12
「哨戒終了ぉー。500M圏内は掃除しといたよー」
鍵束の輪をくるくると回しながら、ピアスの少女が報告をする。
後ろから二名、少し遅れて三名が入ってきて、少女は奥から出てきた少年と違う部屋へ入っていく。扉は開けたままだ。部屋の机に広げた周辺地図と合わせて詳細な報告をする為だろう。何名かが興味を持って覗きに行くが、大半は奥の広々としたリビングで休むことを選択した。
「はぁ……いいよなぁココ。もうココに住みたいって」
「霧の中じゃなければね」
アムレキア西部より少し霧の中へ侵入した場所、工業地帯の反対側で、繁華街からは程近いこの地域は高級住宅街だ。
当然ながら結晶化事変当初は多くの略奪に合い、結果生まれた闘争によって家屋が倒壊しているのも珍しくはなく、六十年に及ぶ時間を放置されたことで殆どが自然に呑み込まれている。
トール達が潜伏している場所は奇跡的に倒壊を免れ、争いに巻き込まれた様子もなく放置されていた一軒屋。
他に比べれば一回り小さく、周囲から姿を隠すように存在していたことが功を奏したのか、内部の家具まで使用に耐えられる状態を維持していた。
電気は無く、コンロも使えない。
リビングに大きな暖炉があり、そこが調理場であり、食事場であり、寝床だった。
また暖炉近くには幾つものバケツに目一杯の雪を投入し、随時解凍することで水を確保している。
食料の一部は二階のベランダにある木箱で保存されている。夜には氷点下が当たり前の環境では、外気は天然の冷蔵庫となる。ロディのように自分用のものを所持しているというのは稀な例だ。
文化的であるかは別として、衣食住が確保され、人力という点でも充実した環境。
トールからすれば霧の中に居るというだけで落ち着かないのだが、ここで過ごす者達に気にした様子は無い。
慣れているのだろう。
温めたお茶を飲んで身を温めながら、しばらく前に見た光景を思い出す。
外気から遮断されているからか、殆ど霧の無い家の中、二階の寝室と思しき場所にあった、2Mほどの濃い霧。
大きいのが一つと、小さいのが一つ。それと、庭の片隅にあった中位の霧。別室にもう一つあるらしい。
想像するだに怖ろしいが、まさしく人がそこで死んで、魂がそのまま縛り付けられたように漂っていることの証だった。
霧の薄い場所ではままあるらしい。
濃い場所ともなれば判別も付かず、それ以外でも奴らの活動によって形を保っていないのが常だというが。
「ちょっとチャーリーん部屋行って来る。刃が毀れて来たわ。あそこ砥石あったろ?」
刀剣を扱う少年が言うと、一人が付いていって、また別で一人がトイレに立った。
この家の住民と面識があった訳は無いが、彼らは霧に対して名前を付けて呼んでいる。間借りこそしているが、礼を払い、無闇にかき回したりせず、部屋にもあまり入らないのだという。この家へ入った時にも最初に行ったのは挨拶であり、霧のある場所の清掃だった。
「あ、僕も……トイレ」
やや遅れてトールも家を出た。
コレットも流石にトイレにまでは付いてこない。
大丈夫かぁ、と声を掛けてくる年長者に声が出なかったので大きく頷き、足りないかなと思って手を振る。
閉じた扉の向こうで息を落とし、疲れている自分を確認した。
輪に加わっていても平気だと考えていたのを、多少は見直す必要があるのかも知れない。
少し進んで、家の屋上を見やる。
そこで周囲を警戒しているのだろう少年がトールに向けて手を振り、彼も会釈で返した後、やはり手を振り替えした。
どうにも会釈をすると首を傾げられてしまうのだ。よくよく様子を見て、素振りを観察してはいるものの、習慣というのはすぐに直せるものではなかった。
恥ずかしかったので角を曲がった所で身を隠し、用を足す。
落ち着いてからふと、先に出た少年が居ないことに気付いた。
