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 その日は朝から快晴だった。

 雲一つ無い空から降り注ぐ日光が地表を温め、厚着をしたまま日を浴びていると汗ばむほどに気温は上昇した。

 風はあるが、それほど強くない。

 午前中、アラルド農園とハーウェイの壺の司令部は合同で計画の再調整を行っていたが、あまりに良い天気と気を利かせた昼食の担当者が屋外にテラスを用意し、いつもより少しだけ豪華な食事を振舞った。


 ただ、食事が中盤に差し掛かった頃、一人の青年が慌てて立ち上がり、空を睨み付けた。

 激しく地面を打つ椅子が音を立て、何事かと周囲の視線が集まる。


 風向は東より、西へと抜ける風。


 高い最果ての霧と、その手前にあるアムレキアを囲うようにして伸びる長城、その更に向こうから大きな雲が顔を出したのだ。


 雲はゆっくりと広がり、空を埋め尽くしていく。

 風向きが変わり、北風が吹き始めてからも、その雲は大きく、暗くなっていった。


 両司令部は即時全部隊へ指示を飛ばし、緊急配備を進めさせた。


 二時間後、アムレキアに雨が降った。


 殴りつけるような、強い雨だった。


    ※   ※   ※


 「これより我々は、アムレキア深部へ挑む北方方面軍と、壁の街ヴィルフッセンを攻め込む構えを見せる南方方面軍の二手に分かれて行動を開始する」


 珍しく紙に書かれた作戦書を手にしたアークスは指令官の言葉に特段の感慨も無く、淡々と聞いていた。

 アラルド農園中央司令部、塔の中層にある作戦室では彼を始めとした戦士団の主だった者が集められ、改めての説明が行われていた。


 作戦書自体は何日も前に配布されていたもので、内容は全員が頭に入っている。

 それでも作戦開始前に一度集め、説明をすることは誤解や失敗を無くす上で重要だと農園の者たちは考えていた。


 似たようなことを、各指令所や、アムレキア外部に新設された詰め所でも行っていることだろう。


「方面軍とは言っても総数は五百程度で、南方軍の大半は経験に乏しい者や、今回新しく集められた者達で構成されている。実際に戦う意思は無く、狩人を始めとした壁の向こう側からの余計な干渉を受けない為の牽制であると考えていい。万が一相手が打って出てきた場合は、ハーウェイの壺か、大森林へと逃げ込む算段だ」


 狩人の奇襲を受けた為に、先代継承者が一名死亡していることを彼らは重く見ている。


 最前線となる北方軍が集中出来るよう、要所要所に精鋭を配備して万全の用意を整えている。


 司令官の男は壁に貼り付けた地図を棒で指し示し、熱の入った声で説明を続けた。


「北方軍は三つに別れて分散進軍し、アムレキア深層を目指す。一つはここ、アラルド農園の正面、中央通りを抜けての道。もう一つは東方からの道。そして最後の一つは、南西からの道。中央通りだが、この部隊は囮に近い。最も()()の厚みがある場所を通り、進んでいくのだから、極めて困難な道となるだろう。本命は南西からの道だ。高級住宅街を抜け、繁華街へ入り、大通りを抜けて時計塔を目指す。先だっての漸減活動によりこちらは()()の分布が極めて薄くなっている。また、この部隊にはハーウェイの壺より継承者アンディ=ボルガンと、その頭脳とされるニール=ハーウェイが加わることとなっている。最も打撃力が高く、機動性にも優れているだろう」


 欠点は連携が取り辛い点だった。

 継承者の力が常軌を逸しているのは皆も知る通り。近くをうろついているだけで危険が伴う場合もある。

 同道できるのは同じく継承者か、その従者くらいだ。


 他には地獄の番犬(ケルベロス)を始めとして壺の精鋭部隊が加わり、後方の細かな詰めをアラルド農園が担当する形になる。言ってしまえば荷物持ちと拠点構築、雑用だ。業腹ながら、ハーウェイの壺が持つ戦力について多くの者は高い評価を与えている。振るっているのが無茶ばかりする子どもらであることに眉を顰めてはいるものの、だからこそしっかりと後方を支えてやるのだと、そんなことを言っていた司令官も居る。


