11
日陰に座っていたらくしゃみが出たので、トールは日向へ向けて少し移動することにした。
ハーウェイの壺と呼称される避難所(住民達は総じて避難所とは呼ばなかったが)から身を隠して脱したトールは、そこまで導いてくれた虚蝋骸ことニールが戻っていってしまった後も、辛抱強く待ち続けた。
時折岩の亀裂の向こうにある通路を見て、誰か来ないかと確認したのだが、体感で一時間以上経過しても人の姿はまるで見えない。ついでに言えば、骸骨も来ない。
ぎゅっ、ぎゅっ、と音を立てる新雪を踏みながら進んだ先、小さな足跡を幾つも見つけた。
木の周辺には枝から落ちた雪があり、見上げると枝の付け根に穴らしきものが見て取れた。
巣だろうか。
身長の低いトールでは覗き込むことも出来ず、またあまり見るのはいけないのだと思ってそっと距離を取る。枝の先端よりも遠くなった所でリスか何かが一斉に三匹飛び出していって、警戒されていたことを知る。
遠巻きに逃げていった先を見ながら歩を進め、手に息を吐き掛ける。
防寒具をしっかり着込んできたつもりだったが、手袋を忘れてしまったのだ。
擦り合わせながらようやく日向へ出た所でトールは一度膝を折って座りこんだ。冷たくなるからお尻は付けないが、拠り所となるものの無い広い空間でポツンと立っているのはどうしても落ち着かなかったのだ。木は、リスの巣があるから近寄らないようにしよう、そんな事を考えながら、彼は手を温める。
「ず……っ、ずず」
どうにも体が冷え過ぎたらしい。
思えば手袋のみならず、朝食も摂っていない。
寝起きの身体は機能を低下させており、体温はどうしても低くなる。
胃袋へ燃料を入れ、そこから熱は広がるのだ。
陽に当たればなんとかなると思っていたものの、今度は冷たい風が吹き始めて身体が震え始めた。
ニールは出来るだけ亀裂の所に居て欲しいと言っていたが、このままではまた風邪を引いてしまう。それは危機感ではなく、迷惑を掛けてはいけないという焦りではあったものの、人の意を汲む少年へ素直に退避を選ばせた。
身体が冷え、震えていたおかげで時間は掛かったが、聞いていた通りに小屋を見つけた。
入り口付近に別の足跡があった為に一度躊躇し、けれどノックをして扉を開く。
「ん……あぁ、いらっしゃい」
白髪の青年が一人、座敷の奥で茶を啜っていた。
「顔色が悪いね。早く温まった方がいい」
尚も踏み込めずにいると、相手の方から立ち上がり、土間の前までやってきて手招きした。
近くに向き合ってようやく気付く。
薄っすらと靄の掛かった記憶の中にそれはある。
彼は、夢の中で見た女の人と、気配が似ているのだ。
※ ※ ※
二人は囲炉裏を挟んで向き合っていた。
白髪の青年が正座をしているので、釣られてトールも正座を。
板張りの座敷にムシロを敷いてはいるものの、絨毯や座布団に慣れている少年は早くも脚が痺れてきていた。けれど止めないのは、彼の持つ生来の性というべきか。
相手は地獄の番犬の一員だろうか。
ニールはここが身内しか使っていない場所だと言っていた。
年の頃もそう違わず、堂々と居座っているのを見るにそうなのだろうが、どうにも雰囲気が違う。
せめてもの共通点と言えば髪の色か。様々な手段で髪を染めたがる彼らの中にも、同じ白髪の者は居た。
しかし彼の髪は染めた白よりも遥かに綺麗で、透き通っている。
透明。
それは彼と夢の女の人に共通する印象だった。
あまりにも澄み切った色は、持つ者の内面すら薄れて見せる。
読める、などとは考えもしないが、応じる上で相手の意図に合わせようとするトールにとって、この印象は息苦しさすら感じさせるものだった。
「どうだい、身体は温まったかな?」
ゆったりとした口調に、時間ごと遅くなっているのかと勘違いしてしまう。
「はい。ありがとうございます」
言ってお茶を啜る。
緑茶だった。
アムレキアでは総じて薬効効果の高いものを煎じて飲む。
水質に難があることが主な理由だが、高級品としての茶葉すらトールは見たことが無い。
少なくとも、平然と小麦のパンを主食にするロディが飲んでいるのでさえどくだみ茶や謎の薬湯なのだ。
農園と壺では環境も大きく違うのだから、こちら独特のものという可能性も高い。特に何人もの来訪者が手を入れてきたということであれば。
