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 北風がアムレキアの霧を南へ押しやっていく。

 霧はかつて生命だったモノ達だ。いや、今尚も生命で在り続けているのかも知れない。既に己という枠を文字通り霧散させ、原型など留めていなかったとしても、肉体と繋がり合っていた時代の想念が乱反射しながら行き交っているに過ぎないのだとしても。

 人の思考は既に無い。獣の思考は既に無い。かつてそうであったモノ達は、思考というものの土台となる肉体や意識の連続性を失っている。


 しかし方向性も無い嵐のような想念を束ねるモノが在った。


 肉体を保ち、その大半を特異な結晶によって維持していた、()()と呼称されるモノ達。


 それは例えば、とある少年が居た世界で電子の方向性を整える為に、あるいは何か別の震動を電子へと変換する為に、ある種の鉱物が使用されている様に。


 乱反射するばかりの想念に一定の方向性が生まれる。それは無秩序の中に秩序が生まれることを意味する。方向性、あるいは再現性と言い換えても良い。一定の再現性を得た想念は流れを生み、流れは長い年月を掛けて周囲の形を変化させ、整える。水の流れが川を生み、より多くの水を流れ込ませ、大きくなっていくように。


 川は柔軟に形を変える。高台にぶつかれば向きを変え、分かたれ、周囲を削り整えながら蛇行して、時に交わり大きくなる。

 同時に、その川を流れる想念にはかつて一つの形があった。霧散し形すら残らない己という形。脳神経が齎す信号とは異なる、通常であれば物理的に発生することの無い魂と呼ばれるものの動き。

 アムレキアの霧は肉体の死を迎えたモノ達の、魂が結晶化したものだ。

 故に本来物理的に発生することのない信号は、確かに観測可能な現象として発生し、自己を求めた。


 流れは既に存在する。

 今も生命であるかも知れないモノ達の生む奔流は絡み合い、結合し、砕けて混ざり合いながらも、やがて一定の再現性を経て形を成していっている。

 それらの中核となったのが継承石と呼ばれる英雄達の魂だ。

 強烈な意思を持ち、人々を束ねて方向性を与える時代の英雄。


 アムレキアの深部、時計塔に座す主はゆっくりと顔をあげ、空を眺めた。


 人々が輝石獣(ビーモス)と呼び怖れる特異点は、この最果ての街が霧に覆われてから六十年を掛けて成長し、数多の英雄達を喰らって来た。


 落ち窪む世界の果てで、()()は今も、少年を待っている。


    ※   ※   ※


 また夢を見た気がした。

 顔を上げたトールは慌てて周囲を確認し、そっと息を落とす。


 痛む身体を何とか持ち上げ、のたのたと歩いて怪我人の元へ膝をつき、傷口の布を取り替えていく。そっとしていても痛むようで、声を掛けたトールへ呻くように応じるも、意識はまだ浅い眠りの中にあるらしい。

 焚き火に薪を追加して、バケツの中の雪が融けているのを確認して布を投じ、洗い始める。水はまだ冷たく、トールの指先を凍り付かせるようだったが、彼は構わなかった。清潔な布はもう無い。石鹸も洗剤も無く、水洗いするだけの状態だったが、血塗れの布を貼り付けさせていると虫が寄ってくるのだ。霧の中でも虫は結晶化の影響を受けないのか、あの獣達のように結晶化しつつ肉体を保っているのかは分からない。けれど、身体が虫に集られ、うじに食われていると気付くとコレットが泣くのだ。

 トールの居た地域にはあまり虫が発生しなかったが、居ないでもなかった。短い時間で誕生と死を繰り返すだけに、虫というのは進化が早い。この寒さに適合したものが生まれていてもおかしくはなかった。

 丁寧に傷口を洗い、除去し、乾いた布を被せて縛る。他人の血液が傷口に触れるのは良くないと思い、同じものを被せるようにしてあった。


 拠点を爆破し、死に物狂いで包囲を抜け出したものの、トール達の被害は甚大だった。

 全力で逃げる中でも執拗に追い回し、襲い掛かってきた獣達を思い出すと、トールは今でも身が強張り、震えが止まらない。

 昨夜何とかこのアムレキア繁華街の大きな建物へ逃げ込むことが出来た。周囲には未だに獣達が屯しており、侵入路を探して物音を立てる。

 この施設は以前、あるいは今も、何らかの勢力が拠点として使っていたようで、三階までのあらゆる出入り口が塞がれ、多少の物資が残されていた。食料や水は使い物にならなかったが。


