゴロゴロと鳴らしながら自分専用の食器によそられた朝ごはんをハムハムと食べている。
アルバイトをしながら時々道子や弘恵と食事をして、猫と一緒に暮らす。この毎日がこのまま続いてもいいような気がしてくる。だけど自分が親元を離れて見知らぬ地で生活を始めたのは小さな幸せを探す為じゃない。窓の外に視線を移して晴れた東京の空を見る。今日は本当に天気がいい。雀のチュンチュンというさえずりが心地よく耳にひびく。
「よし」朝食を食べ終えると、早速出かける準備に取り掛かる。黒猫も食べ終わって毛づくろいを始めている。それぞれの食器を台所に運んで後片付けを済ます。洗顔歯磨きをしてメイクを整えて着替える。窓際で寝そべって日向ぼっこをしている黒猫に自分の顔を近づける。身体を低く、ヨガの猫のポーズのような恰好で近づくカレンに黒猫は身体を起こして目を合わせる。
「マメタン、私、がんばるからね」
身体を起こして外出の準備を進める。
しばらくして準備が整うと玄関先で靴を履きながら黒猫を呼んだ。
玄関を出て戸締りをして道子の家に向かう。黒猫は隣を歩いてついてくる。
「あらおはよう」
道子はいつものように玄関先を掃除している。
「道子さん。この子をお願いします」
「ハイ、かしこまりました。あれ?今日だっけ」
「はい。今からいってきます」
「よし、がんばるんだよ」
道子は小さく拳を突き出す。カレンもその拳に合わせてグーとグーを突き合わせる。
しゃがみこんで黒猫に話しかける。
「じゃあ。イイ子にしててね。マメタン」
そう言うと坂を下りはじめる。何度か振り返り、手を振る。
黒猫は大人しくその場でカレンを見送る。その隣に道子がしゃがみ込む。
「うまくいくといいね」
そう言って黒猫の頭を撫でながらカレンの姿を見送る。
カレンはアイドルオーディションの会場に向けて出発した。
坂を下りて駅へと向かう。途中、弘恵のケーキ屋に立ち寄ってあいさつする。激励を受けて駅へと向かう。その前に神社に立ち寄ってお参りもしてきた。黒猫と出会ったあの神社だ。
駅から駅へ、バスを乗り継いで目的のオーディション会場へと向かう。
オーディションの挑戦は今回で三回目だ。
一度目は緊張で何がどうなったかまるで覚えていない。
二度目は周り子達の出来の良さに圧倒されて満足なアピールが出来なかった。
そして三度目。今回はいくらか落ち着いている。
特にレッスンを受けている訳では無ない。時々ケーキ店のアルバイト仲間とカラオケに行って練習する。自宅で動画を見ながらダンスをしたり、歌を口ずさんだりして自己流で研究はしている。
受付を済ませて控室へと通される。会議テーブルとイスが複数並んでいる部屋にオーディション希望者が詰め込まれる。椅子に座ったり、立っていたり、誰かが入室する度に全員の視線が入口に注がれる。
カレンは壁際の空いているスペースに移動して背中を預けた。
「ふぅ~」深呼吸して気持ちを落ち着かせる。暫くしてスタッフが部屋に入ってきて簡単に説明をする。
受付で配布された番号順に10名づつ呼ばれていく。最初は20名呼ばれて、その後10名づつ入れ替わっていくようだ。カレンの番号は67番。番号札を握りしめて何度も見返す。
少しづつ人数が減っていき、椅子、テーブルが空き始めるので途中からそちらに移動した。
バックから小さな水筒を取り出してミネラルウォーターを口にする。唇が渇いてくるのでリップを塗る。
周りにいる女の子達は誰もが皆、可愛い子ばかり集まっているように見える。緊張の表情、落ち着いた表情、それぞれだ。イヤホンで何かを聞いていたり、口をパクパクさせて声を出さずに口ずさんでいたり、身体を動かして軽くダンスのリズムを取ったり。思い思いに順番を待っている。
「落ち着いてるね」
「え?」
隣に座った子が話しかけて来た。ポニーテールでボーイッシュな顔立ち。背丈はカレンと同じぐらい。目鼻立ちのくっきりはっきりした顔立ちをしている。目が大きく印象的で鼻は低くはないが小ぶりで顎のラインがすっきりしていて軽快でサッパリした印象を受ける。
「私、ケイコ。あなたは?」
「あ、わたしカレン。よろしくね」
「よろしく」
そう言って握手を求めてきた。
「ハー。何回受けても緊張する。」
「そうだね」
ケイコと名乗った少女はテーブルに肘をつけて腕組みをしてカレンを覗き込む。
「そのわりに落ち着いてるじゃん。緊張してるように見えない」
「そんなことないよっ。すごい心臓バクバク。頭真っ白」
「ふーん。ねね、今日は何歌うの?}
