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 アンディがバケツの中身をぶちまけた途端、すべてが凍り付いて降り積もった雪の上へ放射状の線を無数に描いた。

 勢い余って自分で一部を被り、腰元からつららが伸びている。気付いた周りの者たちが揶揄して笑い、当のアンディはどうだとトールへ手を翳した。


 防寒着でラッピングされたに等しい恰好のトールは、見せ付けられた不思議現象に目を輝かせ、三重にした手袋越しに拍手した。


「すっげぇだろ!? あっという間に凍るんだぜ!?」


 腰元からつららを生やしたアンディが言うと、全員の視線がそこへ集まり、また笑いが漏れる。


 トール達は今、研究所と呼ばれる避難所の()へ着ていた。

 周囲の者はハーウェイの壺と呼び、古くはアラルド農園からの離脱者たちで作られたというこの場所は、アムレキア南西に在る。

 外へ出て、全体像を見たトールの頭の中には、テレビで良く聞く『東京ドーム○個分』というフレーズが浮かんだ。岩場をくり抜いて作られたという話は聞いていたが、まさか件のドームさながらの巨大大岩だったとは考えもしなかった。

 二個分かな、三個分かな、と実物を見たこともなく、また圧倒的なサイズ感に尺度を狂わされる為に適当なことを思う。

 その大岩の上まで通路を作り、遊び場としているのがアンディたちなのだ。


 断崖絶壁と呼ぶに相応しい縁まで連れて行かれた時は足が竦んでしまった。

 入り口は下にあるそうだから、ここまでの階段を上がってくるのは相当に大変だ。


 今も拡張が続けられているというハーウェイの壺。

 概ね円形に見えなくも無い巨大大岩の内部をくり抜いて、中央には広場として天井を取り除いている場所もあり、全体を俯瞰することが出来れば確かに壺と呼べなくも無い。過去居た継承者がこの手の掘削などに適していたらしく、トールが昔興味津々で見ていた工事現場の重機でも果たして、という一大事業をここの住民たちは成し遂げているのだ。


「ほら見てみ、トール」


 凄い凄いと不思議現象に興奮していたら、幾らか年上の少年が寄ってきた。

 思わず身を固くするのだが、彼が手にしていた謎物体にまたしてもトールの興味は移る。


 分かる。それが何なのかは分かるのだ。

 トールも良く知る食べ物で、先日の食事に出てきた時は感動すらした一品。


 ラーメンが麺を持ち上げた状態でフォークごと凍り付いていた。


「も、もったいないっ」

「え、あ、ごめんなさい」


 つい出てしまった抗議に少年は素直に謝り、周囲がまた乗っかって揶揄し、笑いが続く。


 彼らと、そして彼女らは、アンディやコレットの仲間であるらしい。

 昨日の猛吹雪が始まった頃に戻ってきて、簡単に自己紹介をし合った。


 つまる所、トールを誘拐した張本人たちなのだが、合流するまでの時間で慣れてしまった為か、怖ろしい相手だとは思えなかった。


 熱を出したことや、吹雪で外へ出られなかったこともあり、またどうやら自分達以外の者からは存在を隠したいらしい事情もあって、トールはここ数日をずっとあの実験室で過ごしていた。


 大人しい性格で、昔から一人でゲームをしたり、アニメを見たりをしていた彼だが、それは(トオル)と呼ばれていた時代だ。彼は、彼なりに決意して、仕事をして、若く――――幼くして身を立てようと努力し始めている。