 現在トール達は施設の屋上にある商業施設に身を寄せていた。

 下の階層へ可能な限りの罠を仕掛け、道を塞ぎ、時間稼ぎを続けている。

 狼煙はトールがあげた。この数日で己の役割を求めて、彼は多くの事を学び、覚え、実践するようになっていた。

 元より過ぎた行動力によってロディから待てとまで言われた少年だ、率先して動き、周囲の負担を肩代わりする彼を、生き残った六人は自然と頼っていた。


「トール……」


 か細い声を聞き、名を呼ばれた少年は素早く少女へ駆け寄り、自ら胸の内へ身を寄せた。

 満足そうに喉を鳴らしてトールの髪へ頬を寄せ、傷だらけの手で愛おしそうに撫でるコレット。


「寒い?」

「うん、ちょっと」

「火、もうちょっと大きくするね」

「ううん、このまま。トール、あったかい」


 彼女の思うままにさせてやりたかったが、重傷者が壁に凭れていた姿勢からずりおちて、負傷している腕を下敷きにしてしまったのを見てトールは離れる。甘えた声を出して惜しむコレットの頬へ口付けて頭を撫でて、彼は背を向けた。


「……すまない。俺は、眠っていたか」


 重傷者、ツバキの身を起こしてトールは布を取り替え始めた。

 彼の右腕は繋がっているのが不思議なほどの状態だった。二の腕の肉ははがれ、折れた骨が見えている。既に痛みも無いようだが、傷口が化膿を始めていて、どれだけ除去しても虫が湧いてくる。内部へ潜り込まれているのかも知れなかった。

 右目は潰れ、おそらくは肋骨も折れている。切り傷や擦り傷程度ならトールにも簡単な治療が出来るが、内側はどうしようもない。


「大丈夫だよ。一階には侵入されたけど、二階のバリケードがしっかりしてたおかげでまだ入り込まれてない。壁を登ってこようとしてたのも居たけど、高過ぎてここまでは来れないみたい」


「……頼もしい。もしかしなくてもトール、君は石の力も使えていないのに見回りまでしていたのか」


 声に隙間風のような音が混じっていることに、トールは慌てながらも笑顔を崩さなかった。


「ゆっくり休んで。まだ、大丈夫だから」


 頷くツバキに一言残して、トールは残り四人を回っていく。

 少し間が出来た所でまたコレットに呼ばれたので駆け寄っていくと、気持ちが悪いので身体を拭いてくれと言う。トールは躊躇わず頷き、用意をした。


 疲労や負傷が限界に達すると、己を回復させることも難しくなってくる。

 身体は血と、痛みによる脂汗で汚れ、そこに虫が集まる。最後には払う力も無く虫に食われるがままとなり、痒さと痛さと恐れで狂ったように泣き出してしまう。まだ拠点に居た頃、ツバキが焼いたナイフで重傷者の傷を焼き固めていたが、相手に嫌だ怖いと言われると、トールには強要することが出来なかった。


 服を肌蹴させ、お湯を絞った布でコレットの肌に触れていく。

 余計な感情は何も無かった。拠点では彼女よりもよほど成熟した少女に対しても同じことをした。更に言えば、男相手でも、やった。動けないまま汚物を流した者の処理をし、臀部や陰茎を洗ってやった。特に嫌悪感も浮かばなかった。年下のトールへ泣きながら謝るのを宥め、頭を抱き、撫でて、心を落ち着けさせた。

 とても明るく、仲間内の雰囲気を良くしてくれていた彼は、その日の夜に石へと変わった。

 最後の演奏はとても綺麗で、トールは生涯忘れないだろうと思った。


「ねえ……」

「うん」

「私の身体、まだ、綺麗かな」

「うん、綺麗だよ」


 乳房からわき腹へ抜けていく無残な傷口を拭きながらトールは答える。

 集ってくる虫を払い除け、新しい布を当てて縛り直した。替えの無い衣服自体が破けて、布で縛り上げることで形を残しているだけの状態だ。


「トール」

「うん」

「ごめんね。ごめんね」

「大丈夫だよ」


 コレットは十二人の中で最も経験が浅かった。トール誘拐が初陣だったというから、浅いというより、無いに等しい。

 肉体的にも未発達で、何よりアラルド農園の出身者だ。反発によってハーウェイの壺へ身を寄せたが、物事の判断基準はやはり農園のものに近い。

 この過酷な状況で真っ先に心折れ、守ると言っていたトールに甘え、戦いも消極的なものになっていた。だとしても彼女を責める者は居ない。敵に浚われ、死ねないまま苦痛を味わっていた二人を、彼女が終わらせたのだ。使用していた武器が投げナイフだったことが、誰よりも早く確実な葬送を可能とした。


 すっかり気弱になった彼女はひたすら謝り、縋ってくる。

 投与されつづけてきた薬物による影響も強い。あまり目を離しているとパニック症状を起こし、自殺しようとするほどに、彼女は追い詰められていた。眠っている間も謝罪を繰り返し、時折、農園に残してきたという兄の名を呼んでいた。


