まち針
「やめてくれ、触らないで。
このままで良いんだ。
僕は、このままで」
石造りの廃墟にも似た館の広間で、その言葉に月明かりに照らされた白くか細い手は引いた。その先にあったのは、ぬいぐるみ。取れかけの耳とボタンがそのままになった、ゾウのぬいぐるみ。月の差し込む大きな窓の傍、何を見ているでもなくただ、外の方を向いている。明かりを灯さない大きなシャンデリアと、部屋のあちこちへ無造作に置かれたいくつもの蝋燭。その小さな明かりで知ることが出来るのは、だだっ広い部屋と蝋燭の装飾。しばらく佇んでぬいぐるみを見上げていた少女は、見向きもされない事に肩を落とし、寂しさを振り撒いて彼へ背を見せ続けた。
「あら、やっぱり駄目だったわね」
広間から出ると、女性が一人傍の椅子へ腰掛けていた。思い返せば、少女は入る時に会釈をしたような気がしていた。声を掛けられた彼女は、自然と女性へ歩んだ。
「落ち込む事無いわよ、皆そうだから。どこかの王女ですら、貴女と同じ、私も含めてね。今まで色んな人が来たわ、あの希少なキルトで縫われた特殊なぬいぐるみの彼を求めてね。女性も男性も、少女も少年も。でも、誰も彼を手に入れられない。だから、そんな顔しないで」
優しい笑顔と、温もりのある声。小さな本を片手に、女性は少女を気遣った。その温もりに強ばった表情が緩み、彼に拒絶された事実を受け止めて、少女は静かに涙した。声を殺して、溢れる涙を拭う彼女へ、女性は真っ白に青い刺繍の入ったハンカチを、そっと差し出した。
「大丈夫よ、それに私は安心したの。その扉から入ったまま、行方の知れなくなった少女もいるのよ。その広間の出口は、その扉と大きな窓だけ。帰りに何人も大怪我をした人を下で見つけたわ。きっと、無理矢理連れて帰ろうとしたのね。だから貴女がその扉から出て来て安心したの、家に帰って血だらけの貴女を取り繕うのは気が進まなかったし」
少女が涙を拭い終わり軽く鼻を啜ると、女性はハンカチへ手を伸ばしながら立ち上がった。そして微笑みながら彼女からハンカチを受け取ると、畳直して拭い切れていない涙へそっと添わせた。白い肌に赤くなった目と頬に鼻の少女が泣き止むと、ハンカチをしまって女性はまた椅子へ座り直した。
「彼も、救われて欲しいけれど。きっと、そんな人は現れないんでしょうね。彼は自分を作った女性を待っているの。いいえ待つのとは、少し違うわね。もう彼女は死んでしまったようだし、彼もそれを知っている。忘れたくないのとも、少し違う。忘れたら、自らのその重さに押し潰されることを知っているのね。彼は耳やボタンを直してくれる人よりも、自分に刺さっている彼女という無数の針を抜き取って、忘れたあとの自分を取り繕ってくれる人を探しているのかも。彼は、彼女を待っているって言っていたけれどね。聞いたら答えてくれたのよ。答えてくれるって事は、知って欲しいってこと。帰れとか、放っておけってする癖に、自分の事を忘れられるのは嫌なのよ。一人で居たいのに、独りになるのは嫌なのよ。だから、忘れられないように自分の事を話すの。貴女が彼に寄り添えるなら、また会いに来てあげて。長居は駄目よ、ここは冷えるから」
女性の話に少女は小さく頷いた後、帰り際に振り向いて会釈をして去って行った。少女へ手を振って見送った女性は一息つくと、徐ろに立ち上がりぬいぐるみの部屋へ入って行った。
「あの子、帰っちゃったわよ。
良いの?」
「良いじゃないか、今夜も冷えそうだし。
ジャクリーン、
君も雪に積もられる前に帰るんだ」
長い鼻でつんと押された女性は、「またね」とその場を後にした。彼女に触れられた鼻は、とても冷えていた。女性は螺旋階段を降りて扉を開けるまで、その冷えた温もりを手に握り締めて冷えて消えないようにと胸へ当て続けた。扉を開けると、外では少し雪が積もっていた。
「行方の知れなくなった少女、か。あの部屋へ入ったっきり、いつになれば帰って来るのかしらね」
終