 (トオル)は物静かで消極的だったけれど、トールは違うのだと、最近彼はそう思うことにしている。


 意識の切り替えというのは意外にも強い効果を出すもので、前ならばこんな知らない人ばかりに囲まれ、大騒ぎする場所からはそっと離れていた。

 しかし今、彼は多少の臆病さを残しつつも輪に混ざり、楽しめている。

 周囲が気遣って積極的に話しかけたり、楽しませようと歓待しているからこそではあるのだが、これも成長・変化の一つと言えるだろう。


「ケタケタケタケタケタ……さあワタシを捕まえられる者は居ますカ? むしろワタシが捕まえに行きましょうカ?」


 空飛ぶ骸骨がケタケタ笑いながら少年少女らに追い回され、追い回していたりもする。

 年少者たちは楽しげに悲鳴をあげ、年長者たちはそれを率いながら伸びる白骨の腕をいなして守る。

 一部が分離してニールへ襲い掛かっているが、当の骸骨は楽しそうに襲われている。


「おいお前らっ、あんまり縁の方まで行くなよ!! 滑って落ちるぞ!!」


 アンディが叫ぶと元気の良い応答があった。


「ったく、底なしだよな、ガキの体力ってのは」


 からんころん、とこんな時でも素足に下駄履きの彼が寄ってきて、顔を覗きこんできた。


「悪くはなさそうだな。でも俺らは早めに切り上げるか?」

「はい」


 肌の見えている部分が寒い。

 むしろ見えていない部分も寒い。

 普通の倍は防寒具を着込んでいるのに、お湯をぶちまけて瞬間凍結するような気温の前には布や綿程度では足りないのだろう。


 トールも寒い地方の生まれで慣れているつもりだったのだが、ここアムレキアの冷え込みっぷりは想像を絶していた。

 季節柄、ここまで冷え込むのはまだ早いという話だ。一年で数少ない雨の降る暖気、それが終わったか、終わりつつあるという時期での急激な温度変化は、トールの身体を当人も思っていた以上に苛んだ。

 熱が引いた後もどこか気だるさが続き、細くなる食欲をアンディらの提供する魅力的な料理で辛うじて開いているのが現状だった。


 ラーメン、からあげ、焼き蕎麦。

 ハーウェイの壺にはトールの知る食べ物が幾つもあった。

 来訪者(ビジター)と呼ばれる、トールと同じ別の場所からやってきた者たちも、アラルド農園ではなくこちらに居つくことが多かったのだという。

 派閥間の闘争はあるが、総じて陽気で、自由で、身の軽さによって何でも試そう、やってみようという気質がある。

 壁の外側と通じた商人に繋がりもあり、外からの物資を入手できるという点でも農園より文明は発展している。


 天気が良ければ聞こえるというラジオや、マイクやスピーカーという装置もそう。

 ここの住民達は音楽を愛し、演奏に酔いしれ、酒や薬を愉しむ。

 薬物と聞いて身構えたトールに、地獄の番犬(ケルベロス)の者たちも苦笑いをして大丈夫と言った。アンディの先代は薬物を危険視し、自分の派閥内では使用を禁止した。発覚すれば厳しい罰が与えられるという。


「おーいっ、俺ァトール連れて戻ってるから、お前らァ適当に戻って来いよー!」


 アンディが叫び、また元気の良い返事が重なった。

 彼らの派閥には子どもが多い。

 皆元気で、楽しそうで、音楽と空飛ぶ骸骨が大好きだった。


「滑るから気を付けろ」


 案外面倒見の良いアンディの忠告を受け、トールは慎重に階段へ足を掛けた。

 この階段、困ったことに手すりが無いのだ。

 壁に手を当てゆっくりと降りて行くのだが、案の定姿勢を崩した。それを、アンディは軽々と掴みあげ、そのまま何も言わず肩車した。


 わ、わ、と慌てるトールに彼は笑みを溢し、難なく階段を降りて行く。


「顔、隠してな」

「はい」


 言われて首元を覆っていたマフラーで鼻先までを覆う。そこにフードを目深に被れば、アンディの肩上に乗るトールの顔などそうそう見えはしない。


 世界が変わるとでも言うのだろうか、大人の目線を得たトールは無意識に彼の髪を強く掴み、しがみ付いた。

 何を言うでもなく歩調を弱めるアンディ。

 扉を潜る時だけは腰を落としたが、内部は広々と作られているので、頭を打つようなことは無い。


 ハーウェイの壺の内部は、雑然としている。


 来る時は大勢に囲まれて見えなかった所も多かったのだが、今は普段以上に視界が広い。


 くり抜いた岩の道の各所に電灯があり、電線が綺麗に纏められて天井や床を伝っている。駅で見るようなぶら下げた足場に配線を置き、落下防止の補強などもある。崖近くでは窓が取り付けられ、陽光を入れることも出来るのだろうが、殆どの場合は電気の光にのみ頼る事になるのだろう。