 不意に手を取られ、されるがままにしていると、彼女はトールの指を舐め、しゃぶるようになった。赤ん坊がそうするように。

 やがて眠りに落ちると、トールは再び行動を始めた。


 バリケードの確認、周囲の状況確認、敵の配置、新たな脅威は無いか。

 狼煙を追加し、残る燃料と食料を確認し、屋上にある雪を集めてバケツへ抑め、焚き火の近くに置いて溶かし、あるいは沸かした。

 洗った布を煮沸消毒し、絞って天井に渡した紐へ掛けていく。また皆の様子を見て周り、余った時間で施設内の安全な場所を巡って使えそうなものを集めた。


 それから、そっと、人目に付かない場所を選んでトールは倒れた。


 熱が、また増している。


 北風によって流れたことでマシにはなっていたが、拠点に居た時よりも霧はずっと濃い。

 トール達はアムレキアから脱することは出来なかったのだ。

 強引に切り抜けようとはしたが、敵の分厚い壁に阻まれて内へ内へと追い込まれてしまった。コレットを始め、精神的に不安定な者が出始めているのも無関係とは言えない。トールも気を抜くと自分が分解されてしまうような気味の悪さを覚えている。ロディに言われた、己を、一点を見詰めていろという助言に従うことでなんとか保っているが、先ほどはつい眠ってしまった。

 どれほど時間が経ったのか、分からなくなってしまうほどに、感覚というものが曖昧になりつつある。


 しばらくしてトールは立ち上がり、焚き火近くのバケツの中が暖かくなっているのを確認して、食事の用意を始めた。

 いつしか持つようになっていたナイフで食材を切り落としつつバケツの中へ投じていく。バケツは金属製だから、焚き火に触れるくらい寄せれば沸騰もする。調味料も碌に無い状態とはいえ、僅かばかりの野菜と蕎麦を一緒に煮込めば食べられるものが完成する。水は多めの粥状態にはしているが、やはり消化に良いとは言えなかった。

 米か、稗か、粟か、せめて脱穀容易な穀物でもあれば。

 蕎麦は非常に固く、トールの力ではそのまま煮込む以外に無かった。一応の籾取りはされているが、何度もお湯を追加しながらひたすら煮込まなければ、疲れ果てた今の状態でまともに飲み込めるかどうか。