「東方からの部隊は主に退路の確保を目的としている。討伐の成功、失敗に関わらず、アムレキア深部への侵入は過酷を極め、多くの()()を引き寄せるだろう。そうなった時、来た道を戻ることが出来ない可能性も出てくる。この部隊は退路確保し、最悪の場合、方面軍を大森林へと逃がす算段になっている」


 農園と壺の双方は、この戦いに最大限の戦力を投入するつもりでいる。


 アムレキアの主、輝石獣(ビーモス)を討伐出来れば、かのネームドの影響を受けて活性化している個体もかなり弱体化するものと思われている。直近で銀狼(フィーリル)と呼ばれていたネームドが討伐された際、周囲の個体に相当な弱体化が見られたことが根拠の一つとなっていた。


 もし輝石獣(ビーモス)討伐により深部の危険度が下がれば、今後多くの物資を確保することが出来、生活圏の安全度も大きく向上する。


 霧の脅威が薄まれば防備に割いている分の労働力を別方向へ持っていくことも可能だ。

 狩人や壁の向こう側という脅威は未だに残り続けるが。


 かくして各拠点には最低限の人員のみが残され、攻撃に全てを懸けるのが今回の作戦だった。


「取らぬ狸の皮算用、という言葉を聞いたことがあるな」


 話が落ち着いた所でアークスの皮肉が飛んだ。


 今回の作戦でも重要な位置を締める長大な射程距離を持つ継承者の男は、サングラスの奥で眉を顰めながらふんずり返っている。


「当然の意見だな」


 司令官はあっさりと皮肉に応じ、肩を竦めた。


「だがアークス、何の希望も無しに命を懸けることは出来ないさ。だから作戦を考える我々は希望を示し、裏では様々な可能性を模索しながら現実的な成果を段階分けにして確保しようと考えている」

「ほう」

 と、アークスは組んだ脚を組み替えて、

「例えば今回事実上崩壊した研究所の連中の持つ技術や壁の向こうとの繋がりの確保とか、かな」

「内容については守秘義務がある為答える事は出来ないが、ただの親切心や子どもの夢の為だけに動いたりはしない、とだけ言っておこう」


 案外見付からない研究所の元トップは、中央司令部の誰かが確保しているんじゃないか、などとアークスは思うが口にはしなかった。


 死者の石を取引材料にしていたことについて、彼も魂を受け継ぐものとして激しい嫌悪感がある。

 確かにアレは死体であり、死んだ以上は物と言えるのかも知れないが、金銭でやりとりする行為は人としての正気を疑う。


 農園が完全に一枚岩であるとまでは言わないが、そこまで人間を捨てた者が居るとは考え辛かった。仮に繋がりを得たとして、石の売買に手をつけることはほぼ無いと思える。


 とはいえ、人は腐敗するもの。


「今回の作戦は元々、農園だけで行う予定だったものだ。ムゥさん、ムゥ=アラルドの要請に従って練られていたものを、ハーウェイの壺から提示された戦力を参考に補強したのが今説明したものだ。しかし――――」


 本題はここか、とアークスは察した。


 作戦の最終確認もあったのだろうが、主だった者達を集める口実に丁度良かったからだ。


「中央通りを行く本隊後衛にはアークス、君と、ムゥさんが加わる予定だった。が、今回彼の参加は見送られた」


 それだけを告げて、彼は話を終えた。


 口外禁止とは告げられなかったが、悪戯に広めれば動揺を招くことは明らかで、この場に居るのはその程度の判断が出来る者達。仮に漏れたとして、病院やその他関係各所の全てを封鎖することも出来ないし、余裕も無い。