 居住区では一定間隔に広場があり、五~十階層を吹き抜けにしていて、大抵はそこで演奏か、屋台が商売をしている。一緒になっていることの方が多いけれど。


 穴倉に長時間篭っていると気持ちが滅入ってくる、というのはアンディの言だ。


 同じ穴の中だとしても、広い空間を感じることは有益なのだろう。


 ここでの仕事は何があるのかとトールは聞いてみた。


「銃器、薬物の製造・販売が多いな。ギャンブルの元締め、その為の闘士、新しい仕事を作るってのもいい。農園には共同の食堂があるそうだが、こっちは屋台が主流かな。広場近くの部屋をくり抜いて調理場にしてるのも多いしな。一応農園ほどじゃないけど屋内栽培もやってる。薬の原料、煙草の葉とか。食料はそんなにないか」


「食べ物に困らないんですか? 農園とは……あんまり仲が良くないって」


「そうだな。食うに困ったら農園を襲って食料を奪いもする。けど、殺し合いは殆どない。襲撃して、捕まった奴と交換でこっちの銃器とか弾とか、壁の内側じゃ手に入らないものなんかと取引する。ウチの強みって言ったら壁の向こう側との繋がりなのかな。あっちじゃ法律に触れるとかで作れないものも、こっちじゃ関係ないからな。トールが怖がってる薬物も、大半は向こう側へ流れてる。いい儲けになるしな」


 アンディの口振りから、彼も薬物へは良い感情を持っていないことがわかり、トールはほっとする。


 何がどう悪いのかは分からないけれど、彼の居た場所では当たり前に良くないモノとされ、そういうものが周囲にあると自覚すらしないまま生活していた。興味すら持ったことのなかったソレが急に身近に現れた気がして、少々落ち着かない気持ちもあった。

 彼らが薬物を忌避しているというのは、トールにとって救いなのだろう。


「食料は別の所から買い付けてるのと、作らせてるのがあるか」


「出来るんですか?」


 汚染されている、というロディの言をトールは思い出していた。

 しかし、ここは農園のあった場所からは離れているし、不可能ではないのかもしれない。

 この極端な寒さの中で何が栽培できるのかは分からないが。


「ん? 主に蕎麦と、いい場所だと麦を作ってるらしい。俺は良く分かってないから、興味あるなら他のに聞いてみな。でまあ、後は傭兵、腕っ節であれこれするのが、実は俺たち地獄の番犬(ケルベロス)の収入源だ」


「傭兵」


 名前は知っているが、良く分からない仕事だ。


 戦う人という印象があるだけで。


「たまにこっち側を見たいっていう壁の向こう側からのお客さんが来るんだよ。そういうのの護衛とか、案内もある。狩人は駄目だけどな。さっき話した、食料を作らせてるシマの集落で何かあれば動くし、その護衛や報復も仕事の内だな。後は別派閥から雇われて、そっちの味方をするとか、農園の襲撃だってここの上連中が指示して来るんだが、有料で請け負ってる。殺し合いじゃないと言っても怪我はするし、事故もある。向こうからすりゃ略奪者だし、捕まって殴られることも、まあ、ある」


 少し前まで平穏な場所と思っていたアラルド農園でも、暴力はあるのだと。


 胸の内に嫌な靄が掛かるのを感じつつ、トールは言葉を聞いた。

 アンディも言葉を濁した。

 どこか互いに望んだやり取りではあったとしても、悪事と呼べる行為ではあると彼も分かっているのだろう。


「狩人は知ってるか?」

「はい。昔、そういうのがあったって」

「今でもたまに入ってくるんだ。こっちで弾いていたって、向こう側からは壁なんて越え放題なのかも知れないしな。あの全部を防ぐのは無理だ。それ以外にも小さな集落は不用意に近寄った連中を襲って略奪することもある。道すがらの護衛とか、案内とか、内側に向けてもよくやってるよ。他には」