「トール君、手伝うよー」


 火の暖かさに頭がぼうっとしていたトールの隣に、ピアスの少女がしゃがみ込んだ。

 疲労の激しい様子で、彼女も軽くは無い傷を負っていたが、はにかむ表情には力があった。


「ん、でも」

「しっかり休ませて貰えたからねー、私はまだまだ大丈夫だよー」


 おっとりとした口調はかつてと変わらず、彼女は強引に料理に使っていたへらを奪い取る。


「トール君もちゃんと休もうねー」

「僕は、戦ってないから」

「戦ってるよー。ちゃんと、私達と一緒にねー」


 じわりと滲む涙を袖で拭い、トールはへたりこんだ。


「じゃーん、干し肉ー。隠してた本当の非常食なんだけど、塩気あるから一緒に煮込めば美味しくなるかなー?」


 全部いっちゃえー、と手早くバラしてバケツへ投じた彼女は、同じく腰を落として呟いた。


「これが最後になるかもだしね」


 言って、自分で驚き、慌てた様子で付け加える。


「お肉のことねーっ、食料あんまり持ち出せなかったしー、食べられるのはこれくらいかなってさー」

「まだ、少しだけ」

「そっかー、トール君しっかりしてるねー。私だったら全部放り込んじゃってたかもねー」


 へらでバケツの中身を回して、軽く掬った蕎麦を摘んで齧る。

 唸る様子からして、出来は良くないようだった。


「麦とかあればねー」

「うん。お米とか、食べたい」

「お米かー、来訪者(ビジター)の人があれこれやったことはあるみたいだけどさー、壁のこっちじゃまともに育たなかったみたい」

「壁の向こうに行ければ……」


 言って、それがどれほど滑稽な発言だったかをトールは気付いた。

 壁どうこうの前に、霧の中から抜け出すことすら出来ないのだから。

 ロディや、ムゥや、アンディやニールが居て、越えられない壁なのだから。


「……壁の向こうはねー、あったかくて、食べ物が一杯あって、危険なんかどこにもない場所があるんだよー」

「行ったことがあるの?」

「ないよー。でもそう思ってる。そうじゃなきゃ、あんな大きな壁で私達を弾き出して、守ったりなんてしないんじゃないかなーって」


「壁の向こうから来る商人は着るものからして違ったな」


 聞いていたのか、ツバキが話に混ざってきた。

 潰れた右目が痛々しく、なのに彼の表情は明るい。


「ずっとガキの頃、触ってみたらあまりにも艶やかで驚いた。その後でしこたま殴られたがな」


「アイツらの食べる物もこっちとは違うよな」

「あぁ、護衛の時に覗いてみたらすげえ旨そうで、殺して奪い取ってやろうかと思ったよ」


 どうやら全員起き出してきたらしい。

 のろのろと立ち上がる者が二人、転がったまま身体を伸ばして楽な姿勢を探す者が一人。

 ツバキが少し咳き込み、近寄ったトールが身を支えて背中を擦った。取り替えたばかりの止血用の布に、もう血が広く滲んでいる。

 コレットは身を縮め、俯いていたけれど、臆病そうな視線を周囲に巡らせ、また顔を伏せた。


「そっか、春」


「ん? 思いついたのか?」


 ツバキから掠れた声が掛かり、トールは頷く。

 先ほどピアスの少女とした会話で、彼の名前について話した時、言葉に出来なかったものが浮かんできたのだ。


 今となっては遠い過去のように感じられる、全員が揃っていた頃の話。


「なんだよそれ」

「俺の名前の由来だよ。植物の木と、ハルって言葉が合わさってるんだって」


「『椿』」


 ここには書くものは無かったが、トールはその名を呟いてから話し始めた。


「春は、冬の後に来る季節だよ。冬は、ここみたいにとても寒い季節。四つあって、移り変わっていく」


「寒期と暖期みたいなものか」


 頷き、言葉を続けた。

 いつしか全員が耳を傾けていることに気付きながら。


「寒い冬の後、春が来て、どんどんと暖かくなっていくんだ。雪は自然に解けて、その下から草や花や、いろんな植物が生えてくる。こんな風に着込んだりしなくて、半袖のシャツ一枚で過ごせるようになるよ」


「凄いな。アムレキアじゃ、暖期が来たって上着無しじゃ過ごせない」

「アンディはいつもアレだよな」

「もっと寒くなったら一枚増えるけどな」

「見てると寒いよねー」


 料理を受け持ったピアス少女がバケツの中を一摘みし、味わった。

 うーん、と足りなさそうではあったが、近くに用意していた器へ移し、動ける者から先に配っていく。

 自分の分を後回しにし、ツバキの元へやってきて彼に食べさせ始める。トールもコレットへ食べさせようと動くが、先に別の者が器を持って寄っていった。話を続けてくれよと、その顔が言っている。


 くたくたになった野菜入りの蕎麦粥をトールも一口食べる。

 干し肉のおかげだろう、塩気が追加されて強烈に舌を奮わせた。


「春はいろんなものが実り始めるんだと思う。一年が始まるのも春だった。綺麗な花が咲いて、皆で花を眺めながらおいしいご飯を食べて、騒いで、遊んだりする」


 トールの説明は拙いもので、主観に拠った部分も多かったが、誰も気には留めなかった。

 語られる理想のような、理想そのものな世界の話を聞いて、好き勝手に夢想する。

 温かな食事の途中でもなければ誰かが泣き出していたかも知れない。


 アムレキアには冬しかない。


 少年の語るような季節を知るのは、この場で少年唯一人。


「寒い、冬の後に来る、か」


 ふと、ツバキが漏らした。


 遠い世界を見るような目で、遠くを眺めていた。

 潰れてしまった右目には、何かが映っているいるだろうか。


「ツバキってのは、そんな()()()に咲く花の名前なんだな」


「うん」


 彼は笑った。

 どういう笑みなのか、トールには正確に読み取ることは出来なかったけれど、悲しい感情では無いようで、話が出来て良かったと考えた。


「いつか、アムレキアにも来るかな」


「それは……」


「だって俺、そうじゃない、と……いつまで経っても咲けないじゃないか」


 言って、ツバキは震えながら息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 ピアスの少女が慌てて身を支え、今更のように傷口を確認する。

 意味は無い。もうずっと、彼はいつ死んでもおかしくない傷を負っていたのだ。

 まともな治療は出来ず、傷口を縛って抑えるだけで限界。それもあっという間に布が血塗れになってしまうような状態だ。

 身体は完全に冷え切っていて、どれだけ温めても元のようにはならなかった。

 気温が低過ぎるのだ。

 トールは布を取り替えた時、しゃりしゃりと音を立てるそれが、シャーベット状に凍りついた血液が原因だと気付かなかった。


 しばらく、時が止まったように固まったツバキは周囲がまさかと思って身を寄せた途端に動き出した。天を仰ぎ、流れた涙すら凍り付かせて、


「皆、すまない……俺、は」


 ここまで頑なに封じてきた後悔を口にしようとしたツバキは、けれどまた数秒呆けたかと思えば、虚ろにどこかを見詰めた。


 やがて、花開くような速さで笑みを浮かべ、


「あぁ、あたたかい。これ、が、ハ――――」


 ころりと、石が転がった。

 覆い被さった服の中からピアスの少女がそれを取り出し、小さく抱き締めた。


 誰もが沈黙し、俯いていた。

 このまま時間が凍結して、何もかもが終わってしまえばと思っていたのかも知れない。


 元より希望の薄い状況だった。立て篭もり、猶予を得たとしても、今となってはアムレキアの外までどれほど掛かるのか。そこに至るまでの脅威を考えれば、銀狼(フィーリル)など居なくとも脱出は困難極まりない。立て篭もる時、誰一人として脱出路を考えなかったことからも、避けていただけで現実は見据えていた。