「えと・・・“ユリカモメ、カモネ、ダヨネ”」
「へー、そうなんだ。なんかイメージにあってそう。いいじゃん」
「え、そうかな。ケイコちゃんは?」
「私?“日本海岸旅しぐれ”」
「わ、難しそう」
「え、プレッシャーかけないでよね」
「あ、ごめんそんなつもりじゃ」
「うそうそ。冗談。私北国出身だからさ、気持ち入るかなって思って」
「あ、私も、北国出身」
「え、マジで。わーどこどこ?}
がちゃりとドアが開いてスタッフが入ってきて40番から50番が呼ばれる。
「あ、私行かなきゃ」
ケイコが慌てて立ち上がる。ふぅーと息を吐いて気持ちを落ち着けるようにして、チラリとカレンの方を見て、急いで出て行った。
カレンはその姿を見送る。次はカレンの組が呼ばれる番だ。
今回は課題曲として10曲の中から選択することになっている。それらの曲は全て、とあるプロデューサーが手掛けた曲だ。公にはなっていないが、今回はそのプロデューサーが選考に加わっている。
柴田謙。押しも押されぬ売れっ子プロデューサーで数々のトップグループを手掛けたヒットメーカーだ。
今最も勢いがあると言っていい。彼が送り出すユニットは全て成功を収めている。
しかし今回はそのことはメンバーには伏せられている。練習生数名募集。主催レーベル以外の情報はそれだけだ。15分程経って、ドアが開く。スタッフが60番台を呼びに来た。カレンは立ち上がり出口へと向かう。
会場の袖部分に立って待機する。自分達の前の10名が選考を始めている。さっき話をしたケイコの姿が見える。自己紹介と簡単なスピーチ。その後簡単な質問。全員にではない。気になった子だけに質問しているようだ。その後一人づつ前に出て選んだ曲を歌う。曲を歌わせて貰える長さは人によって違うようだ。ワンフレーズで止められる子。後半部分まで歌う子。力量または出来栄えに合わせて差が出ているようだ。
あ。カレンが反応する。さっき控室で会話したケイコの順番だ。話の途中で呼ばれてしまった。どこの出身なのか話の続きがしたかった。終わったら待っててくれないかな。などと冷静に思いをはせる余裕は無い。固唾をのんで見守る。次は自分達の番だ。
ケイコの歌はたった2フレーズで打ち切られた。明らかに悔しそうな表情を浮かべている。
何が良くなかったのかカレンにはわからない。低音をはらむ安定感のある声。ハスキーとまではいかない。今回選んだ演歌調の曲もマッチしているように感じた。実力をまるで発揮させてもらえず彼女の選考は終わってしまった。カレンは思わず喉を鳴らして息をのむ。
他の子達の歌声もレベルが高い。今回のオーディションでは事前に歌声を吹き込んだデータを提出して一次選考が行われていた。既にある程度選抜されたメンバーなのだ。歌声も確認したうえで呼ばれてる。
早めに歌を止められたメンバーは例外なくうなだれて落胆の表情を見せる。
ひととおりの歌唱審査が終わり、最後に気になる子にだけ追加の質問がはいる。手前の組は一人だけ質問された後、スタッフの案内で反対側の袖から出て言った。
すかさずカレン達が呼ばれる。
左から番号の若い順に整列する。
前の組と同じように自己紹介して、質問をされてから個別の歌唱審査に移る。カレンはサビまでは到達したがサビの1フレーズで止められた。
厳しい。ほとんどの子がまともに歌を聞いてもらえない。
さらにカレン達の組は追加の質問を受ける子すらいなかった。
誰もが失意を露わにして舞台から捌けていく。
カレンはすぐに気持ちを切り替えた。下手な鉄砲数うちゃ当たる。くよくよしても仕方がない。そもそも素人に毛が生えてもいない状態で臨んでいるのだから仕方が無い。ダメでもともと。厳しい世界だというのはわかっているつもりだ。皆が肩を落とす中、こざっぱりとした表情で前を向いて歩く。
まるで次のステージに進むかのような表情をしている。そんなカレンの顔つきを遠くからサングラス越しに見つめる姿がある。売れっ子プロデューサーの柴田謙だ。
会場を後にする。出口付近でさっき知り合ったケイコの姿を探す。同じ北国出身としてお茶でもして帰りたかった。が、見当たらない。さっさと帰ってしまったようだ。心残りだったが仕方が無い。
やっぱり、そう簡単じゃないか。カレンは妙にこざっぱりした気持ちで会場を後にする。緊張したりガチガチになっていたこれまでに比べたら上出来だ。落ち着いてやりとげた。次は個性をアピールする余裕が出来るような気がする。上出来上出来。そう自分にエールを送りながらバス停に向かった。
次回 1-3 覚醒