 しばらく前から体調を崩しがちになっていたあの老人が、ここ一番で参加を断念するような状態にある。


 戦力として期待されていた訳ではなかった。

 彼への期待は、農園の出身者に共通するものだ。


 重くなった雰囲気の中、アークスは普段通りに立ち上がり、部屋を去った。


「是が非でも、成功させる必要がある、か」


 研究所への警戒もほどほどに、ここまで大胆な作戦を立てた根本はやはり、不安なのだろうと彼は思った。


 アラルド農園。


 その名の通り、この避難所はムゥ=アラルドの存在によって支えられている。


 それは同時に、彼の存在がある限り、農園が変わらずにいるということを意味している。


 銀の風が吹いて、男の後に続いた。


    ※   ※   ※


 作戦開始を告げる狼煙があがって、アムレキア南東部より攻め入る部隊が動き始めた。

 先だって周辺の()()は処理してある。

 後方、中衛には食料物資を抱えた補給部隊が分散して配置されており、万一の場合は予め定められた集合地点へ持ち寄ることで臨時の拠点を構築するようになっている。

 アラルド農園から提供された最新の分布図と旧来の地図を照らし合わせて、各部隊ごとの進軍路は定められており、遊びを持たせつつも基本は勢い任せ。中核となる戦力がハーウェイの壺である以上、農園のような統率は望めず、纏められる指揮官も数が足りていない。


 旗印はただ一つ、アンディ=ボルガンだ。


「っしゃあルァア!! 行くぜお前らァアアア!!」


 ダン――――地面を叩き、周囲の家屋を弾けさせ、浮いた瓦礫を積み上げる。


 打ち付ける雨など一切構わず、むしろ雨に打たれること自体を楽しむように、いっそ雷はどうしたとばかりに彼は叫ぶ。


「塵よ積もって山を成せ……ッ!!」


 質量は正義だ。細かいことはいいから質量をぶつけて粉砕しろ。砕けた道を乗り越えて、新しい時代を築いていけ。


 ハーウェイの壺にて行われていた悪徳を払拭し、その頂点に立った男が巨大な瓦礫の山を操り、アムレキアの深層へ向けて進軍を始める。

 行く先は彼を見れば分かる。

 高く聳え立つ山を背負って、男は一直線に進んでいく。


 後の事など頓着はしていない。


 必要なものがあるなら瓦礫の中から探し出せばいい。


 家屋を踏み潰し、街路を粉砕し、振り回した手足でネームドを叩き潰して猛烈に進んでいく。


「さァ参りまショウ。一歩一歩進んデ、一つ一つ潰していきまショウ。瓦礫を積み上げワタシ達の時代を築きまショウ」


 周囲から湧き出てくる脳無し(ヘッドレス)を、虚蝋骸(ハートレス)種のネームド、ニール=ハーウェイが青の結晶を鼓動させながら霧散させていく。


「雑魚は払いマス。貴方がたは己へ挑むに足る敵こそを相手取って下サイ」


 白衣を纏った喋る虚蝋骸(ハートレス)については予め通達があったものの、初めて見る者の中には怯えて攻撃を仕掛けようとする者も多数。それが仲間から慌てて止められ、周囲から笑いを誘っている。


 アンディが壺の頂点を取って以来、積極的に表舞台へ顔を出し、常の有り様を地獄の番犬(ケルベロス)の少年少女らと共に見せ付けることで、受け入れる下地は造り終えている。


 その地獄の番犬(ケルベロス)はアンディの後方に続き、一部を各所へ分散させることである程度の統制と、監視を行っていた。

 未だアンディは地盤固めの真っ最中だ。上が消えたのならば自分もと、野心を燃やして出てくる派閥は数多い。反乱へ賛同したこと事態が後の裏切りを考慮しての場合も考えられる。