しかし、とふと思う。
数日だけではあったが、それ以前のアラルド農園での日々も含めて、トールは来訪者と呼ばれている、自分と同じ境遇の人と会ったことが無い。
もし居るのなら会いたいとは思う。何も持たない状況でどうやって身を立てたのか、どういう苦労があって、どういう解決策があったのか。共感、という意味ではあまり興味が無いのだが。
「君は――――」
青年は囲炉裏の火を世話しながら問い掛ける。
火が少し強まり、色素の薄い顔に赤が揺らめく。
「カイト=ロランツという名を知っている?」
素直に答えた。
「聞いたことがありません」
「そうか」
落ち込んだのか、どうでも良かったのか、判断の付かない表情だ。
「まあ、農園の人には少なからず影響があるだろうからね。ソディアックの霧は深く沈み、今も歪みを広げている」
「ソディアックの霧?」
「そう呼んでいるんだろう? 聞いた事は無いかい?」
「はい」
「うーん、まあ、そんなものか」
困ったように笑い、途中で詰まったようにして顔をしかめ、しばし俯いた。
当初は夢の女の人のように思ったのだが、話す口調や言葉から感じる印象を得るに至って、ムゥの存在を思い浮かべるようになっていた。
彼もまた、話していると時折咳き込んだり、そうならないにせよ不意に言葉を止め、耐えるような間が入るのだ。
「つらい?」
トールが問い掛けると、小さく息を吸った青年はゆっくりと頷く。
「大丈夫。まだまだ、倒れる訳にはいかないからさ」
金色の瞳の中で炎が揺れていた。
囲炉裏を鉄櫛でつついたせいか、新たに空気を得た火が勢いを増していく。あまりに強くなったせいか彼は薪を足し、木を広げて落ち着かせた。
トールは黙り込む。
身体は随分と温まった。
一度岩の亀裂まで戻るべきか、風邪を引かないよう留まるべきか。
ここから離れたい、というのが正直な気持ちだった。
温和で物静かな彼が妙に怖かった。
知りもしない夢の女の人のように、気付けば自分の意識へ入り込んでいたような不気味さがある。
誰なんだと問い掛けたくても、おそろしくて出来そうに無い。
無関係のまま通り過ぎていれば良かった。
「君はここの住民ではないね」
予想外の言葉は尚怖い。
「はい」
心の内側、それこそトール自身ですら知らない部分まで見透かされそうな強い瞳に背筋が震えた。
それと同時に分かる。
この感覚は、過去に何度も味わったものだ。
彼は、いや、アレは、
「ここでは、君はきっと長生き出来ない。もしその幼さで死にたくないと望むのなら、カイト=ロランツを探すといい。そこまでパスの開いた人物をただの骸にするのは惜しい。覚えておくといいよ」
「その人はどういう、どこに行けば、会えますか」
自身の疑問というより、求められるだろう問いかけを放って、息を整えた。
「さて、しばらく前に会ったきりだから、今はどうなっているか。場所ならば、おそらくアラルド農園だ」
言葉を聞き届けたか否かという時だった。
唐突に小屋の扉が開き、寒い風が吹き込んできた。
漂っていた湯気が揺れて、その向こうで青年が静かにトールを見詰めている。
「こっちに居たのねっ、捜したわ、トール」
コレットの声が木を打ったように響いた。
少女の耳元で、小さなピアスが一つ、揺れている。
※ ※ ※
多少年季の入った小屋の扉をコレットは開け放った。
煙が出ていたので誰か居るのだろうかと思っていたから、そしてそれを彼女はトールだと疑いもしなかった為に何の警戒もなく飛び込んで、少年との再会を果たした。
「体調は平気? 簡単に食べられるものは用意してきたから、少しお腹に入れたら出発したいの」
囲炉裏には火が付いていて、小屋の中は暖かい。
出来るのなら体調を崩しがちな少年を十分に休ませてやりたかったのだが、現状はまだまだ急を要する。
煙が出ていることで人目には付いてしまうし、壺の上層部はまだまだトール、というより来訪者の存在を疑っている。
地獄の番犬では来訪者のことは周知の事実とされているが、極端な発展を齎すこともある異なる場所での知識を独占したがる者によって一般には知らされていない。少なくとも農園で十三年生きてきたコレットがその名を聞いたのはアンディらの元へ来てからで、ハーウェイの壺の内部でも仲間内以外で口にしているものを見たことがないのだ。