 と、彼は少し考えた。

 足元の配線を避け、先へ進む。


 見えた景色にはトールも覚えがあった。


 大きな広場を望む上階の一室。部屋ではなく、その区画そのものの出入りが管理され、特定の者しか入れないようになっている。

 トランプ遊びをする青年らが二人を見て、軽く手を挙げる。

 それだけだった。


 アンディは彼らに軽く声を掛け、返事を受けつつ中へと入る。


ゴミ漁り(スカベンジ)がウチの主力だな」

「ゴミ漁り……」

「アムレキアには稀少な物資がまだまだ眠ってる。農園や、ここよりもずっと発展していた時代の産物だからな。特にウチにはニールが居るし、俺も声を聞いたり存在を感じたりで、()()との遭遇を減らしていける」


「アンディでも、あそこに入るのは大変なんですか?」


「どうだろうなぁ。実はそこまで深く潜ったことがないんだよ。受け継いだ当初は狩人絡みで忙しかったし。でも、ま、厄介なのは山ほど居るから、気軽に突っ込んで何もかも倒せるってんなら、これまでの誰かがやってただろうしな」


 言って彼は扉を開けて、部屋へ入った。

 そこはトールにとって最も慣れた場所で、中で番でもしていたのか、本を読んでいたコレットが顔をあげて迎えてくれた。


「おかえり」

「おう」

「ただいま」


 とてとてと寄ってきた彼女は降ろされたトールの服に残っていた雪を落とし、脱ぐのを手伝ってくれた。

 干すべきものはハンガーに掛け、洗濯するほどでもないと思ったものは一つ一つ丁寧に畳み、近くの机へ並べていく。

 手付きのやわらかさ、丁寧さは、まだ少女とはいえ確かに女の子と呼べるもので、普段から姉や母に構われていた末っ子トールはされるがままとなる。


「仕方ないわねぇ」


 言葉通りの顔でお姉さんぶるコレットだったが、


「あー、汗掻いてパンツまで濡れてやがる。コレット、俺のパンツ知らない?」

「知らない。勝手に何か穿いてればいいでしょ。というかそれ以上脱ぐのは奥にしてっ、シャワー室でやればいいでしょ!」


 アンディがいつもの調子でからかうと大真面目に怒って奥を指差す。

 彼はカラカラと笑いつつ下駄を鳴らしてそちらへ向かった。

 果たして着替えを用意しなくていいのだろうかと思いつつ、トールも手招きされたので付いていくことにした。


 実験室の奥の一室はシャワー室となっている。


 なんと、お湯が出るのである。


 寒冷地であるアムレキアの水は冷たく、桶に溜めた水ですら辛かった。

 お風呂は無いのかと聞いてみたのだが、どうにも一度別に溜めた水を沸かして使っているらしく、思っているほど大量に湯を用意するのは難しいのだという。特に今は長い寒気の入り口に差し掛かっているとあって、主な燃料となる薪を無計画に消費したくはないのだ。


 ともあれトールは暖かいシャワーを堪能し、石鹸で身体と頭を洗いつつアンディと会話を続けた。


「着替え、ここに置いとくからねーっ」

「おう助かるー」

「ぁ」

「っ」


 途中、結局二人分の着替えを用意してくれたらしいコレットが顔だけ覗かせ、ちょうど泡を流していたトールがそのまま声のした方を向くと、湯気越しにばっちり目があった。彼女は顔を赤くして引っ込んでいったが、当のトールは気にした様子も無く身体を洗い流し、シャワーを止めた。


