あやかし屋敷に堕ちた花
私の身体をまさぐる忍さまの大きな手の感触に、きつく目を閉じる。
ねだって灯りを消してもらったのに、障子紙の向こうから差し込んでくる月光が明るすぎて、顔がはっきり見えてしまうのが怖かった。
きっと私のみっともない顔も晒されてるのだろう。
虫の鳴き声がやけにうるさく感じて落ち着かない。
「今更嫌だと言っても駄目だぞ」
「わかってます」
そんな事は承知の上だ。
あまり色々言わないでほしい。せっかく覚悟を決めたのに、揺らいでしまうじゃないか。
忍さまの大きな掌が、首筋を確かめるように撫でていく。
長い指が、着物の合わせ目から胸元へと入り込んできた。
滲んだ汗で指先がつるりと滑って行くのがわかって、恥ずかしい。
「暑いのか?」
「……すこしだけ」
「障子を開けておくか?」
「やっ、だめっ」
私から体を離し、四つん這いの体勢になって障子を開けようとした忍さまに私は慌ててしがみつく。
障子を開けるなんて想像しただけで頭が沸騰しそうだ。明るい夏の夜は、隠し事には向かない。
「そんなにしがみつくな。動けないだろう……」
「だって」
お月さまにだって見られなくない、とかすれた声で訴えた唇が荒々しくふさがれた。
「千花、千花……」
くちづけの合間に私を呼ぶ忍さまの声に、胸の奥から仄暗い喜びが込み上げてくる。
「どうか、骨ひとつ残さず食べてくださいね」
***
「今日までお世話になりました!」
「千花!? お前っ! 待て!」
外した襷を土間に叩きつけ、私は店を飛び出した。
こんなこともあろうかと、少ないながらも大切な蓄えだけはいつも懐に入れていてよかった。
着物や小物など惜しい品が無いわけではないが、下手に荷物をまとめに戻ったら捕まってしまうかもしれない。
「誰があんなろくでなしの妾になんてなるものですか!」
両親を亡くし、身寄りのなくなった私を住み込みで雇ってくれた先代の旦那様には深い恩義がある。
まるで実の祖父のように可愛がってくれたし、年頃を過ぎても縁談の一つも見つからない私を案じて『かならずよい相手を見つけてやるからな』と言ってくれた優しい人だった。
流行病で呆気なく旅立たれてしまった時は、悲しくて寂しくて一晩中泣き通した。
その後を継いだ今の旦那様は誰もが認める、ろくでなし。
食い物に汚く、金遣いも荒いし、使用人に対する態度も悪く時には手を上げられる事も増えた。
もうこの店も長くないと、暇をもらって逃げ出した者も少なくなかった。
私は先代の残した店を捨てて逃げることや、長く一緒に働いた使用人仲間たちを見捨てる事ができなかった。
それに、ここより他に生きる場所はないのだ。
そんな私を、旦那様はちょうどいい玩具だとでも思ったのだろう。
「千花よ。お前を妾にしてやろう。顔立ちは地味だが、いい体をしている」
肉の厚い手のひらで尻を撫でまわされた時に思い切り殴っておけばよかったと今でも後悔している。
のらりくらりとかわし続けた事が仇となり、調子に乗った旦那様は私の部屋を離れに移すと言ってきた。
それも大勢の仲間たちがいる前で。
蔑みと憐みの入り混じった周囲の視線に耐えきれず、私は店を飛び出していた。
先代に渡された手紙を握りしめ、私は立派な門扉を見上げる。
『もしも私に何かあって、この店を出ていくときはここに行きなさい』
病に倒れた時に託された手紙の宛先を頼りに来たのは、乗合自動車を乗り継いで半日ほどの小さな村はずれ。
周りに民家はなく、鬱蒼とした林の入り口をふさぐように建てられたお屋敷は、見上げるほどに大きい。
「お店……じゃないわよね。宿って風でもないし……」
あまりの立派さに、本当にここかと何度も確かめる。