大きい方だろうか。家のトイレは使えない状態になっているから、外でするしかないのだという。近くの家を一部改造して女子達は上手く使っているそうだが、覗き防止を訴えられ男は使えないし、そこまでの労力を少年達は面倒がった。どちらにせよ、ここに留まるのは数日、長くて五日未満だという。
「おーい、聞こえるか?」
「はいーっ」
周囲に目をやっていたら、屋上の見張りから声を掛けられた。
「あぁ居るならいい。終わったら早めに戻れよ?」
「はい」
近くにあった雨水を溜めたという壺から手洗い程度の水を拝借し、トールは戻る。
扉が閉まるまで、結局もう一人の返事は無かった。
※ ※ ※
などと不安に思っていたのだが、
「やーっ、やばかったやばかった!! 糞してたら真後ろにチビっこいのが居てさ!? もりもり出てるってのに襲い掛かってくるからもう慌てた慌てたーっ!」
用心深く得物の槍を携帯していたおかげで事なきを得て、幸いにも衣類を汚す事無く彼は生還した。
チビっこい、というのは子どもの脳無しの事らしい。
「つーかお前っ、哨戒やったのに余ってるってどういうことだよっ!? 危うく俺、今日明日下半身丸出し生活だったぞ!?」
「人数居ないんだからー、そんな完璧に掃除出来る訳ないでしょー。手持ちの石だって少ないんだから無駄遣いしたくないのー」
「それと監視どうなんだよっ、接近したらちゃんと知らせろよな!」
「お前が遠くまで行き過ぎなんだよ。近くで穴掘って埋めろて言ってるだろ」
「公園まで行けば普通にトイレあるんだからそこでいいじゃん。そもそもさ――――」
口論はしばらく続き、トールはやや緊張してしまったのだが、どうにもあの三人の言い合いはいつもの事らしく、誰もが適当に流したり、囃し立てたりするだけだった。
十二人の内、常に半数は警戒に当たり、休む時も元気良く騒ぐ。
気を使わせているのだろうかと心配したが、離れている時も同じように騒いでいたので、常からこうなのだ。
時間が経過し、また人の入れ替えが始まるとトールは奥から手拭いを持ち出して配った。
戦う術を持たず、役に立てることがなかったので、自分で動き回って仕事を探した。
部屋の掃除、雑草抜き、保存食ばかりの食事用意には手間取ったが、とにかく率先して働き、邪魔にならないよう努めた。
「ありがとう、トール」
「……うん」
哨戒に出ていたコレットが手拭いで汗を拭き、一周回って受け取りに来たトールを見ると、
「わ、わたしは自分で洗うからっ」
やや慌てて緩めていた服を整え、髪を弄り始めた。
仕方なく回収した分を軽く水洗いにし、絞って外へ干しに行く。
庭に物干し竿があり、そこに洗ったものを掛けていった。
霧の中にあっても陽の光は感じられる。
薄い、というのもあるだろうが、50Mも先となれば難しい。
霧。
人が、獣が死後に結晶化し、それが霧散した結果のもの。地縛霊のように死んだ場所で留まるが、風や雨で簡単に散らされてしまい、また話によると地下室のような場所にも入り込んでくるという。
霧は、厳密には液体だが、極めて細かい液体である為に浮遊し、気体のような動きをする。
家の中でも観察していたトールは、その入り込んでくることの理由が通気口や水が染み込めるような所があるからだと検討を付けている。
相談はしてみたが、それら全てを塞ぐのは現実的ではなく、換気もしなくては窒息する。また彼らが霧をさして気にしていない事が原因となり放置されている。
しかしトールも勘違いしている。
霧と言われてついそのまま飲み込んでしまっているが、そも細かく霧散した結晶、微粒子と言える。
薄いと言っても、霧状に目視可能なほどの花粉、と例えるなら実際にはどれほどの濃度なのかは推して知るべし。