「年頃だねぇ」

「? 先に出てますね」

「おう」


 謎の言葉を流し、トールは用意してくれたタオルで身体と頭を吹き上げ、肌触りの固い服を一つ一つ着て、外へ出た。


 随分と離れた位置にコレットが居て、シャワーを浴びていたのでもない彼女は不思議と顔を赤くしたまま、じっと手元の小説を睨み付けていた。


「着替え、ありがとう」


 彼女は目線をこちらへ向けないまま何度も頷き、こちらを指差した。

 なんだろうと思って周囲を見ると、二人分のコップがあり、湯気が立ち昇っていた。

 中身はお茶だ。


「中からもしっかり温めて、また風邪引かないようにね」

「ありがとう」


 頑なにこちらを見ないコレットには疑問が湧いたが、手早く済ませた為にまだ身体の芯は冷えている。

 ありがたくお茶に口を付け、ほっと白い息を吐いた。


 やはり、アムレキアのお茶はどこか薬っぽい。


「ふぃ~、さっぱりしたァ」

「ちょっと! 着替え置いといたのに裸で出てこないでよ!?」


 アンディが裸で現れると、コレットは顔を青くして逃げ出した。

 先ほどまでは赤くなっていたのに、とトールは思い、お茶に口をつける。


 余談ではあるが、トールこと久坂 貫は、学校の授業で水着に着替える時もタオルなどは使用せず、丸出しで着替えてしまう類の男の子である。

 小学生高学年、それなりに成長こそしてきたが、元が特殊な事情を抱えていることなどもあって、まだまだ男女の機微というものには興味も、関心も、これっぽっちも無いのであった。


「どしたトール?」

「……お父さんより大きい」

「っははー! お前のもまだまだデカくなるって! コレットもお前のちっちゃいちんちん見て真っ赤になってんだから、まだまだガキだよなあ」


 トールは未だ男女の機微に興味も関心も無かったが、小さいと言われると何故か悔しくなるのであった。


「ケタケタケタ、アンディもまだまだですヨ。ワタシの心のちんちんはもっと大きいのデス」


 心のちんちんってなんだろう。

 思ったけれど、トールは質問を諦めた。


「唐突に現れるのズルいよなぁ……!」


 アンディはアンディでよく分からない理由で悔しがっていた。


    ※   ※   ※


 扉に背を預け、コレットは息を落とした。


 頭にあるのは、またやってしまった、だ。


 アンディだったかニールだったかにも指摘されたのだが、どうにもトールを相手にすると普段の三十割増しくらいで興奮し、行動的になり、過剰な反応をしてしまうらしい。なんといってもトールだ。可愛い。言えば何でもちゃんと聞いてくれるし、先ほどなどは脱がし始めたコレットにあっさり身を預けてきてくれた。

 妹……、弟が出来た気分だ。

 彼女に兄は居るが、弟は居なかった。


 今まで欲しいと思ったことはない。けれど、ああして面倒を見て、何かを教えてあげて、不安がっていればあやしてあげるというのは、中々に高揚するものだ。もっともっとしてあげたくなってくる。


 コレット自身、ここまで入れ込んでいるのが意外だった。


 指摘を受けて、照れくさくもなったから抑えるつもりだったのだが、どうにも夢中になってしまう。


 扉から離れ、手すりに身を預けて眼下を眺める。

 地獄の番犬(ケルベロス)は上層階の一角を占有する有力派閥の一つであるが、主な収入源が傭兵業である為に人数が乏しい。アンディ=ボルガンという強力な継承者の存在はあるし、確保している石の数も抜きん出てはいるが、人数の問題から支配者たちの席には加われないでいる。


 下層ではいつも荒っぽい言葉の応酬があり、夜になれば賭場が立ったり演奏会が始まったり、それらの縄張り争いによるアレコレが発生する。

 夜型の人間が多い為に、今のような朝方では多少静かになるが、やはり何かの騒動が起きていたりする。


「あれ、コレット、中で何かやってるの?」


 耳にピアスを三つも付けた年上の少女がやってきて声を掛けた。

 コレットは少し緊張しながら頷き、親指で後ろを、扉を示した。


「アンディが裸で出てきたから。まだ脱いでるままかも」


「ははっ、初心だねぇコレットは」


 なんという事も無いとばかりに彼女は笑い、一緒に居た数人も同じように囃し立ててくる。好意的であり、気遣いでもある言葉の中でコレットはまた少し緊張した様子で笑みを作り、適当に応じる。