 彼が支えだったのだ。

 判断を誤ったのかどうかは、今となっても分からない。

 即脱出を選んでいたら全滅は避けられたのかもしれないが、死者は当然出ただろう。その時になって篭城していればと考えた時、きっと最高の策に思えたに違いない。


 ツバキは常に決断を続け、意見を整え、方向性を示し続けた。

 言葉を交わすことを忘れず、それぞれが好と感じる部分をくすぐって士気を維持し続けた。


 いや、能力が高かったからではない。

 彼への好感というのもあるが、少し違う。


 もっと刹那的で、短絡的な感覚。

 この脅威に晒されてからというもの、誰もが彼の声を聞き、指示を仰ぎ、命を懸けて戦ってきた。

 依存と呼ぶ程ではないが、頼り、信じ、懸けていたと言える。

 その連続の中に居たのだ。


 だから途切れる。


 彼の死に、彼を中心として戦ってきた少年少女らは、ただ沈黙して動きを止めた。


 まるでツバキという名の青年が、集団における心臓であったかのように。



「ごちそうさまでした」



 器を置く、固い音がした。

 静寂に響いた僅かな音を頼りに全員の目が向く。


 少年、トールが食事を終え、両の手を合わせて目を瞑っていた。

 数日の間に幾度も見た、彼の作法であるのは全員が知っている。

 なのに今、手を合わせたまま静止を得た姿に、祈るような想いが篭っているのだと気付く。


 のろのろと誰かが動き出す。

 今更ながらに手にしていた器を思い出したように、食事を再開した。

 腕の上がらない者には先に食べ終えたトールが寄っていき、食べさせた。


 洟を啜る音がして、震える喉へ固い蕎麦を流し込み、しゃくりあげる声を塩気と野菜の出汁が利いた湯で喉の奥へ押し戻し、ほう、と息を吐く。白く、温かな息が周囲に満ちた。


 誰とも無くトールを真似て、両手を合わせた。今度は、全員で。

「ごちそうさま」

 そこにどれほどの意味があったのか。

 瞑っていた目を開いた時、誰もが瞳に熱を取り戻していた。


 とはいえ様々だ。熱を持ちながらも、ここまでに負った傷で身を起こしているのもやっとという者は悔しそうに息を落とす。積み重なった精神的負荷によってすっかり気弱になっていたコレットは震えながら身を抱く。綺麗さっぱり切り替えとはいかないのだろう。肉体的にも限界寸前か、限界を超えている状況だ。


 しかし、僅差でもあった。


 唐突に建物全体が大きく揺れ、屋上の一部が崩落した。

 地上五階の屋上へ至る道は全て塞がれ、これまで外敵の侵入を阻んできたが、立て続けにぶつけられる衝撃が前提条件ごと打ち崩す。

 手駒に仕事を任せて高みの見物をしていたネームド、銀狼(フィーリル)本体が痺れを切らして動き出したのだ。


 六十年を人の手が入らないまま形を保ってきた建造物だが、一部が崩れてしまえば後は連鎖的に伏していくのみ。全てが、とはいかなかったものの、瓦礫を踏んで屋上へ至るだけの道が出来た。同時に床が小さく、けれど止まる事無く揺れ続けた。その震動が、途轍もない数の獣がただ歩き、駆けているだけの結果として起きているのだと知ったのは、拠点を爆破し逃亡を始めた時だった。

 波のように押し寄せる音と、揺れ。

 全体像を見通せない霧の中で明確に主張してくる大群の気配は、それだけで立ち向かう者の心を押し潰しかねない。


 やがて霧に混じって身も心も、魂すら凍り付かせるような冷気が屋上の施設内へ染み込んで来た。

 沸騰していた湯は瞬時に凍りつき、熱を奪われた為か焚き火が消えた。

 異常と呼べる事態もかのネームドが持つ特異能力を思えば納得がいく。


 途方も無い冷気を死者の石が払う。

 それでも周囲の物体が熱を失えば気温は下がり、触れれば奪われる。


 冷気は、石の力で防ぐことが出来る。

 石は霧による影響も、また継承者が放つ力もある程度は減衰させることが可能だ。


 つまりこの冷気こそ、銀狼(フィーリル)と呼ばれる特急ネームドが持つ力なのだ。


 霧と冷気が織り成す分厚いカーテンの向こうから、無数の獣達が姿を現した。それらを率いている見上げるほどの狼が出てくると、トールは物言わず立ち上がった。何の力も無い少年だ。確かにここまでの時間で死者の石に色を見出し、霧の影響を排除する目的で所持しても居た。けれど力を引き出す訓練もしておらず、当然ながら戦う技術も無い。不安定な力しか持たない素人が、数多の戦士を食い千切ってきた化け物を相手に戦える筈も無い。


 それでも少年は立つ。

 拳を握って、誰よりも先に敵と向き合った。


 やや遅れてピアスの少女が並び、更に後ろから二人が、動けない者は悔しそうにしながらも視線だけは向けて。


 身を抱いていたコレットが脚を震わせながら立ち上がり、武器を握り込んで前方をにらみつけた。


 寒さ険しい冬の後に春は来る。

 そこで芽吹く花の名を皆が思い浮かべ、


 獣達の遠吠えが鳴り響き――――武器を手にした少年少女達が立ち向かう。


「行くよ!!」


『応!!』


 重なる声に想いを託し、最後の戦いが始まる。

 逃亡の可能性すらかなぐり捨て、ただ、己の意地を懸けて。


 春風のように駆けて行く仲間の背中を、トールはじっと見続けていた。


    ※   ※   ※


 先行したピアスの少女、ミランダが三節棍で一抱えもありそうな狼を叩き飛ばす。

 光子を纏い、石の力を用いた打撃だ。通常ならば打撃部位を潰し、抉ることも可能だった衝撃はしかし、同じく銀狼(フィーリル)の力によって強化された肉体が強靭に受け止めた。身を飛ばされ、打撃によって内部の骨や内臓は傷付けられたが、巧みに身を返しながら脚からの着地に成功する。