このアムレキアで生きてきた彼らにとって薄い場所なのであって、これが常軌を逸した行為であるのは、アラルド農園の意見を述べていたコレットについて考えれば容易く読み解ける筈。
それでもトールは見誤り続けていた。
何せ自分は奴らの声を聞ける、らしい。
違う。
彼は聞いていなかった。
正確には一部の侵食能力が高い固体による干渉こそ受けているが、結晶という形で梱包されただけの死者からは何ら声を聞き取れていない。
霧へ接近した際も、警戒していたような声も無く、頭痛も無く、あっさりと入り込めた。
故にトールは、ここは安全な場所なのだと誤認した。
少なくとも奴らと呼ばれる存在の危険は無いと考えている。
多少の不安があろうとも、冗談のような話に収まると、信じ始めていた。
※ ※ ※
二日目に負傷者が出た。
近辺を通り掛かった外部のゴミ漁りの一団だったという。
急激に低下した気温が落ち着いた為、機会があるかとやってきたその一団は、やや欲張って薄い霧の中にテントを張って待ち構えていた。所がアラルド農園側で始まったという奴らの漸減活動の煽りを受けてか、通常では出没しない所にまで脳無しが湧き出してきて、たまらず逃げ出したのだという。
実際には奴ら全体の動きが活性化したことによって無作為に広がっているだけなのだが、捕らえられた男たちの言い分はまさしく悪の結社を声高に責めるも同然のものだった。
そもそも捕捉した少年少女らを追って物資を奪おうとしたことで戦闘が起き、負傷者が出ているのだが、捕らえられて尚も被害者を気取る度胸は見事なものだった。
彼らとは物資の交換を行ってから身柄を解放した。価値の比率が明らかにおかしいことについても文句を言わず、偵察後には必ず立ち寄ることとしている偽装拠点の一つをしきりに振り返りながら、男達は去っていったという。
「始末して全部巻き上げても良かったのに」
本来の拠点で遅めのディナーを愉しみながら、少女の一人が物騒なことを言う。
件の男達が意外にも良質な食料を持ち込んでいた為、今夜は想定外の豪華さになった。
怪我をした少女の一人は布を巻きつけた利き手を膝の上に置き、年長者の一人である女に手ずから食べさせて貰っていた。視線を絡ませ、口に含ませたフォークが中々出てこないことについて、敢えて何かを言う者は居ない。
因みにもう一人の負傷者である青年は背中を丸くして黙々食べている。受けた傷は肩を掠めた程度なのだが、無理な姿勢で回避した為か腰を痛めたのだそうだ。
愛と孤独のコントラストが哀愁を感じさせなくも無い。
「必要ならやっても良かったが、使い物にならなさそうだったからな」
「たしかに」
「それに、この時期にこの手の面倒はよくあることだ。さすがにこんな掘りつくされた、霧のある場所を探し回ろうって奴は居ないだろうが、半端に欲張って恨みを買うのもな。あの程度が丁度良い」
相手は同業者だと考えただろうし、近くに仲間が居たとしても偽装拠点を襲って空振りして、そこでお終いだ。
良くある手段に騙されて、間抜けが間抜けを晒したと仲間から笑いものにされたなら良し。より良い位置取りの為に足止めを食わされた、程度に警戒を買えたなら安全も確保し易い。
下手に物資を全て巻き上げて人の多い場所にでも向かわれてしまえば、そこからハーウェイの壺の上層部に居場所が発覚するかもしれない。
だったら、進んで人気の無いアムレキアの内部へ入り込める程度には物資を残すことで、情報の拡散を防いだ方が良い。
始末するというのも手段の一つだが、率先して人の恨みを買う必要も無いと彼は判断した。
「おっさん達がねちっこくないことを祈るね」
「もし来たら?」
と、コレットが食事の手を止めて問うた。
青年は事も無げに言う。
「二度は無い」
燻るような間があって、話は終了した。