「おー、トールぅ、自分で火ー起こしたのかー? 偉いなー」
「トールだからねっ」
「なんでコレットが自慢げなのか知らないけどさー、食事なら歩きながらでも摂れるから、行こうぜー」
遅れてやってきた数名が慣れた様子で少年へ声を掛け、荷物を背負いなおして歩いていく。
コレットも入り口近くに掛けてあった防寒具を手に取っておいでと呼ぶ。
少年は対面を気にした様子だったが、ややぎこちなく立ち上がって寄ってきた。
動きが固いのは、やはり体調が万全ではないからだろう。
しっかり見ておかなければと決意して服を着せてやる。置きっ放しになっていた手袋を持ってきたのは間違いではなかったと内心で満足しながら、やはり普段より高揚する気分に身を任せつつ、こっそりと右耳のピアスへ触れた。開けたばかりですぐに付けるべきではないし、マイナスの気温下では凍傷の危険もあるから止めるよう言われているのだが、今だけは身に付けていたかったのだ。血も止まっているし、今の所異常は無い。
「アンディとニールは?」
何故かトールは誰もいない小屋の中を振り返りながら問い掛けてくる。
コレットは首を傾げながら応じる。
「二人は別行動ね。でも平気よ、私達は強いんだからっ」
「そっか。うん、ありがとう。手袋」
「忘れていくなんて慌てん坊ね」
「うん、ありがとう」
「もう、繰り返し言わなくて良いって」
言いつつ上機嫌になるのだから、現金なものだとはにかむ。
一人が中へ上がっていって、手早く火を処理した。しばらく使わない予定だから埋め火にはせず火消し壺へ詰めて蓋をする。壺は土間の目立つ位置に置いた。
「ねえ、コレットは農園の出身なんだよね」
「うん」
少し前までなら、そう問われるのはトールでも嫌だった筈だ。
自称するのは平気でも、指摘されると妙に強く刺さる。
「カイト=ロランツって人、知ってる?」
「うぅん? 聞いたこと無い」
答えるとトールは小さくお礼をし、小屋を出た。
自分のしたことの処理を他人に任せているのに、彼らしくない行動だ。邪魔をしない為と思っての行動だろうかと思い直し、コレットは深く気にせず付いていった。
「どこに行くの?」
「アムレキアの外縁部。そこなら、そうそう追いかけてもこれないから。霧の中といっても、薄い場所なら奴らもそうそう襲ってこないから平気なの」
「……そうだね。霧の外に居ても、来る時は来るんだし」
ふふっ、とコレットは笑い、
「トールもこっちの考えに馴染んできたのかな?」
農園の人なら絶対嫌がるもん。そう言って、彼女は自然と少年の手をとって歩き出した。
互いに手袋をしていたから、繋いだ手が酷く冷え切っていることには気付かないまま。
※ ※ ※
アムレキアの南西方面には岩場が多い。
元は工業区として発展してきた都市であり、当然の話として日々膨大な資材や完成品が出入りすることもあって、かつては舗装された太い道路が南へ真っ直ぐに貫いていた。今や結晶化事変当初から続いた混乱や闘争の結果として各所の舗装はぼろぼろになり、放置されたまま有用な部品を抜き取られた車輌が散乱していたり、崩れた岩場が舗装路へ覆い被さっている場所もある。
現在、当時の道路は使われていない。
道が破壊されていることも理由の一つだが、アムレキアと壁の街と呼ばれるヴィルフッセンの双方が互いに警戒し合った結果、分かり易い直進路は各所で意図的に塞がれたままになっているのだ。
コンクリート同様、アスファルト道路というのは敷設が極めて容易であり、その為の素材はアムレキアに十分量が備蓄されていた。
しかしヴィルフッセンは壁の向こう側によって支配された都市だ。
狩人の派遣について明確な証拠が出ていないものの、当時は境界線となる壁も無かったことから激しい戦闘もあったという。
現在は壊滅し、沈黙した廃都市コーズタリアもその戦闘の結果として敗北を得たからだと言われている。
北に最果ての街アムレキア、その南東には廃都市コーズタリアと大森林、南には壁の街ヴィルフッセン。
大小様々な避難所・集落はあるものの、壁によって隔てられた地域を示す時、この三都市を挙げるのが最も分かり易い。