 彼女達はそのまま部屋へ押し入り、やはり全裸だったのだろうアンディへ暴力的な言葉ぶつけ、笑い、騒ぎ続ける。


 ぱたり。


 閉じた扉の前で喧騒から切り離されたコレットはそっと息を落とした。

 張り付いたままだった笑顔はため息で落ちる。何度か瞬きし、視線が再び下へ。


 穴の一つも空いていない耳へ手をやり、何も掘り込まれていない首元を撫でる。


 コレットは農園の出身者だ。

 服は使いまわしたものばかりで、装飾品は乏しい。耳に飾りを付けるという発想すら、ここへ来てから得たものだ。

 初めて観た演奏会は想像を絶する音で溢れていて、頭がくらくらした。実際、目を回して倒れたコレットを助けてくれたのが、まさにお立ち台で演奏をしていた地獄の番犬(ケルベロス)の面々だ。そこからハーウェイの壺で暮らし始め、お化粧や香水や肌の手入れを知り、豆の無い食事を知り、夜遊びとギャンブルを知り、いかがわしい話を同室の女友達から聞かされて目を回した。何度か連れ込んだ相手との真っ最中にも遭遇したことがあり、直視出来ずに逃げ出した後で、平謝りされて連れ戻された。


 ここでの生活は刺激の連続だった。

 音楽は凄い。音の連なりがあれほどの興奮をくれるとは思いもしなかった。頭を殴られたような大音量は心を沸き立たせてくれる。


 それでもコレットはピアスを付けなかったし、刺青も入れなかった。


 気持ちの上ではハーウェイの壺を好いている。


 ただ、未だに少し、気後れしてしまう。

 どれだけここで日々を重ねても、農園出身者という自分は変えようも無く、一線を越えきれないままだった。


 傭兵業に加われるよう訓練を受け始めたのも、せめて何か貢献出来ないかと模索した結果だ。ここでの流儀に染まっていないコレットを、彼らは別の形での働き口を探してもくれたが、やはり主力となる部分で結果を出したいと望んだのだ。


「ほーらコレット、アンディに服着せといたから、戻っておいでー」


 扉が開いて、向こう側からの呼び掛けがある。


 農園の人々はここを悪の巣窟のように言う。ピアスや刺青を烙印とし、夜中に大騒ぎする様を狂人の振る舞いと称することもある。けれど彼女たちはとても優しく、仲間想いで、面倒見が良い。混ざりきれていないコレットをいつも気遣ってくれる。


 なのに上手く出来ずにいる自分が恥ずかしくて、上手くやろうとして緊張してしまう。


 呼びかける人の輪の向こう、同じように構われているトールが居る。


 可愛らしい見た目も、大人しくて従順であることも、同じくらいの年齢か、下かなと思える頃合いなのもある。

 だけどやはり、同じく農園からやってきたトールの前では安心出来る。

 彼は来訪者(ビジター)だ。本質的にコレットとは違う。


 それでも小さな躊躇いを超えていくには、些細な納得一つあればいいのだと、少女は薄っすらと気付き始めた。


「うん。行く」

「はーい、おかえりー」


 呼びかける少女の耳元へ目をやる。

 知らず、自分の耳へ手をやっていた。


 一つくらい開けてみようかとか、そんなことを思いながら。


    ※   ※   ※


 翌朝、トールが目覚めた時にはアンディが居なかった。


 普段トールが言うところの理科室の仮眠室は男たちの寝床にもなっていて、数名が寝起きするのだが、彼に気遣ってか一緒に眠るのはアンディだけだった。時折ニールが気紛れで顔を出したりはするが、基本的に夜中遊び呆けているアンディの目覚めは遅く、目覚めた時にはいびきを掻いて眠りこけているのが常だった。