軽傷であろうと負傷は負傷。冗談めかして受け入れやすい下地を作ってはいたが、一歩間違えばどうなっていたかという思考は、戦いに慣れていれば誰もがする。むしろ来いよと、幾人かの目は語っていた。
「万一に備えて、警戒の順番回しは少ぉし厳しくなるが――――次終わった者から風呂を使っていい」
上がりかけた不満の声は歓声に取って代わった。
特に女性陣の喜びようは凄まじく、早くも準備を始める者まで居る。
「感謝はトールにしてやれ。雑用の傍ら、なにやら凄い頑張りようで風呂用の雪と薪を運び込んでくれたからな」
薪そのものの確保は青年の協力もあったのだが、彼が黙っていたおかげでトールはもみくちゃに感謝された。
非常に個人的な理由で、その為に自分からやると言った雑用を一部負担して貰っていたと、訴える暇は与えられなかった。
この拠点が地獄の番犬で非常に好まれる最大の理由、それは住民が道楽で造らせた浴室があることなのだ。
※ ※ ※
トールが湯船に身を沈められたのは、深夜を回ってからだった。
大人が二人並んで大の字になれる大きさがあり、手前にはシャワーを浴びる場所もある。当然、そこからお湯が出てくることは無いが、湯船から桶で持ってくれば事足りる。急場の出発であったにも関わらず、しっかり石鹸を持ち込んでいた少女が居たおかげで十分に身体を洗うことが出来た。
「湯加減はどう? 熱くない?」
「あぁ、大丈夫だぞー」
この風呂、外の竃で火を起こして温める方式になっており、今はコレットがその番を勤めていた。
ややそっけなく感じる彼女の声に違和感を覚えるも、何はともあれ風呂は良い。
「トールは風呂好きなんだな」
隣で同じく遅めの風呂を愉しんでいた青年が問う。
先だっての話を取り仕切っていたことからも、彼が十二人の中心なのだろう。
休憩の筈の時間でも何かしら動き回り、声を掛け、奥の部屋で話をしていた。
「はい。……元居た場所では、いつも、入ってました」
「あぁそれを聞くだけでも羨ましい。実はさ、俺は来訪者の血が混じってるらしいんだ。ハーウェイの壺に来たその人が婆さんと子ども作って、その子どもがまた子ども作って俺が産まれたんだって。だから興味あるよ、トールの暮らしてた別の世界ってやつ」
「あの、その人は」
「うん? あぁ、死んだよ。そうだな、会いたいよな、同郷の人かも知れないんだし」
しばしの間が生まれ、トールはそれが不可能であることを悟った。
理由は分からないが、これまで一度も来訪者と呼ばれる者と会ったことが無いのだ。何らかの事情を思い浮かべることは出来るし、来訪者自体がそうそう現れないことも考え至ってはいた。
「あの……ええと」
沈黙の中呼びかけようとして、トールはこの青年の名前すら知らないことに気付いた。
なし崩し的に面識は持ったが、こうして話をするのは初めてだ。
「ごめんなさい。名前……」
「あぁ、名乗ってなかったな。ツバキだ。その爺さんが付けてくれた名前らしいんだけど、どういう意味か知ってるか?」
「……花の名前、だったと思います」
言うと青年は顔をしかめた。
コメディ映画で見るようなふざけた表情だったので、ついトールは笑う。
「それは……男の名前でいいのか?」
「多分、そういう人も居たと思います」
思いついて湯船から出て、シャワー前の曇ったガラスに指で椿と書いてみた。
施設に居た頃、共同学習の時間に花の名前を覚えさせられ、辛うじて記憶していたものだ。
「こう、書きます」
「へぇ」
青年も共に曇りガラスの前で身を屈め、その字を食い入るように見詰めた。
「こっちのが、木。薪とかの、木です。それで、こっちのは、春」
「ハル? 木は分かるけど」
「え?」
春は、季節だ。その一つだ。
「えっと……」
けれど、あまりに予想外の問いだった為か、咄嗟に形にして伝えることが出来なかった。