だが、表札には宛先同様に『堀籠』と書かれているから間違っていないとは思うのだけれど、自信はない。
こんな大きなお屋敷で雇ってもらえるほど、礼儀作法が身についているわけでも、特別な技術があるわけでもない。
見た目だって、若い娘のような華やかさもなく行き遅れと呼ばれるような年頃。
自信があるのは、無駄に明るい大きな声くらいだ。
何があっても笑顔を絶やすんじゃないと言ってくれた両親の言葉を思い出し、無理矢理に笑顔を作る。
門前払いを喰らうかもしれない。
それでも、もう他に頼る場所はないのだ。
先代の言葉を信じ、私はごめんください!と声を張り上げたのだった。
「千花、千花はいるか」
「はい、ただいま!!」
呼ばれて駆けつければ、忍さまはどこかむっすりとした顔をしている。
だがそれは怒っているわけではなく、生来そういう顔なのだと最近ようやく理解した。
堀籠家は古い名家で、忍さまは本来ならば当主になる立場なのだという。
だが身体に問題があるため、この別荘で療養していると教えられた。
とはいえ、背が高くたくましい体つきをしている忍さまのどこに問題があるのかと私はいつも首を傾げている。
顔立ちだってとても整っており、役者のようで素敵だと私はひっそりと憧れていた。
「何を呆けた顔をしてる? 茶を持ってこい。あとは墨だ」
「はい、ただいま」
少し口が悪いが、それだけだ。
手を上げる事もないし、理不尽なことは言わない。
昼間は殆ど部屋から出る事もなく、本を読んだり何かを書いたりしている。
大きなお屋敷だと言うのに仕える相手は忍さま一人ということもあり、このお屋敷で雇われてる使用人は私を含めてほんの数人だ。
長く働いている人ばかりで馴染めるかと心配だったが、優しい人ばかりで不安は杞憂に終わった。
仕事も忙しくなく、基本的には穏やかな日々。
忍さまは外から来た私が珍しいのだろう。
何かといえば、今日のように呼びつけては細々とした用事を言いつけてくる。
人を何だと思っているのだと呆れたこともあったが、それが嫌ではないと思ってしまう私も大概だ。
外の話や、私が元いた場所の話を知りたがるので、裁縫ついでに話をすることもあった。
この屋敷を訪ねた経緯を素直に説明すると、苦虫をかみつぶしたような顔をされてしまった。
あの旦那様はともかく、一緒に働いていた人達が心配な事を伝えれば「ならば手紙を書いてはどうだ」と、筆と紙をくださった。
伝手を使って、こちらの所在は明かさずに定期的に手紙を届ける手配をしてくれると言ってくださった。
その優しさに甘え、私はかつての仲間たちにせっせと手紙を書いた。
元気にしている事、皆を案じている事、縁があればまた会いたいと言う事を書き連ねた。
一方通行なので返事はないが、きっと安心してくれているに違いない。
忍さまは本当に優しい主だと思う。
穏やかで静かな日々。
これがずっと続くと思っていた。
その夜、やけに月が明るくて寝付けなかった。
何度寝返りを打っても眠気はやってきてくれなくて、私は諦めて寝床を抜け出す。
少し歩けば気が済むだろうと思ったのが、間違いだったのだ。
昼間の暑さが嘘のように涼しい廊下を歩き、中庭に顔を出す。
明るい日差しの中でみるのとはまた風情があり、心が落ち着く。
不意に、視線の先に誰かが立っていることに気が付いた。
まさか盗人かと身を固くしたが、私はすぐにそれが誰かである事に気が付いた。
「……忍、さま?」
その後ろ姿を、見間違えるわけがない。
外にいる忍さまを見るのは初めてだった。
だからだろうか、私はその違和感に気が付けなかった。
「千花か!? 何故ここに!」
私の声が聞こえたのか、どこか慌てた様子で忍さまが振り返る。