 今回の輝石獣(ビーモス)討伐は一つの、大きな成果となる。

 六十年もの間、誰も討伐出来なかったアムレキアの主を倒したとなれば、箔付けとしては十分。

 次代の英雄としての名を広め、熱狂を持ってハーウェイの壺を統率していける。


 思惑は山のように。

 野心は湯水のように。


 策謀を巡らせ戦うことを、アンディは後ろ向きに捉えていない。

 誰よりも勢い任せな自分を見て、ニールがあれこれ考え過ぎていることも知っている。


 胸の内にあるのは挑戦心だ。


 進んでも地獄、戻っても地獄、人の希望を背負って戦うことはいつか心を押し潰すかもしれない。


 それでも今、挑みたい。


 一つ一つを積み重ね、どこまでも先を目指していこう。


「来いよ六十年!! 俺が纏めて相手してやルァアア……!!」


 そして、来た。


 三原色を纏った霧の渦と、大地から生い茂る無数の植物、赤ん坊の泣き声と共に巨人を貫いた泥の礫、顎だけが一軒屋ほどにも巨大化した変異体、手足の長さがバラバラで転がるように押し寄せる異形の群れ、割れた鏡の中に潜む一つ目の少女、背中に翼を生やした小太りの中年男、影を持たない蝙蝠が飛び出してきて、放たれた攻撃をすり抜け殺到してくる。


 語り継がれる特級ネームドと、存在すら知られていなかった未知の存在が狂ったように押し寄せてくる。


 相手はアムレキア深層、その全て。

 物理としての常識も、生物としての常識も通用しない。


 時に、異なる世界からの存在すら引き摺り込む。


 それがアムレキアの霧。


 こういうものに挑んだのだと、人々は思い知ることとなった。

 思い知り、やがて、先行く背中を追いかけて、進んでいった。


    ※   ※   ※


 「それじゃあ俺は行って来る。トールを頼んだ」


 ロディが告げて部屋を出て行くと、一番にミランダが動いて飲み物を用意し始めた。

 トールの部屋には冷蔵庫がある。普段なら暖かい飲み物が欲しくなるのだが、この部屋は常に暖かく保たれていて、冷たいものがおいしくいただける。


 コジロー、グスタフ、アイラも居る。コレットも、部屋の隅で本を読んでいて、話には加わってこないが居心地が悪そうには見えなかった。


 銀狼(フィーリル)討伐で大きく貢献した、とされる五人とトールは輝石獣(ビーモス)討伐には不参加となった。

 傷は十分癒えて、何度かのごみ漁り(スカベンジ)で調子を確かめはしたものの、年齢層が低いことと、慣れた指揮者であるツバキの死亡によって、激戦が予測される今回の戦いには準備不足と判断されたのだ。

 ミランダはこの場の指揮者として、補助にはグスタフが指名され、トールの護衛任務という名のいつも通りが続けられている。


 大一番から弾かれたことでコジローは荒れたが、ミランダが羽交い絞めにしておちょくると大人しくなった。

 最近、彼はミランダに言われると割と素直に応じるのだ。

 当人は自分が指揮者としてしっかりしてきた結果だろうと鼻を伸ばしているのだが、実際にはコジローの鼻の下が伸びていることには気付いていない。


 アイラはミランダを手伝おうとして立ち上がるが、それより先にグスタフが動いており、二人の間に割って入れずおどおどと視線を彷徨わせるのみ。


 結局配膳を終えて、ミランダが腰を落ち着けるまで待って、その近くに自分も座りこんだ。


「トール、体調は大丈夫か?」


 冷たい麦茶に口を付けつつ、コジローがベッドの端で脚を組む。

 昨今服装が派手になってきた彼にトールはいつも通りの笑顔を向けて、


「ロディに診て貰ったばっかりだから、今は凄く楽だよ」

「そっか、最近お前、顔真っ青だったからな! 今は顔色いいぜ!」

「うん、ありがとう」

「いいってことよ!」


 口さがない少年ではあるが、心底トールを心配しており、頻繁に暇つぶしの玩具を持ち込んだり、小話を持ち込んだり、時折えっちな話を持ち込んだりする彼を全員が受け入れていた。最後の一つは、あくまで男達だけの内緒だ。