トールにとって春は春でしかなく、相手に説明が必要なものであるとは考えもしなかった。木が、木であるのと同じくらい、明白なものであったはずなのに。
アムレキアには春がない。
一年を通して雪ばかり降り、雨になることさえ稀な土地で、あの季節をどう説明すればいいのか。
トールは頭を捻るも、思っていたより言葉が出てこない。
当たり前に周囲にあったものなのに、いざ説明しようとすると分からないことだらけだった。
もう、確認しに行くことは出来ない。
戻りたい理由も無く、ただ流されるようにしてここで日々を送っているトール。漠然と生き続けるだけでも多くの苦労があるのだと最近になって分かった。働くこと、食べること、寝床ですらお金を稼がなければ所有出来ない。
暮らす。
そこから踏み込んだ先を、トールは何一つ考えられないでいた。
今はただ、ロディに示された間違いを探している。一人になる為に、ただ漠然と生き始める為に。生きる理由すら見失ったまま。
「ハルってなんなんだ?」
ツバキからの問いかけでトールは意識を戻した。
曇りガラスに書いた三つの字を、いつしかツバキは宝物のように眺めていた。
「春……は、春だよ」
ここアムレキアには無いもの。
なんとか言葉を探そうとして、けれど適切なものを見付ける事が出来なかった。
慌て、頭を真っ白にするトールに何を感じたか、ツバキは湯船へ戻ろうと言って背を押した。
「ごめんなさい」
湯船の中で背を丸め、膝を抱えてトールは言った。
大切なものを贈りそこねた。そういう実感がある。
「いや、嬉しかったよ。ずっと気になってたんだ。自分の名前がどういう意味なのか」
ごめんなさい、と心の中でもう一度呟いて、
「思いついたら、話します」
「楽しみにしてるよ」
天井から雫が一つ、落ちてきた。
二人の間に落ちたそれは波紋を広げ、トールの胸を打った。
約束をした。それだけなのに、言われるがまま混ざっていただけの彼ら地獄の番犬を名乗る少年少女らが、途端に大切な人のように感じられた。
ニールやアンディはどうしているのだろう。
ロディには、心配を掛けてしまっている。
攫われる直前まで一緒に居た年上の少年は大丈夫だろうか。
急に冷えてきたから、あの魔法使いのような老人ムゥ=アラルドが体調を崩していないか心配だった。
そしてツバキ。他の、コレットを始めとした少年少女達。
ただ生き続けるだけでなく、何かの目的を持った人々。
トールには無い、何か。
正しさにしがみ付いている自分を見詰めながら、間違えたいと思えるものを探していく。
間違いによって生まれた罪も、損失も、一緒に背負ってやると言ってくれたロディのように。
彼を見た。彼らを見た。彼女も、彼女らも。そうではない自分を見るからこそ分かってくる。
誰かに行動を委ねていてはいけないのだと、分かってきた。
トールが顔をあげた途端、浴室の扉が勢い良く開いた。
殴りつけるような音の直後、焦った表情の少年が叫ぶ。
「拙いぞツバキ!! 包囲されてる!! ネームドだッ、銀狼が俺達を狙ってる!!」
勢い良く立ち上がったツバキが一瞬、トールを見た。意味する所はすぐに分かる。
少年は、危機感こそ共有出来なかったが、自分が何の役にも立たなかったことを知る。
「ごめんなさい……何も、聞こえてません」
呟く謝罪を呑み込むように、四方から遠吠えが鳴り響く。
太く、遠く響く鳴き声。
テレビや映画のどこかで聞いたようなものとは違う。
肌を震わせ、身体の芯まで恐怖で犯す、本物の響き。
十を越え、二十を越え、三十から先はもう分からない。
無数と言える数の狼が、得物を定めて威嚇を始めたのだ。
※ ※ ※
ツバキと呼ばれる青年は、地獄の番犬における実働部隊でも古参と言える実力者だ。
けれどアンディ=ボルガンの従者候補にはなれなかったし、今もハーウェイの壺で戦っているだろう者達に比べると一枚劣る。