月の明かりが何もかもを照らしていた。
「ひっ……!!」
忍さまの頭には、犬のような大きな耳がはえていたのだ。
それだけではない。瞳は鈍い飴色に光っており、僅かに覗いた口元には鋭い牙がのぞいていた。
「な、な……!!」
人ではない、と本能で理解した。
恐怖と驚きで腰が抜け、傍に座り込んでしまう。
逃げなければと感情が告げいるのに、身体が動かない。
―――あやかしは人を食べるのよ。だから良い子にしていなくちゃだめよ。
幼いころ、悪い事をした子は森に捨てられあやかしに食べられると教えられた。
私はとっさに両手を合わせると、頭を床に付けた。
「堪忍して下さい! 食べないで! 食べないでください!」
短い間だったが、一緒に過ごした忍さまは善良だったと思う。
問答無用で私を食べるのならば、とっくに命は尽きているはずだ。
私は生き残りたい一心で必死に懇願した。
「お、おい! やめろ!頭を上げないか!!」
どこか狼狽えたような忍さまの声に私は恐る恐る顔を上げた。
相変わらず耳はそこにあったが、瞳はいつもの色合いに戻っている。
「まったく……こんな時間にどうしてお前がウロウロしている。くそ、月に誘われた俺がうかつだったのか」
眉間に深い皺を刻み、怒っているような困っているような声をあげる忍さま。
その様子に食べられずに済むかと、私はほっと胸をなでおろしかける。
だが。
「お前に手を出すのはもっと後だと思っていたのだが、まあこうなっては仕方がないな」
「え? ……きゃあぁ!!」
音もなく私にするりと近寄ってきた忍さまは、私の身体を軽々と抱え上げたのだ。
「暴れると落すぞ」
「い、いやぁあ!!」
恐くて暴れるどころではない。
急に上がった視界と不安定な体勢に、私は咄嗟に忍さまの身体にしがみついた。
着物越しでもわかる程に鍛えられた、たくましい身体だと嫌でもわかる。
もしかして、身体の問題とはあの耳や目のことなのだろうか。
それ以外は普通の人間なのかもしれないと、私は再び淡い期待を抱いた。
だが、忍さまは無言のままに私を抱えたまま自室に戻ると、敷かれた布団に私を抱えたまま腰を下ろす。
「少し早いが、お前を味わわせてもらおう」
「な!!!」
どうやらやっぱり食べられるらしい。
圧し掛かってくる忍さまの身体は熱を帯びていて、また瞳が鈍い飴色に光っていた。
「い、いやです!!」
思わずその胸板を押し返していた。
息がかかる程に近い忍さまの顔が不愉快そうに歪む。
「痛いのは嫌です! 食べないで! ひどいことしないでください!」
恐かった。まだ死にたくなかった。
そんな思いだけで私は必死に声を上げる。
本当は忍さまのようなきれいなあやかしに食べられるなら、悪くはないかもしれないと思っていたが、やはり本能には嘘はつけない。
非力な私など簡単に捻じ伏せられそうなものなのに、忍さまはだまって私の訴えを聞いている様子だった。
もしかしたら、と再び期待がこみ上げる。
だが、やはり私の願いは届かないようで、忍さまの腕が私の腕を掴んだ。
「……わかった。今日食うのはやめておこう。その代り、味見をさせろ」
「ひっ」
そのまま私は布団に押し倒された。
どこか不器用な動きで帯が解かれ、寝間着がはぎとられる。
素肌をつつむ生ぬるい空気に、今が夏でよかったなどと意識を飛ばしていると、他のことを考えるなど許さないとでも言うように、忍さまの熱い舌が私の身体を舐めはじめた。
「や、やぁ」
「お前は甘いな。まるで花蜜のようだ……」
自分でもろくに触れたことがないようなところまでじっくりと味わわれ、私は情けない声を上げる事しかできなくなる。
そうしてそのまま、私は朝まで忍さまの下から離れる事を許されなかった。