 どこに居るのだろうかと考えつつ、トイレに立った少年は寝惚け眼で用を足す。

 驚くべきことにここでのトイレは水洗式だった。

 来訪者(ビジター)が多くやってきたというハーウェイの壺、全てが同じとは限らないだろうが、そこにトイレの設備に並々ならぬ執着を見せるトールの国の人々が混じっていたのであれば、この一極的な発展振りにも納得しようというもの。とはいえ寝起きの頭で水道設備について頭が回るはずもなく、彼は慣れのまま行動し、トイレをジャーとする。

 糞尿の処理は文明社会に於いて重要な案件だ。農園は汲み取り式で肥料に使っているが、ここでは農作業も殆どなく、若者は汚物ネタはともかく汚物そのものは嫌う。


 そうしてトールがトイレから出ると目の前に空飛ぶ骸骨が居た。


「――――――――」


 驚き過ぎて声も出せなかった少年に対し、神出鬼没骸骨ことニール=ハーウェイは小さく手招きをしてゆっくり離れていった。


「寝床に居なかったので遅かったかと思いましたガ、良かったですヨ」


 眠気も何も吹き飛んだトールとしては何も良くなかったのだが、とにかく落ち着いてしまえば彼はオモシロ骸骨だ。ここ数日で何度も似たようなことがあった為、驚くこと自体は無くならずとも、回復は早くなった。

 一応はトイレ内への侵入を控えてくれていたようなので、先の待ち伏せに悪意は無いのだろう。


「少々急ぎで申し訳無いのですガ、ちょっと一緒に出かけませんカ?」


 背凭れの無い丸椅子へ導かれ、腰掛けた所で告げられたのは予想外の話だった。

 いつものほほんとしているニールらしくない、慌てた様子も読み取れる。


 トールは少し無言で考え、けれど、考えることでもないかと頷いた。


「うん。行くよ。準備はどうすればいい?」


「ありがとうございまス。細かい物は後で運ばせますカラ、出来るだけ暖かい恰好をして出かけましょうネ」


 先日ほどではないけれど、今日もまだまだ厳しい寒さだ。

 部屋に干して乾かしてあった借り物の防寒具を手早く身に付け、ブーツに履き替え、マフラーを巻いて毛糸の帽子を被る。

 その間もニールはちらちらと外への扉を見ていて、着替え終わると同時に手を取って歩き(?)始めた。


「何かあったの?」

「エェ、少々困ったことがありまシテ」


 外へ出て、普段出入りしているのとは逆方向へ進み始めた所でトールは尋ねた。


 人目を避け、隠し通路とでも呼べそうな場所に入っていくほどに疑問は深まる。

「ロディが来てくれたんだったら、僕は出て行くよ」

 一足飛びに可能性を導き出し、分かる範囲での予測を告げると、ニールは小さく笑って首を振る。


「イイエ。農園は別ですネ。もしかしたら関係はあるかもしれませんガ、間に挟まっている者たちは貴方を利用しようとしているのデス」


 足元に気をつけて、と壁にめり込みながら振り返ったニールに手を引かれたまま、人一人がようやく通れそうな細い階段を降りて行く。明らかに通り道として用意された道ではなく、乱雑に詰まれた荷物の隙間を抜けていくような状態に不安がどんどん大きくなっていく。

 身を横にして狭い道を進む。

 ちらりと後ろへ目をやると、真っ暗な道の向こうに薄っすらと灯りが見える。

 前方や足元が分かるのはニールの結晶が光を放っているから。


 少なくとも、トール一人で戻っていける自信は全く無かった。


「ニール、その、ごめんなさい」

「ハテ、何かありましたカ?」

「疑って。ロディが来てて、僕を隠してるのかなって……」

「当然の疑問ですヨ。まあワタシ達も利用したいと言えば同じようなものでしょうしネ」


 ニールの真意は分からないが、アンディたちはトールの、()()の声を聞く力に期待している。アムレキアを開放するのだと、その大きな目標に共感出来るほどここを知らないものの、ロディなら同じようなことを考えているかも知れないとトールも思う。