「今頃大暴れしてるのかなー、アンディ達さー」


「目に浮かぶぜ」

「十分準備してきたからね。きっと大丈夫だよ」


 少年二人が揃って楽観的なことを言う。言葉には出さないが、アイラも無言で頷いていた。


 誰しも不安が無い訳もなかったが、率先して嫌な想像を口にしたがらなかった。

 頭の中では今でも銀狼(フィーリル)との戦いが残っている。むしろ、全員が生涯消える筈がないと思っている。払拭する為にごみ漁りでも()()との戦いを率先して引き受け、十分な成果を挙げてきた。まだ戦士としては十分戦える。それでも恐怖は残っていた。


「ま、安全な配置ってのも悪くないよ。トールの護衛だって大事だし、ここの部屋はあったかいし、床気持ちいいし」


 言って横になるミランダにコジローの目が向いて、アイラがそれをジトッと睨む。

 部屋へ入ってきた時点で、全員が上着を脱いで薄着になっているのだ。

 寝転べば自然と起伏が浮かびあがる。


 普段皆で集まっている区画では床が岩盤を磨いただけのものであり、座る場所は椅子だった。

 ところがこの部屋は絨毯が敷き詰められていて、とても暖かく、床は柔らかい。椅子はあるが一つだけで、大抵はコレットが使用している。寝台で身を起こすトールの足元に一人二人が乗ってくることはあるものの、すっかり絨毯に座りこむのが当たり前になっていた。