あの夜以来、数日おきに私は忍さまの部屋に引きずり込まれるようになった。
最近では昼間であっても抱きすくめられ、さっきは項を舐められた。
「はぁ……」
自分の身体をしみじみと見下ろす。手足はひょろりと長いのに、尻と胸だけはやけに肉付きのいい、不格好な身体だと思う。
忍さまは、事の最中この身体を隅々まで味わい尽くす。
食べられてはいないが食べられているとしか思えない、激しい執着ぶりだ。私の事を砂糖菓子か何かだと思っているのかもしれない。
解放された後は、どこかすり減っていやしないか不安になる。
獣のあやかしというのは、人の血肉を食まずとも、身体を舐めるだけでも満足できるのだろうか。
それとも、いずれ食べる為の準備として本当に味見をしているのかもしれない。
不思議な事に、あの日以来、出される食事が少し豪華になった気がする。
太らせるつもりなのかもしれないと考えると食べるのが怖かったが、残すのももったいないうえに美味しいものだから、ついつい食べてしまう自分の食い意地が恨めしい。
だが、頻度の行為や、いずれは食べられるという恐怖は心を蝕んでいるのだろう。
ここ最近、食欲だけはあるのに身体は重く何をするにも気が重い。
「痛いのは嫌だなぁ」
両親が死んだとき、自分も一緒に死にたかった。
だが、何の因果か今日まで生き残ってしまった。
いずれは両親のように家庭を持つ日がくると思っていたのに、嫁にも行き遅れ、妾にされかけ、今は命が危うい。
人生は何が起きるか分からないとは言うが、どうしてこの世は自分に優しくないのだろうか。
「……忍さま」
覆いかぶさってくるたくましい身体を思い出すと、腹の奥から疼きが込み喘げてくる。
甘美なあの熱をもう少しだけ感じていたいと思ってしまうのは何故なのだろう。
もうすぐ暦の上では秋だといのに、まだまだ暑い日が続いている。
体調はさらに悪くなっていき、私はこのまま死ぬんじゃないかと涙が出てくるほどだ。
それでも忍さまに触られてる時だけは、不思議と幸せで心地よい。
体と心がばらばらのような浮遊感。
いっそ、早く食べてくれればいいのに。
命が尽きるのならば、せめて―――
「はっはっ……」
私は犬のように呼吸を荒らげながら夜道を必死に駆けていた。
前の奉公先を飛び出した時と同じように、懐にこれまでの蓄えだけを抱えてひたすら走った。
(いやだ、いやだ)
鉛のように重い身体は自由にならず、随分と走った気がするのに振り返ればまだ屋敷が見えた。
滲んだ涙でその光景が歪む。
ほんの数刻前のことだ。
具合が悪く仕事ができないからと、少し早いが休ませてほしいと伝えるため、使用人頭の部屋を訪ねた。
障子の向こうで他の使用人たちが何か話しているのが聞こえた。立ち聞きするつもりはなかったが、その会話は全て耳に入ってしまう。
「もうすぐでしょう? お嫁さまの準備が終わるのは。忍さまとの祝言が楽しみだわぁ」
「ああ、まったくだ。長い事、祝いなどなかったからな。前はテンポウだったか。忍さまの姉君以来だ」
嫁、祝言、という言葉に頭が真っ白になった。
私を毎夜味わうあの人は、もうすぐ誰かのものになってしまう。
当然だ。
あやかしとはいえ、こんな大きな屋敷で暮らし当主なる忍さまが結婚するのは当然で。
私などほんの一時、彼の舌と腹を満たすだけの慰みものでしかない。
前の旦那様に妾になれと言われた時は憤りばかりだったが、今はただ悲しかった。
(私、とっくに忍さまに心を奪われていたのね)
気が付いてしまえばもう駄目だった。
次に触れられたら、はしたなくも慕っていると告げてしまいかねない。
嫌がられ、嫌われ、ひと飲みにされてしまうかもしれない。
それならまだいい。