 そこに、吸い込まれるようにして木杭が投げ付けられ、核となる結晶が砕けた。


「仕損じるなんで珍しいね」


 霧となって消えていく狼に見向きもせず、両の手から杭を投げ付け、敵先頭集団を排除していく。

 コレットは惜しげもなく武器を消費していく。持ち込んでいたナイフも殆ど消費し、回収も出来ていない為、使っているのは拠点に居た頃からせっせと用意し続けていた木製の杭だ。

 重量は乏しく、強度もイマイチ。

 普通ならば武器にすらならないものでも、光子を纏った石の使い手が扱えば、ライフルの弾丸並に威力を持つ。


 ましてや戦場の彼女は正確無比な投擲術による結晶の破壊を成し遂げる、腕利きの戦士だ。


「腕の感覚がさー、ちょーっとしんどいねぇー」


 言いつつ今度は正確に結晶を打ちつけ砕き、返す手で回り込んでいた個体の鼻面を弾き、間合いを開けて持ち手を変えると三節棍の間合い一杯から結晶を破壊する。周囲にはもう山ほどの敵が居る。倒し方一つ間違えればあっという間に押し潰され、死ぬだろう。


 屋上の割れたタイルを蹴り、位置を調整。

 襲い掛かろうとする敵後衛の前に様子見をしている前衛が来るよう動き、鈍った所に牽制を入れ、すぐさま身を翻して反対側の敵を粉砕する。


 手の足りない所へはコレットが正確に援護を入れ、時に自ら接近して蹴り上げる。


「ひゅーっ、かっこいいー」

「あと十本しかないの、しっかりして」

「そしてちょーくーる」


 トールという名の少年に依存にも似た愛情を注いでいたコレットだが、平時の態度は冷淡で、あまり笑顔を見せない。

 戦闘中、訓練中などは終始無言が当たり前。発言も連携に必要な最低限だった。


 なのに今、コレットは薄っすらと笑みを浮かべていた。


 耳元で空けたばかりのピアスが揺れている。

 凍傷になるからと、今背中を預け合うミランダから貰った、肌に触れる部分が樹脂と木で作られたものだ。色付けや加工の段階でかなり手を入れている為に見た目には分からないが、触れる感触はやわらかく、暖かい。


 目標に向けて駆け、交差する二人の耳元で同じピアスが揺れ、光を溢す。


「っしゃあルァア……!!」


 優雅な舞いのように戦う少女らの脇を、豪快に刀剣を振り抜いて敵を薙いで行く少年が居る。

 年少組の中でも歳が上で、叫ぶ声には少年としての色と、青年としての色が交じり合っている。声変わりを迎え始めた未成熟な肉体を存分に降るって、強引過ぎる斬り込みを続けていた。使用している刀剣は先に逝った兄貴分のものだ。自分で使っていた木刀はここまでの戦いで砕けて喪失している。


「っっがァァァアアアアア!!」


 更に一人が飛び出してきた。代用品の、鉄骨に瓦礫を括り付けた棍棒で力任せに獣達を殴打していく。

 血走った目と、尋常ならざる叫びから薬物を摂取しているのは間違いない。出遅れたのは、動かない身体を無理矢理にでも動かす為の処置をしていたのだろう。他の者とは光子の量が違うのは、平静を失って石の力を制御できていない証拠だ。消耗が激しくなる欠点はあるが、恐怖も痛みも忘れた少女の戦いぶりに、残る三人も己を燃やして挑みかかる。


 四人は決して防御を選ばなかった。

 相手は圧倒的に数で勝る。

 待ちを選べば確実に二匹以上で襲い掛かってきて、反撃の手が足りなくなる。

 当初の消極的とも言えた戦いぶりから一変、主に命じられるまま命を消耗し始めた時点で状況は決壊している。

 だから、その押し潰してくる波ごと蹴散らすようにして進み、状況の主導権を握り続ける。

 乱戦では立ち回りこそが全てだ。細かな武芸は一重の差を覆す力になるが、この場ではいかに早く敵に対処するかが重要となる。

 早く、隙を生まず、動きを止めないもの。

 結局は駆け引きも何も無い、単純な一振りに帰結するのだ。

 より早く、より強く、相手の攻撃を上回る。

 時に仕留めないことさえも選択肢に入った。

 仕留めれば霧となって消える敵も、生かせば重量のある投擲武器か、壁に変わる。

 限界を超えた脚で駆け回り、時に姿勢を崩す者も出たが、支え合うことで何とか凌いでいた。


 状況は順調に思えた。

 荒っぽさはあるが、四人それぞれが連携し、安定して敵を倒していけている。

 時を追う毎に増える傷はいっそ心を昂ぶらせていった。

 このままいけば、削りきることさえ。


 僅かな希望を嘲笑うようにして、狼の咆哮が突出した二人を貫く。

 渦巻く冷気が取り囲み、それはすぐに払われたが、武器持つ手指の一部が凍結し、足元にも氷が張って姿勢を崩す。


 巨体の突進を辛うじて回避した少年は、張り付いた指が最早自由にならないと知るや、駆け出す姿勢の中で衣服を割き、刀剣と手を縛り上げた。切れ端を噛んで引っ張りつつ敵を見定め、再びの突貫。