 一応、ガラスのローテーブルはあるのだが、何かの表紙に端へ追いやられて以来、見向きもされていない。


「というかロディさんはここに居て良かったのー? 最前線で戦うなら間に合わないんじゃー……?」


「ロディは、大切な人を迎えに行くって」


 トールが答えると、それだけで全員が理解したようだった。

 最近まで力が枯渇していたことをトール以外は知らない。

 それでも従者が迎えるべき大切な人と言えば、もうたった一人しか居ないのだ。


「そっかぁーっ!」


「だったらさっ、次の従者はトールなんじゃね!? 絶対そうだろっ、すっげえ気にしてるもんロディの人!」

「確かに、忙しそうなのにいつも顔出していくもんね」

「そういうものなの……?」


 言われ、トールはまるで頭に無かったことを聞いたとばかりに首を傾げた。


 ロディは保護者だから、良い人だから心配してくれる。そういう認識だった顔だ。


「トールは興味あるの、そういう、従者とか」


 唐突にコレットが問いを投げてきて、全員の視線が向いた。

 彼女は本へ視線を注いだまま、なんでもなさそうな顔を続けている。


「一生戦い続けることになる。トールは、そうやって生きたいの」


 重い言葉だった。


 つい最近、命懸けで戦い、今尚も命の危険を抱えている身としては。


 力が回復したと言うロディに体内の悪いものを今度こそ完全に除去して貰ったものの、トールの体力は思うように戻らず、何度も熱を出しては倒れている。


「戦いたい、とは、思ってないよ」


 では何をしたいのかと問われれば、何一つ答えられるものが無いのだが。


 けれどコレットは安心したのか、本を支える指先の震えが止まっていた。小さく吐いた息が、トールの元にまで届いたような気がする。


 戦いたくはない。

 人へ暴力を振るう行為にすら忌避感がある。

 ()()を相手にするなら分からないが、危険へ自ら飛び込んで、ロディやアンディのように、あるいはミランダ達のように戦うのだと思うと、やはり怖さが勝るのだ。


 それでも。


 あの時叫べなかった一言が、今でも喉の奥に引っ掛かっている。


「トール、ちょっと疲れた顔してる。無理せず休んだ方がいいよ」


 本をぱたりと閉じてコレットが立ち上がった。

 トールとしては治癒を受けたばかりで楽なのだが、確かに脱力感がじわじわと尾を引いている。

 言われなければ皆と話している興奮で気付けなかったほどのものだが、以前も同じことをして最終的に熱を出した。


「うん。ごめん、皆。ちょっとだけ休んでるよ」


「んー、静かにしとくー」

「別に平気そうだけどな」

「コジロー、こっちでチェスやろう」


 護衛ということもあり今回は離れることはしなかったが、トールの体調はコレットがずっと診てきた為に判断へ異論を挟むのはコジローくらいだ。そのコジローはグスタフに誘導され、最近ムキになって挑んでは勝ったり負けたりをしているチェスへすぐに意識が向いた。


 コレットがベッドへ寄っていって、トールの額へ手をやる。

 やっぱり少し熱い。そう言って姿勢を変えるのを手伝ってやり、乱れた掛け布団を整えた。

 人前である為か顔を寄せてくることは無かったが、枕に沈んだトールの前髪を弄り、指先でそっと頭を撫でた。


 ぽー、とその様子を見詰めていたアイラは自分の頬へ手をやり、熱を感じながら首を振った。

 凄いものを見てしまった。純情少女はそう思っている。


 ミランダは身を捩ってベッドへ身を寄せると、心地いい場所が見付かったのか寝息を立て始めた。何かあればすぐ起き出すが、彼女はよく寝るのだ。


「ありがとう、コレット」


「ううん。ゆっくり休んで、よくなってね」


 コレットが寝起きの着替えを取ってくると言って部屋を出ると、トールは目を瞑り、意識を眠りへ沈み込ませていった。


 近くで激しい戦いが起きているとは思えないほど、穏やかな時間だった。


 頭の中に、コレットからの問いかけが残っている。

 コジローが言っていた。


 従者。


 あの時、銀狼(フィーリル)を前に成す術も無かったトールを庇い立った男の背中が、戦い抜いた果てに倒れてしまった姿が、何度も何度も頭の中に過ぎった。眠れないまま思考だけが回り続け、けれどふと周囲から物音が完全に消えていることに気付いた。


 ミランダ達が気遣ってくれているとはいえ、ここまで無音になるものだろうか。


 疑問に思い、トールは目を開けて、身を起こそうとした。


 視界がぼやける。付いた腕で体が支えられない。

 ぼやけた景色の中で、ミランダが、アイラが、コジローがグスタフが、倒れ伏しているのが分かった。

 コレットは、着替えを取りに出て行ったままだ。


 部屋の奥、ガラスのローテーブルが押しやられていた壁が、ゆっくりと開いていくのが見えた。


 隠し扉だ。この部屋自体が隠された場所にあることを思い出して、トールは声を上げようとしたけれど、それより先に姿勢を崩し、寝台から転げ落ちた。途端にむせ返るような甘い臭いがして、急激に意識が薄れていった。


 隠し扉の向こうから、みすぼらしい恰好の誰かが現れて、トールに袋を被せた。


    ※   ※   ※


 干していた洗濯物が乾いていたので、コレットは回収して畳んでいた。

 トールは結構寝汗を掻く。熱で体温が高くなっているのもあるけれど、元の体温が高いのだと思う。

 添い寝をして目が覚めると抱いていたコレットの所まで汗の匂いがして、それがなんとも落ち着くもので、彼の髪へ鼻先を埋めるのが常だった。

 兄が筋肉お化けになってしまってから、男の人の汗は駄目なんだと思っていたが、どうにもトールならどんな匂いも平気らしい。

 不思議なもので、汚物を処理する時も嫌悪感などは無く、苦しんでいる少年の助けになっているんだと思えば楽しくなった。


 一つ一つ丁寧に畳み、専用の場所へ収めていく。

 あの部屋にも収納はあるが、幾らかの偽装もあって派閥内の一室に皆のものと纏めて納めてあった。


 隠し部屋へ行く時も、幾つかある経路を辿り、同じ道を頻繁に使わないようニールに言われていた。


 コレット達が霧の中へと逃げ込み、あのネームドと戦うことになったのも、元はハーウェイの壺の上層部がトールの身柄を欲しがったからだ。コレットは詳しいことを聞かされていないが、来訪者(ビジター)の持つ知識を欲したのだろうと思っている。