もし、捨てられたら。追い出されたら。
恐かった。
自分から捨てるのは良くても、捨てられるのは怖かった。
気が付いた時には、着の身着のまま屋敷を飛びだしていた。
「はあ、はぁ」
ずいぶん歩いたはずなのに、全く先に進んだ気がしない。
自分の未練がそうさせているのかと悔し涙が滲んだが、とにかく歩き続けた。
「あっ!」
急ぎ過ぎてもつれた足。前のめりになって、地面に倒れそうになる。
だが、傾いだ私の身体は大きな腕によって支えられ、抱きしめられる。
「千花!!」
私を呼ぶ声と、身体に馴染んだ体温と香りにまた涙が滲みそうになる。
「忍さまどうして」
「どうしたもこうしたもあるか! 術をかけておかねば見失うところだったではないか!!」
怒鳴りながら、忍さまは私の身体を抱えあげる。
そして、まるで飛ぶような速さで屋敷に戻っていく。
私は声をあげられず、ただその腕の中で身を硬くしていた。
屋敷に着くなり、忍さまの部屋に連れ込まれた。
抵抗する間などなかった。
「どうして逃げた!」
ものすごい剣幕で怒鳴る顔はとても怖い。
顕現してる大きな獣の耳は反り返っているし、口元からは鋭い牙が覗いていた。
もう逃げないと言っているのに私を腕の中に囲って離そうとしない。
痛いと訴えたので少しだけ力を緩めてもらったが、それ以上は許されないようだ。
「だって、嫁様がいらっしゃると……」
「はぁ?」
素っ頓狂な声を上げた忍さまの表情から怒気が抜ける。
目を丸くして私を見下ろす顔は、いつもの彼だ。
どこか幼く子どもっぽいのに憎らしい程に整った、愛しい男。
「聞いたんです。お嫁さんがもうすぐ来るんですよね、私は、みたくないんです……!!」
口にしながら、涙が勝手に溢れて頬を濡らしていくのがわかった。
自分の惨めさや情けなさ、浅ましさが嫌になる。
泣き顔を見られたくなくて、着物を汚してしまうと思いながらも忍さまの胸元に顔を押し付ける。
忍さまの腕が軋んだ気がしたが、気付かないふりをした。
「……食べてください」
ずっと考えていた事だ。
逃げるか、食べられるか。
逃がしてもらえず、忍さまの結婚を見届けるくらいなら彼に食べられて死にたい。
その牙で私を切り裂いて咀嚼して腹に入れて。そうすれば、魂だけは両親の元に行けるし、私の血肉は忍さまの身体を生かす。なんて幸せな事だろう。
「忍さま……どうか……私を食べて」
自分から背中に手を回してその体にしがみつく。
大きくてたくましい身体は恐ろしい程に心地よく思えて、私の身体はすっかり忍さまの為に作り替えられてしまった気がした。
「阿呆が」
忍さまが唸るような声を上げ、私を強く抱きしめた。
「俺の我慢を何だと思っている。お前の身体はまだ出来上がっていないんだぞ?」
「まだ肉付きが足りませんか? じゃあ、もっと頑張って食べますから、せめて婚礼までには、ちゃんと食べつくして……」
「ああ、くそっ!」
「んんんぅ!」
忍さまの唇が、私の唇を塞いだ。
鋭い牙が唇の薄い皮を裂いたのか、僅かな痛みの後に血の味が舌先を刺激する。
長い指が首筋を這うように上ると、結い髪を解くような動きで後頭をかき混ぜはじめた。
二つの刺激に頭の芯が痺れて、何も考えられなくなる。
「お前が言ったんだからな、もう嫌だと言ってもやめないぞ。ああ、千花……」
そうして私はついに、忍さまに骨の髄まで食べられた。
はずだったのに。
「なんで」
指先一つ動かさせないほどに貪り尽くされた私は、あろうことか忍さまの布団に寝かされている。
本来の主である忍さまは、何故か嬉しそうにかいがいしく私の世話を焼いてくれた。
だるさは残っていたが、ここ数日感じていた不思議な具合の悪さはすっかり消えている、