ハーウェイの壺、あるいは研究所と呼ばれる巨大集落は結晶化事変以降に生まれた場所であり、新しくも無いが古いとも言えない。
そしてその巨大大岩はアムレキアから南西部に点在する岩場の一つにある。
「――――というのが、あの長ぁい壁からこっち側の地理なの。わかった? トール」
アムレキアへ向かうという道すがら、コレットはトールが退屈しないよう様々なことを教えてくれた。
多少固い話にはなってしまったが、彼がアムレキアへ来てから自分の脚で外へ出るのは初めてであり、行く先の方角も定かではない以上はと彼女が主張したのだ。トールもトールで興味を示しており、周囲の少年少女らを多少辟易させながらも話は続いた。
「アムレキアは一番大きな都市よ。あの最果ての霧を背景に広がってきたから、丸っこくは無くて、三角を逆にしたような感じなの。だから意外と三角の先の部分は霧が薄いのね。貴重な物資とかは取りつくされちゃってるけど、たまに行き場の無い人が住み着いてたりしてて面倒かな」
「そういう人、は、どうやって食べてるの……?」
「西側はそうでもないと思うけど、東には大森林があるから、動物捕まえて食べてるって聞いたことはあるかな。森の中だと茸とか木の実とか自生してるのもあるから、私達もたまに採りには行くのよ。あとは……その」
言いよどむコレットをトールは見上げた。
彼女はちらりと少年を見やり、胸の前で両手を握ってからお姉さんの顔を作り、言葉を続けた。
「ずっと濃い霧に晒されてるとね、身体が結晶化してくるの。見た目には分からなくても、お腹の中とか、そういうのが変わってくると、段々と食事を摂らなくなるんだって。私も見たことは無いんだけど、奴らにならない程度の結晶化を維持して、そうやって生きている人も居るって聞いたことがある。ずっと続けていたら自分を失っちゃうし、症状が重くなると霧から離れられなくなって、離れちゃったら死んじゃうって」
怖い話だ。
同時に、そこまでしなければ生きていけない環境でもあるということを、トールはぼんやりと理解した。
飽食、大量生産・消費の世界で生きてきた彼にとって、またアムレキアへ来てからも比較的裕福な環境に身を置いていた彼は、未だ飢餓というものを理解していない。ただなんとなく、命に関わることだという所で思考は止まってしまう。
飢えに苦しみ続けて、そこから逃げる為に己を違うものにしてしまう危険すら犯す。
飢餓と溺死というのは人にとって最も苦しい死であると言われている。
結晶化の症状を調整することで飢えから開放されるのだとしても、己自身を失う恐れによって遠からず狂うのだとしても、奴らに成り果てる危険を犯してでも、生きていこうとする人が居る。
考え自体が怖ろしいとはいえ、生きていることさえ当たり前ではないというのは、トールにとって最大の衝撃だった。
「今から向かう所は、私達だけで作った拠点。小さな所なんだけど、他の人は寄り付かないし、私も何度か留守番で行ったことがあるから、大丈夫だよ?」
不安にさせてしまったかと気遣うコレットだったが、彼が小さく頷くと頬をとろけさせ、頭を撫でた。
歳の頃は同じ筈だが、彼女の成長が早いのか、トールが遅いのか、身長差は如何ともし難かった。
「ちょーっと準備の面で不安はあるけどねー」
ピアスを三つも付けた少女が寄ってきて反対側からも頭を撫でられる。
地獄の番犬の中でも最年少という訳ではないのだが、こうして実働部隊に加わる中では最も歳の低いトールはどうにも彼ら彼女らから可愛がられる。アムレキアの事情に疎く、戦う力も無く、熱を出して倒れているという印象故か。アンディやニールは別としても、同性からは迂闊なことをするとあっさり倒れてしまうのではないかと心配を受けている状態でもあった。
少女は腰を折ってトールを覗き込み、垂れ目を細めて笑う。
「そこはまぁー、トールくんのお力に期待かなー」
「もうっ、変に緊張させるようなこと言わないでって言ったじゃないっ」
「おー怖ぁーい。お姉ちゃんを怒らせちゃうから、私は離れとくねー」
少女が手をひらひら振って離れていくと、コレットは彼女の方こそ緊張しているのではと思うような様子でトールを覗き込んできた。
それは、普段より力の入った表情で。