 脂ぎった大人達が欲深であるのは、彼女も十分に承知しているのだ。


 どこからかコレット達が来訪者を確保しているという噂も流れていて、意味を知る者はそれとなく探りを入れてくるのだとか。


 表向きそんな者は居ない、としておきながら、他の立ち入れない派閥の占有区画に囲っていると思わせるよう、ずっと振舞ってきた。


 洗濯物を納めた後、彼女は敢えて服装を着替え、少し前にミランダと一緒に買い物へ行って購入してきた鞄にトールの服を納める。下着も一緒だ。一見して休憩に出かける風を装いながら、広場を回り、複雑な道へ入り込んで追跡を確認し、光子を纏って一気に距離を取る。ニールが居ればこの手の確認が楽だ。彼は目ではなく、感覚で人の気配を捉えているから、追跡や侵入や潜伏を概ね見破れる。

 概ね、と付け加えなければならないのは、案外彼が迂闊だからだ。

 普段あれだけ騒がしい癖に、真面目になると思慮深く、けれど動き出すとアンディに乗せられて短絡的になる。


 何度も追跡を確認しつつ、何気無く通路の影に入り、一目には分からない隠し部屋に入る。まだトールの部屋ではない。最初の部屋は倉庫で、次はお酒や弾薬がある。二重の偽装を越えれば、その先にトールの居る部屋がある。一気に視界が開け、窓ガラスから向こうの景色に目を奪われる。


 いつもならそうなる筈だった。


 部屋の中で皆が眠っていた。

 護衛が揃って居眠りか、と考えたのも僅か、ベッドの上にトールが居ない事に気付いた。


 同時に、明らかに普段と異なる甘い匂いがして、コレットは口元を塞ぎ、手前の部屋へ逃げ込んだ。


 心臓が激しく鼓動し、頭の中で今の状況を整理する。


 トールが居なかった。

 他の四人、ミランダとグスタフとコジローとアイラは、眠っていた。

 部屋の中の異臭。


 よくない状況だというのは明らかだった。


 咄嗟にコレットは今居る部屋にガスマスクがあったことを思い出し、木箱を次々ひっくり返して捜索した。思ったよりも時間が掛かり、焦りが増していく。けれどようやく見つけたマスクを身に付け、一度深呼吸をして、再び中ヘ。


 部屋の中は相変わらずだ。


 まずコレットはトイレやシャワー室を確認した。やはり無人。

 次にミランダ達を部屋から引っ張り出し、起こそうとしたが、薬か何かで眠っているせいか反応が鈍い。


「ぁぁぁーーー、ッァアアア、ああーー! ああああっ!」


 アイラだけは目を覚ましたかと思ったのだが、暴れだしてしまったのでなんとか押さえ込み、縛り上げた。理性的になればちゃんと解ける結び方をしたので、正気に戻れば力になってくれるだろう。それ以外の対処は分からなかった。