 コレットが援護した。

 投げたなけなしのナイフの一つが首元を捉え、一つが頭部の角、露出した結晶を強打したが、破片一つ飛ばす事無く弾かれた。


「効かない!?」

「高純度の結晶ってなるとねー、一回二回じゃ破壊し切れないよーッ!!」


「なら何十回でもぶっ叩いてやるよォ!!」


 駆ける少年が阻む獣達を切り伏せ、強引に切り抜けようとしているが前へ進めなくなって身を引いた。暴れ続ける相棒の首根っこを掴み、回収していく。


「ア――――アアアア!! ッアア!!」

「ッ、俺は敵じゃねえよ!? っちくしょう!」


「いいから下がって」


 仕留めた敵は霧散する為、その陰から飛び掛って来られると守る敵の戦線を突破するのは容易ではない。生かすことで壁にしたり、叩き付ける道具としてきたが、流石に学び始めたのか動けなくなった味方を盾に次々飛び掛り、押し潰そうとしてくるのだ。

 うまく立ち回ることで数を減らしていくことは出来ても、不意打ちを執拗に狙ってくる敵の動きは実に狡猾だった。


 統率された百を越える群れというのは、想像以上に厄介だ。

 四人がどれだけ善戦しようと、傷は増え、疲労は蓄積し、限界は来る。


 突破出来、肉薄したとしても急所の破壊すら困難で、襲い掛かる冷気と巨体から繰り出される攻撃は矮小な人間にとって十分致命的なものとなる。


 この戦いはいずれ崩壊することが目に見えている。

 どれだけ抗い、成果を挙げても、行き着く先は同じなのかも知れない。


 それでも、と。


 四人は戦い続けた。


    ※   ※   ※


 アムレキアに君臨する脅威の一角、銀狼(フィーリル)は悠然と戦場を見据え、駒を配置していく。入念に、丹念に、じっくりと時間を掛けて得物を調理してきた。弱らせ、脅威を削り、怖れを刻み込ませ、諦めさせる。そういう予定だった。姿を見ても何ら反応を示さず、食われるがままとなる。それが銀狼(フィーリル)の目指した調理の結果だ。

 しかし得物達は折れなかった。

 いや、折れて尚も身を立て直し、立ち上がったのだ。

 この得物をただ力尽きて死なせるだけではいけないと銀狼(フィーリル)は考えた。

 追い込んだ得物を狩ってこそ狼。

 死肉に(たか)るのは誇り無き畜生。


 今、死に物狂いで戦う得物を見て、狼は思う。


 最初から戦うべきだったのではないか。


 狩りの作法として様々な手を打ちはしたが、力尽きて倒れるばかりの得物を貪っても、それは死肉を漁るのと変わりないような気がした。喰うことが第一だ。方法を選んでいては飢えて朽ちるばかり。けれど飢えを忘れて霧の奥に引き篭もっている内に、何かが変わっていった。