「大丈夫だよ。アンディだって最初は上手く行かなかったって言ってたんだから。私達でちゃんとトールを守ってあげる」
先行く背中と、後ろを守ってくれている少年達。定期的に駆けて行っては安全と報告する者達も合わせれば、総勢で十二人にもなる。
大人と呼べるほどの者は居ないが、無邪気に振舞っているようで、やはりトールの知るその年頃の人よりもずっと顔付きが大人びている。人の顔色を伺う彼からすれば、大人を相手にしているのと遜色無いほどでもある。
守ってあげる、とコレットは言った。
それは以前の場所で聞いていたものとは決定的に意味する所が違うのだと、彼はまだ理解し切れずに居た。
これから向かう場所は危険なのだ。
校外学習や遠足で立ち寄る工場見学会で言われるような、ちゃんと決まりを守っていれば大丈夫という保証も無く、安全を確保する為にすべてが配慮されているということも無く、危険の方から襲い掛かってきて、その守りを破ってくるという事実。
物心付いた時から奴らの存在に触れ、恐怖してきたといっても、それによって家族を失って居たとしても、漠然と存在した安全の中で生きてきた者にとって、それは極めて理解し難いものなのだ。ましてや彼は今、その専門家を名乗る者たちに囲まれ、保護されている状態にある。身の危険に考え至ったとして、言われたことを守っていれば、道を外れなければ、大丈夫なのだ根拠も無く考えてしまう。
十二人。トールも加えれば十三人。
全てが生きて帰れる保証など、どこにも無いというのに。
※ ※ ※
霧の向こうにそれは居た。
二つの脚で立ち、自由になる二つの手を使って様々なことをしてくるそれ。
目視する以前より匂いで判断していたことだが、数はおよそ十三。老いて肉の薄くなったものではなく、若々しくも瑞々しい肉を持ったものである。彼はそれの中にも手練れと呼べるものが居ることを知っている。しかし、匂いからするとそこまで経験を積めるほど年月を経ていない。
油断は禁物だった。
幸いにも向こうはこちらに気付いていない。
それには聞こえない鳴き声で合図を送り、逃げ道を塞いでいく。
詳しい理屈については理解していないものの、ある特殊な方法で鳴くと、面白いほど得物に気付かれず狩りが上手くいくのだ。経験から学び、活用することに長けた彼はいつしか群れの主となり、より一層合図を工夫するようになった。
群れの者達にもそれを覚えさせ、出来ない者ややる気のない者は追い出した。
風に乗ってくる匂いを再び確認し、合図を送った。
鼻の奥から喉元まで、異様な感覚がこびり付いている。
普段ならばこんなにも霧の薄い、息苦しくも空腹感を覚えるような場所にまで彼は来ない。
けれど坂道で身を横たえていると低い方へと転がりそうになるように、あるいはウマそうな匂いを嗅ぎ付けた時のように、自然とここへ、あの得物の居る場所へと引き寄せられてきた。
最も煩わしいのは眉間から角のように伸びる結晶部分だ。
彼にとっては肉体の一部であり、時には武器として用いることもあるものだが、今日はやけに波が来る。
角は波を受け取り、またそこから波を発していく。
それには聞こえない合図以上に、その波を通じて仲間と通じ合った時が最も効率の良い狩りが出来る。しかし自分が大きく引き伸ばされたような感覚を彼は嫌い、滅多にそれをしない。
今は自分ではない何か。何か達から受け取った波に押し流されているような不快感に身を震わせた。
波は不快だが、若々しい肉は嫌いではない。
霧の外へ近付いた為に飢餓感を思い出したのだろう、仲間が涎を垂らして得物を視ているのが分かった。
威嚇して抑えさせる。
なにせ得物を殺してしまうと肉が食えなくなる。
興奮していては勢い余る。
生かして、食え。
その程度の作法は彼も、彼らも心得ている。
しかし、と。
まだそれは十分な気力を残している。
似た匂いをこびり付かせていた場所、おそらくはそれの縄張りに身を置き、しばらくは警戒を続けるだろう。
彼も敵の縄張りへ入り込む危険は知っている。
逸る仲間に再び威嚇を発し、下がらせていく。
遠巻きに、匂いを追える程度の距離から囲いは続けていくが。
最後にこの坂道を下っていくような感覚を寄越す小さなそれの匂いを己へ焼き付けて、彼は身を翻した。
白銀の毛並みを風に晒し、巨大な狼が霧の中を駆けていく。