 残った状況は、トールの不在だ。


 コレットは一度引き返し、隠し部屋の出入り口を遠巻きに監視している者を呼び寄せた。

 三人の内一人がやってきて状況を説明すると、この時間帯で出入りしたのはコレットだけだと言う。

 一応は連絡を回し、捜索をしてくれるようだが、現状では手が足りないとの話だった。


 外の事は任せ、再び中ヘと戻っていく。


 縛り上げられて尚も暴れているアイラを素通りし、ガスマスクを付けなおして部屋へ入る。


 すぐに、違和感に気付いた。


 最初は全員が倒れていたことに目を奪われていたが、ベッドの状態以外にもおかしな部分がある。


 ガラスのローテーブルだ。

 邪魔になって部屋の隅へ追いやり、そのまま放置されていたものが、何かに押し出されたみたいに動いている。誰かが使ったとしても半端な形で放置したというには妙だ。


 罠の可能性も考えて、迂闊には触らず周辺を確認した。


 問題なし。おそらく、とやや怯えながらもテーブルを動かして周辺を確認した。


 何も見当たらない。考え過ぎかと思いつつ、胸の内に溜まった苛立ちを壁にぶつけ、そこが、動いた。


「……隠し扉」


 もう一段、あったのだ。

 身長に壁を押し、回転した先を確認する。

 薄暗く、灯りは無い。無いが、光子を出せば多少の光源にはなる為、思い切って向こう側へ入ってみた。そうして扉の周辺を確認し、鍵穴を見つけた。部屋へ戻り、周辺を探ると、壁の模様に思えていた一部がスライドして開き、内側から鍵を掛けられるようになっているのが分かった。

 鍵を掛けると向こう側から重たい音がして、扉が完全に固定された。

 戻し、開錠する。


「コレット、トールが浚われたって話だが――――」

「薬が撒かれてるから入ってこないで」


 色々試している間に推測は出来た。


 こんな仕掛けを把握しているのは持ち主か、その周辺の人間でしかありえない。


 ましてや扉の向こうから開錠するには鍵が必要。


 旧上層部の誰かが、トールを浚ったのだ。


 彼らは、トールの身柄を欲していた。


「すぐ動ける人はいる?」


 言われた通りに手前の部屋で待機していた少年に聞くも、即答出来ない様子に状況を察した。


 今回の輝石獣(ビーモス)討伐に向けて、拠点の主だった戦力は最低限を残して出払っている。目の前の少年もコレットより年下で、最初にやってきた班長らしき者は年長だったが、ツバキほどの行動は期待出来ない。

 引き続き周辺の捜索はして貰うとしても、あの通路に同道出来るだけの人物を探している時間すら惜しかった。


 武器を確認する。手持ちはナイフが五本と手投げ弾が一つだけ。普段からもっと持ち歩くべきだったという後悔は脇へ置いた。幸いにもこの部屋には武器が多少は残されている。投げるには向かないだろう大振りのナイフを一本、牛刀のような剣を一本と霧の中でも使える強力な電灯を回収し、奥へ戻った。銃器は扱いが分からない。弾切れになれば使い物にならないし、視界の悪い暗闇では邪魔だし不利だ。


 息を整え、自分が冷静であるかを確認した。


 結論、冷静ではない。


 何せトールが浚われたのだ。

 ここまで淡々と行動出来ただけでも自分を褒めてあげたかった。


 そして、冷静でない自覚があるからこそ、単独行動は避けた。


 薬で平静を失ってはいるが、目が覚めているという点でアイラを連れて行くことにした。叫んでうるさいのは困りものだったが、言えば認識して従ってくれたので、戦力にはなりそうだった。よしよし、どうどう、コレットの声が聞こえているのかいないのか、アイラは少しだけ静かになって付いて来てくれた。飢えた野犬のような目で見詰めてくるのだけは何とかして欲しかったが。


 他の人物でも良かった筈だ。彼女より冷静で、腕の立つ者は居ただろう。

 急場で慌てていたのもあるが、敢えて選んだのはコレットの性格故だ。

 以前より人の輪に入っていくのを苦手にしていた少女は、銀狼(フィーリル)との一件があって以来、殆ど生き残りの六人以外と関わっていない。


 アイラの手綱を握りながら、奥の隠し扉について報告だけして、彼女はその奥へと向かった。


 電灯で先を照らし、光を飲み込むような長い通路を、静かに歩き始めた。


「ァーーーーーー、ゥーーーーーッ、ウーッ」


 連れて来たのは間違いだったかもしれない、そんなことを思いつつ。





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