 何より彼らはトールの意思を尊重してくれているし、結果ロディの元へ戻ると言ったことにも悪い顔をせず、協力すると言ってくれている。


 そもそも彼らが強引に攫ってきた背景はあるのだが。


「本来は話をシテ、説得できなければ翌日にでも帰すつもりだったのですガ、吹雪などもあって長くなってしまいましたからネ」


 気温が急激に低下して、昨日も万全ではないトールの体調を考慮して移動は保留とした。


 数名が連絡を取ろうと一度は農園へ向かってくれたそうなのだが、捕まった仲間の奪還目的と思われ追い払われてしまったのだとか。

 普段より明らかに警戒厳重となっていた為に、使っていた侵入路も潰され、問答無用の威嚇射撃。

 仕方がないのかも知れないが、不用意に接近するのは危険だという話だ。


 今もトールの体調は回復していない。

 熱は下がったのだが、お腹の奥に重いものが入っているような気だるさが抜け切らず、寝入るのにも時間が掛かってしまった。

 この感覚が徐々に大きくなっているのだ。動けない訳ではない。果たして不調と呼んでいいものかと疑問を覚えるのだが、細くなった食は戻らず、昨夜はからあげを一つ食べた以外はミルクを飲んだだけだった。


「それで、これからどうすればいいの?」


 全ての不安を呑み込んで、これから先を少年は問い掛ける。

 先行きへの疑問というより、相手の望みを探るようにして。


「とりあえずトールには壺の外へ出てもらっテ、近くの拠点となる場所へ避難してもらう予定デス。必要なものは後から届けさせますシ、身の安全は出来る限り保障しマス。タダ、ここに居るより不便を掛けることは謝らせて下サイ」


 からあげも食べる気になれなかったから大丈夫、そう言おうとした所で視界が開けた。

 階段を降り、狭い通路を抜け、時に四つん這いとなりながら進んだ通路は、予想通り外へと続くものだった。


 足元、積もった雪を踏んでざくりと音が鳴る。


 誰にも踏み荒らされていない雪が、壺状の大岩についた僅かな亀裂にも降り積もっていたのだ。


 暗い通路を抜けて尚も狭い道は続き、けれど進むほどに幅が広くなる。


「…………むゥ」


 先に亀裂の外へ出ていたニールが小さく唸った。

 白衣を羽織った白骨が、仄かに青い光を漏らしながら何か悩んでいる様子は実に珍妙だ。


「トール、少々問題が発生したようデス。ワタシも一度戻らねばなりまセン」

「え……」


 つい周囲を見回す。


 巨大大岩の端、道らしい道もなく、剥げた木々がぽつぽつと見えるだけの場所で一人取り残されるのだと思えば、流石に不安を覚えるのも仕方が無い。


 吹雪も収まり、確かに気温も極端な低さからは脱しつつあるものの、果たしてここが安全なのかもトールには分からない。


「うん。分かった」


 それでも彼は頷く。

 ニールもまた底の見えない瞳で見詰めるが、究極的にどちらを選択するかと言えば、やはりアンディ達が優先されるのだろう。


 せめてもの心遣いで彼は視線を合わせ、ゆっくり言い含めるようにして言葉を差し出した。


「出来るだけ早く戻ってきマス。あるいハ、地獄の番犬(ケルベロス)の誰かが来るかもしれませんネ。ここで待って頂けると確実なのですガ、もし寒かったりお腹がすいたのであれバ、この先へ真っ直ぐ進んだ所に小屋がありマス。ワタシ達しか使っていない所ですかラ、好きに使って下サイ。毛布や食料の備蓄程度はある筈デス」


 話していたのは僅かな時間。

 状況の分からないトールには想像するしかないが、きっとその時間すら惜しかった筈。


 頷いてみせると、心無い化け物(ハートレス)ニール=ハーウェイは静かに笑い、溶け込むように岩の中へ消えて行った。


 どさりという音に振り向けば、リス程度の大きさの小動物が茂みの中ヘ逃げ込んでいった。物音は枝から落ちた雪が原因だろう。


 生物が居る。


 その事実が一層トールを不安にさせたが、既にニールは去った後。


「そっか」


 おそらくは、アムレキアへやってきてから初めて、周囲に人の居ない、完全な孤独を得たのだと、少年は理解した。





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