温厚な性格で人を纏める力はあったから、別働隊を作る時にはまず名前が挙がるという程度。
それでも彼はこの窮地に怯えて過ごすのではなく、明確な目標を定めて全員を招集した。
三名一班を周囲の警戒に当たらせている為、リビングに集まったのは十名だ。
「篭城する」
最初に方針から打ち出したのは、既にそれが話し合う余地を持たないものであると確信していたからだ。
大前提が決まれば話の向きも整え易い。
「俺達は現在、十分な水と食料を確保出来ている。薪の量もかなりある。住居の面で不安は無い筈だ。そして、アンディ達が事を追えたらこちらへ一時合流する手筈になっているから、最終的にはその援軍を待って動くことになる。ここまではいいな」
外からの援軍無しに篭城を選んでも、やがては疲弊して総崩れになってしまう。仮に守りながら敵の数を減らして行けたとして、周囲を囲まれ威嚇を受けた状態では、人はそう長く平静を保っていられない。勝つか負けるかという以前に心が折れる。
「それで、今俺達を囲ってる連中だが、本体こそ目視確認出来てないが、引き連れている手駒から察するに銀狼で間違いはない」
「それって、どういう奴なの?」
「ネームドだ」
「元は東部の大森林に居た狼だよ。結晶化事変のあった頃からアムレキアへ顔を出すようになって、そのまま自分も結晶に犯されて居ついたって話だ」
コレットの問いに浴室へ飛び込んで来た少年が答え、ツバキが言葉を付け加える。
「コイツは群れを成して人を襲う。輝石獣ほどじゃないけど、十分に災害級の相手だ。単独なら俺達全員で掛かれば多少は戦えるかも知れないが、問題は引き連れている獣達だな」
耳の良い者が言うには、遠吠えの数だけで五十を超えるとの話だ。
今も時折威嚇のつもりか吠えてくる。相手の強大さを理解出来ずとも、これでは落ち着いて休むことさえ出来そうにない。
「結晶化事変当初、当然アムレキアにもペットは沢山居た。野犬も居たろうし、言った通り大森林は獣で一杯だ。そういうのが脳無しみたいに肉体を維持したままになると、怖ろしく集団を統率するようになる。人間ほど複雑な思考も無いだろうから、いっそ自分が結晶化に犯されてることさえ気付かずに居るのかも知れないな。問題は数が多いことだけじゃない。叫び屋に呼応して集まる奴らはばらばらに襲い掛かってくるが、獣型は連携してくる。統率者が居る分、連中の方がよっぽど怖ろしいな」
「普通はさー、こんな霧の薄い所には出ないんだけどねー」
「農園の漸減活動に追い立てられたか、単に最近動きの活発な輝石獣の影響か、なんにせよ今は関係ない。既に狼煙は上げているから、アムレキアの霧の上を覗ける位置からは異変に気付いてもらえる筈だ」
「アンディが来てくれればいいけどねー」
「同感だ。で、今後の動きだが――――」
彼は幾つかの指示を出し、全員が受け入れた。
篭城と決めてしまえば迷いは薄まる。反対意見もこの時点では強く出る事は無い。全員が湯船に浸かって身体を休めた後で、物資的にも十分な余裕がある。まだ大丈夫、そう思える状況は続いている。
「あぁそうだ、忘れる所だった」
話が一段落した所で、どうでもよさそうにツバキがリビングの脇へ転がされているモノへ目をやった。
縄で縛り上げられ、口にはボロ布を詰めて発言を禁じた、中年の男。
視線を受けて少年が嫌そうに男の口からボロ布を引っ張り出し、ゴミ箱へ捨てた。
「助けてくれ!! 協力する! 生き残りたいのは俺も一緒だ!」
開口一番の大声に殆どの者が顔をしかめた。
うるさいことだけが理由でないのは明らかな様子で。
「こんな面倒を引き連れてきてくれた奴にどうして慈悲が必要なんだい?」
何の温度も感じさせない声に男は青褪める。
ツバキの手には折り畳み式のナイフがあった。パチリと開いて固定された音に男が身体を震わせ、再び叫ぶ。