 霧の中には様々な流れがある。

 絶えず蠢き、揺れて、染み込んでくる。


 煩わしいと霧を飛び出したこともあるが、襲い掛かってくる外敵から負傷を貰い、仕方なく引き返した。

 故に()()らが脅威であることを知り、十分な警戒をしてきた。


 霧の中で傷を癒している間はその戦いの日々を思い出していた。

 思考に釣られてか、流れる想念が集い、沁み込んだ。


 些細なことに過ぎない。


 どれだけ外の影響を受けたとして、狼は狼だ。


 目の前に居る敵を叩き潰し、肉を喰らう。為にこそ戦う以上のことはない。


 しかし、と立ち塞がる敵の向こうに立つ、小さな()()銀狼(フィーリル)は見た。


 この場に於いて、何者よりも頑として立つ生物。

 落ち窪む渦の中へと駆けずり落ちていくだけではなく、明確に倒さなければいけないのだと感じている。


 折れても立ち上がる敵を徹底的に叩き潰すには、アレを始末するべきか。


 思い、一歩を踏み出した所で熱を感じた。

 ()()の一つが作ったものだ。

 熱を発し、異臭を撒き散らし、煙を生み出すもの。


 銀狼(フィーリル)は力を振るい、すぐ近くにあった狼煙を消した。


    ※   ※   ※


 その行動に、トールは違和感を覚えた。

 焚き火を消した時のように、特異能力による極端な冷気が熱を奪い、火を消してしまうことがあったとして、それは前脚を軽く払うだけで済む動作の代用となるのだろうか。

 相手は尋常ならざる相手だ。生物と呼んでいいのかも分からない。力が肉体を動かすのと同義であるなら、気にするほどのことでもない筈だ。


 トールはじっと戦場を観察してきた。


 ここに限らず、ここまでの戦い全てを、戦う仲間達の奮戦を見守るのと同じくらい真剣に、敵である獣達の動きを見てきた。


 結果思うのは、


「他のと変わらない」


 動きに特別妙な様子が見当たらない。

 仮に冷気を肉体と同じように扱っているのであれば、何気無い動きにも違いは出てくる筈だった。

 見落としている可能性はある。

 拙い考察の結果として出ただけのものかもしれない。


 同時に、違っていたとしても大きな穴にはならないと断じると、彼は行動を始めた。


 火を起こす。

 火打石はある。火口も、乾いた木材もある。冷気によって沈火させられたが、濡れた訳でも無い。作業はこの数日で何度も繰り返し、習得した。戦いによって銀狼(フィーリル)の気が逸れているおかげか、あっさりと火は点いた。元より燃えていた薪だ。もっと火力をと思って、ここまで溜めていた火口を全部投じて、太い薪へ火を移す。


 戦いの状況を把握するのも忘れて作業をし、準備を終えると、トールは先端に火の点いた薪を全力で放り投げる。


 仲間が目を向けるが、意図を把握し切れず放置したのが分かった。

 構わず薪を投げ続ける。


 すると銀狼(フィーリル)が優先的にその火を消し始めたのだ。


「拾って!!」


 言って、投げた薪をピアスの少女ミランダが受け取ってくれた。

 冷気が襲うも、光子を纏う石の使い手には効き目が薄い。

 火は消えなかった。


 彼女が火を向けると明らかに銀狼(フィーリル)が身を引き、手勢の獣達も距離を取った。


 他の者も気付く。

 トールが投じた薪が四人に行き渡ると、急激に状況が変化していった。


 火を構え、押し出しながら一人が素早く敵を狩り、仲間の元へ戻る。反撃に出た獣相手に火を翳せばそれだけで脚を止め、時に小さく鳴き声を上げて引き返していった。


 銀狼(フィーリル)が雄叫びをあげる。


 苛立っている。

 どういう理由かは別として、火を恐れ、嫌がっているのだ。

 トールは更に薪を投じて四人の足元に火を増やしていった。近くにあるだけで石の効果を多少受けられるようだ。安全というには未だ不確定要素は多かったが、状況を頼りに四人の攻撃が過熱していく。


 ある程度薪を投じると、流石に火が弱くなったので薪を追加してしばらく待った。

 燃え移るには時間が掛かる。


「トール!!」


 呼び掛けられて、はっと顔を上げた。

 この場で立ち上がることが出来ず、身を起こして戦況を見ていた少年だ。


「違うっ、前だ……!!」


 血を吐くような声に押されて前を向くのと、跳び上がった銀狼(フィーリル)が四人を乗り越えて目の前へ着地するのは同時だった。


 崩落によって緩んでいたのだろう天井の一部が崩れ、姿勢を崩すも、トールへ向けて冷気を飛ばし、攻撃を仕掛けてくる。


 幸いにもミランダの置いていったツバキの石が攻撃を払ってくれた。

 けれど、次はないだろう。

 冷気は防げても、あの大きな口で喰らい付かれればトールに成す術は無い。


 巨体の向こう側から必死に名を呼ぶのはコレットだろうか。


「逃げろっ!」


 背後の少年の声は、懇願に近かった。

 彼はもう動けない。ツバキ同様、死を待つばかりの状態だ。


「いやだ」


 残る火の点いた薪を手に取り、トールは立ち向かった。


 勝てるとか勝てないとか、意味があるとかないとかはどうでもよかった。


 立ち塞がる理由がある。

 それだけで十分だと少年は思った。


 火を掲げられて忌々しげにする銀狼(フィーリル)だったが、所詮は軽く小突くだけで息絶えるほどに脆弱な命。

 威嚇としての雄叫びをぶつけ、圧せられて姿勢を崩しかける少年へ向けて、冷気を振り撒き今度こそ喰らい付く。至近でぶつけられた為か、焚き火も、薪の火も、呆気無く消えていた。

 掲げていた腕は凍りつき、猛烈な痛みを訴えてくる。


 成す術無く、トールはそれを睨み付けていた。

 最後まで目を逸らす事無く。

 終わるものかと信じ、瞳に火を灯して。


 時間が止まって見えた。


 大口を開けた銀狼(フィーリル)が固まり、凍りついたようにすら。


 否、止まっていたのだ。

 あれほど地獄の番犬(ケルベロス)を思うままに蹂躙していた化け物が、得物を前に思わず動きを止める事態があった。


 炎が点る。

 温かな風が吹き、新緑の火が周囲に広がっていく。

 まるで春の芽吹きのようだとトールは思った。


 その中心に彼が居る。


 ライオンみたいな髪をした青年。



「良く戦った、トール。あぁ、もう大丈夫だ」



 ロディ=ロー=エーソンが、やってきた。





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