想いが叶った途端、身体にまで影響を与えていた気鬱まで消えてしまうなんてと、自分の単純さが憎らしかった。
色々なもので汚れた私の身体を清めると忍さまがお湯と布を持ってきたときはさすがに慌てた。
自分でできるからと必死断ったが、ずっとやりたかったのだと満面の笑みで告げられては断ることもできない。
身体中を丁寧にじっくりと拭き取られた時は、顔から火が出るほどに恥ずかしかった。
「これで名実ともにお前は俺の嫁だ。二度と逃げるなどと口にするなよ」
「嫁って……でも、あの……」
「あいつらが話していたのはお前の事だ。早とちりしよってからに」
「そんなまさか! でも……」
「でもでもうるさい阿呆が。これ以上何か文句を言うのならば、本当にこの足を食ってやろうか。そうすれば逃げるなんてできないだろう?」
「ひっ」
忍さまの手が私の足首を掴む。
痛いほどに食い込む指先と、肌に刺さる爪先が本気だと伝えてくる。
「いいな。千花。お前は俺の嫁だ。未来永劫、変わらずお前だけだ」
忍さまの顔は笑っているのに瞳は笑っていない。
恐いはずなのに、その顔を見つめていると頭の奥が痺れて何も考えられなくなっていく。
もしかしたら本当は首から下は全部食べられていて、都合のいい夢を見させられているだけかもしれない。
「ようやく手に入れた。俺の可愛い、千花」
それでもいい。
忍さまが名前を呼んでくれるなら。
***
「忍さま」
明るい声で俺を呼ぶ声が心地いい。
花のように笑う娘だと思った時には、もう心を奪われていたのだろう。
土地を統べるあやかしの子でありながら、人の身体を持って産まれた俺は半端者としてこの屋敷に閉じ込められていた。
もう何十年も、変わりばえのしない日々ばかりが過ぎていく。
妻を娶れば一人前になれると言われ、あらゆる女と引き合わされたがどの女もしっくりこなかった。
違う。どれも全然違う。
生きる事にも疲れ、もうこのままここで朽ちていくのも悪くはないと思い始めていた。
そんな矢先だった。
千花は突然、俺の狭い世界に飛び込んできた。
見知らぬ小娘が握りしめていた手紙からは、大昔に気まぐれに助けた小僧の匂いがついていた。
暇つぶしにと屋敷に招き入れたのは、運命だったのだろう。
見飽きたはずの日常に色が付いた。
明るい声と笑顔は俺の世界にはなかったものだ。
忙しく歩き回る千花を目にする度、狂おしい程の渇きと空腹が全身を襲う。
「千花が欲しい」
手に入れるためならば、どんな手も尽くすと決めるのは早かった。
「忍さまともあろうお方が、随分とまどろっこしい事をするものですね」
「うるさい。俺は千花をずっと傍に置きたいのだ」
親父に頭を下げ、人を人でなくすための術を使える術師を呼び寄せた。
術と特殊な薬で千花は緩やかに人ではなくなり、いずれは俺と同じになる。
「だが、これは禁術でもあります。あの娘、自分が何を代償にするか知っているのですか」
「知るわけがないだろう。知る必要もない」
人ひとり、世の理から外すためには身体を作り替えるだけでは駄目だ。
繋がりを全部壊さなければ。
「あの手紙が呪いとは知らず、なんと愛らしいことか」
かつての奉公先に無事を知らせるために、千花がせっせと書いている手紙には呪いが込められている。
千花とつながりのある、千花に執着を持つ者からじわじわと命を蝕む呪いだ。
奴らが全て死に絶え、千花の身体が出来上がれば、あとはあの身体に俺の命を注ぐだけ。
そうすれば、全てが造り変って千花は俺の嫁になる。
「かわいい千花。俺とずっと生きような」
何があっても逃がすものか。
あの美味しそうな身体を今夜はどこから味見をしようかと、俺は渇いた喉を鳴らした―――