「狙われてたのはアンタらだ! 俺達じゃない! 俺達はただ連中の包囲に知らず踏み込んで襲われたッ、それだけだ!」
語るに落ちる男の発言にも、特別反応は無かった。
「こちらの潜伏場所を見つけ出した手管は大したものだよ。おかげでアンタの仲間は全滅だけどな」
「こっちには選択肢なんてないっ、協力するっ、助けてくれ!」
「そうかい。そうして貰おう。俺たちに協力するんだな?」
「そうだ! 協力――――」
一瞬の出来事だった。
怯えながら見ていたトールでは何が起きたのかさえ分からなかったほど。
気付けば男の居た場所には石があり、ツバキは素っ気無く息を落とすだけだった。
「色が無いね。やはり嘘か。霧避けにはなるから丁度良いけどさ」
色の見える石は力になってくれる。ロディの言葉を思い出し、今ツバキが何を目的に、何をしたのかをようやく理解出来た。
本当に協力するつもりであったなら、彼には石の色が見えた筈だ。見えない以上、あの男は心の中で裏切りを考えていた。そしてそれを確かめる為に彼を殺したのだ。
これは、正しいことなのだろうか。
こんなにも容易く人を殺めて良いのだろうか。
渦巻く恐怖に身を丸めていると、コレットが喉を震わせながら問い掛けた。
「殺さなくても、良かったんじゃ……」
「コレット」
ツバキは敢えて、穏やかな声を出した。
仲間へ向けた敬意と、優しさを込めて、説き伏せに掛かる。容赦無く、この時点で出た異論を均すように。
「彼は一度警告を受けたにも関わらず再び俺達を狙ってきた。仮に銀狼が居なかったとしたら、こちらに死者が出ていた可能性もある。それにこの石を見れば分かるように、彼は俺達に協力するつもりはなかった。どこかで俺達を囮にして逃げるつもりだったか、どうせ助からないとヤケを起こして君や他の女の子達を犯して回るつもりだったか。仮に協力だけはするつもりだったとしても、篭城する中で異物が混ざっているのは不和の元だ。あの声高な訴えから見ても、事ある毎に異論を挟み、無駄な時間を取らせ、余計な苛立ちと不満を溜め込むことになる」
答えは明確だった。命を懸ける場面で、男の存在は明らかに邪魔だったのだ。
生かして捕らえていたのは情報を得る為。
最初から二度は無いと明言もしていた。
敵が数匹であれば囮として群れに放り込み、全員で脱出でもしただろうが、生憎一人分の肉では満足してくれそうにない数だ。むしろ既に男の仲間を食った後である為か、我慢し切れず動き出したとも言える。
「分かってほしい、コレット」
「うん……はい」
「ありがとう」
にっこり笑い、今し方人を殺した手で少女の頭を撫でる。
愛情を注ぐことと、命を奪うこと。それを容易く行き来できる場所なのだと、思わざるを得ないほどに、彼は真摯にコレットと向き合っていた。
改めて立ち上がった彼は、居並ぶ仲間達へ向けて言葉を発する。
「連中は十分に距離をあけて包囲をしている。ちょっかいを掛けてくるけど、まだ本気で狩りには来ていない筈だ。目的は俺達を疲れさせ、弱らせることだろう。休む時はしっかり休め。食事の量は増やす。食べて、寝て、少しでも身体を回復させておくんだ。弱みを見せると一斉に襲い掛かってくるぞ」
いいな、という呼び掛けに、勢い良く返事が飛び交った。
じゃあ寝るか、と寝床へ飛び込み荷物を被って耳を塞ぐ者も居る。ふざけてイビキを掻いた少年に、お前が一番うるさいよと誰かが笑う。こんなこともあろうかと、などともったいぶって荷物からギターを取り出した少女が演奏を始め、寝に入った者まで一緒になって歌い始める。
止まらない遠吠えを忘れ去るように、未だ大人に満たない者達がそれぞれの戦いを始める。
彼らの、彼女らの姿を、トールはじっと見詰めていた。
二日目の夜が巡る。