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霧に覆われた荒野の向こうから、一人の男が現れた。
片足が結晶化していたとされる彼は、最果ての街への到着後、半日と持たず死亡した。
男の治療を担当した医師は、死の間際にこう告げたとカルテに記録している。
『逃げろ』
死んだ男の肉体は瞬く間に全身が結晶化し、粉末状に砕け散って霧散したという。
三日後、医師と入院患者が次々と異変を訴え、死亡した。
死体はやはり結晶化し、砕け散って霧散した。
以来、最果ての街アムレキアには、死と恐怖と、深い霧が渦巻いている。
※ ※ ※
朝から小雨が続いていた。
大通りへ繋がる門は崩れて久しく、積みあがった瓦礫は手が付けられないまま放置されている。
三重に張り巡らされた金網の内側では、複数の男たちが外套を着込み、雨に身を晒して街並みを眺めていた。少しだけ慌しいのは、ちょうど交代の時間が来ていて、早くも昼食を得ようと炊き出しの女たちへ駆け寄る者が居るからだ。汗だか雨の滴だかも分からないものをとりあえず拭き取れと手拭いを投げ付けられる者も数人、珍しい雨の日とはいえ気温は低く、放置していては余計な病人を増やしてしまう。
そんな中で、吐く息白く、金網の外を熱心に見詰めている少年が居た。
横風で入り込む雨を無視してフードを取り、目元を拭う。いた、と震える口元は確かに呟いた。
立て掛けていたクロスボウを手に取り、慎重に矢が固定されているのを確かめる。本来は外しておくものだが、今日が新任である彼に暇を持て余した先輩らが付け外しの練習をやらせていて、ちょうど取り付けた所で終業の時間になったのだ。
手すりへ等間隔に作られている固定用のへこみへ先端部を置き、誤射防止の為に掛けられている安全装置を慎重に外す。
まだ引き金に指は掛けない。
発射する時までは側面に指を置き、冗談でも指を掛けて振り回すなと教えられている。
ふざけて逆らった同年代の少年は顔がぼこぼこになるまで殴られて、二日も飯を禁止された。
ストックへ頬を乗せるようにして目付けする。人それぞれだと言われて試してきたが、こうしてストックを抱くように持ちながら矢の羽から鏃へ視線を通すのが一番しっくりくる。引き金のガードを指で撫でつつ、少しだけ早まった鼓動を呼吸で落ち着けさせていく。
全て訓練通り。
何百回、もしかしたら千回は繰り返したかもしれない動作だった。
先輩らはあれこれ助言をくれたが、この発射する動作以外のものは、実戦で何度もやってきたことだ。
重たい長距離射撃用のクロスボウは大人でないと扱いが難しい。だから少年のような者は射手の後ろで使い終わったクロスボウへ新しく矢を番える。巻き上げ機の扱いも慣れたものだ。
後は、得物を狩ること。
距離は十分。もっと後ろの見張り台からあそこまでを狙う者はそこそこ居る。
慎重に息を吐き、狙いを付けた。
行動はずっと観察している。
奴らの中でも、アレは特に知性と呼べるものがない。
狙いは肩に見える結晶だ。まるで皮膚が剥がれ、その中身が晒されたようにも見えるそこを破壊すれば、脳無し共はすぐに死ぬ。
そいつが気になるのか、口の中で呟く。
どうにもその脳無しは瓦礫の脇に落ちているジョウロを視ているようだった。
物陰から姿を晒したまま、しゃがみこみ、一部が結晶化した両腕でジョウロへ手を伸ばしては引っ込めてを繰り返す。
腕を伸ばす度に身体がやや前傾し、戻すと下がる。揺れ動きの幅と、その動きが大きくなること、そして雨の中の風を視る。
不意に分かった。
いける。もうじき風が止まる。思い、息を止め、引き金に指を――
「極力金網付近ではやるなと教えられなかったか」
少年のものより一段と大きな手が、ガードごとその指を掴んだ。引き金の内側に親指を入れられては引き絞ることも出来ない。あ、と思う間もなくもう片方の手で安全装置が掛けられ、やんわりとクロスボウを取り上げられた。言われた内容よりも、今まさに敵を仕留める寸前だったのにという抗議の目を向けるが、振り返って見た男の肩に長銃があるのを見て口を噤んだ。
殆どの者がクロスボウを使う中、貴重な長銃を扱うことが許されているのは、少なくとも少年ら農園の戦士団では一握りの腕利きだけだ。
「あのまま下がっていくなら放置していろ、金網へ寄ってくるなら誘導して仕留める」
そう、教えられていた。
敵に夢中となって忘れていた。
「いいな」
強めの声が来て、少年は頷いた。
情けなくて顔を上げられない。彼の肩の長銃が、お前はまだまだひよっこだと言ってきているようで、それが事実である事を今まさに証明してしまったことで、恥ずかしさを覚えたのだ。
男はもうそれ以上は言わず、周囲へ目を向け始めた。
足元に置かれたクロスボウを拾い上げ、自分でもう一度安全装置が掛かっているのを確認して矢を取り外そうとした。
「待て」
少しだけ緊張を孕んだ声に顔をあげる。
もう交代時間だ。食事を貰って、今の事を忘れる為にも部屋でしばらく休んでいたかった。
「大通りの右側、崩れた診療所の前、視えるか」
言われるまま目を向けるけれど、小雨で薄まったとはいえ今日もアムレキア市街は霧が掛かっていて、彼が言うような場所はよく視えない。そもそもかなりの距離があるし、雨自体が視界を遮るから、普段よりはマシ、という程度でしかないのだが。
「いいえ」
「…………誰か居る」
しかし男はじっと一点を見詰めていて、誰か、と言った。
奴ら、ではなく、誰か、と。
「研究所の連中じゃないんですか。昨日の今日ですし、偵察とか」
「あぁ」
下らない対抗意識で意見をしたが、反論すらなく流されてしまった。
それもそうだ。偵察をするなら危険の多い市街からではなく、町の外側か、比較的安全の確保出来ている高所。いくら雨で霧が薄まっているとはいえ、彼の言う大通りからでは見張り台や金網が邪魔をして内部の様子なんて見えないし、当然ながら防御も固い。先だって受けた奇襲によって屋根を喪失しているが、それ以上を許さず撃退したという実績から考えても、人間が霧の中から接近してくるというのは考え難い。
「子どもだ。人を集めろ、救助に行くぞ」
長銃持ちにこれ以上反抗する気も起きず、少年は言われるまま見張り台から降りて人を集めに向かった。
きっと、椀を手にした先輩たちから抗議の一つも貰うだろう。
ただ、
「よく視えるな、カムラン」
見張りの一人が長銃持ちに声を掛けていた。
「お前か。丁度いい、多少強引になるかもしれないからな」
「……俺ようやく休憩なんだけど」
少年が先輩たちに特訓だなんだと言われている中、黙々と監視を続けていた男だ。
真面目、というよりは、皆と距離があるように感じられたのだが。
「我慢しろ、ロディ。お前本来の役割だぞ」
ひょろりとした体躯、身長は少年より高いが平均程度で、顔付きは気が抜けている。
「俺に言うのかい」
「お前だから言う」
「……そうかい」
あぁ、と思う。
彼がロディ=ロー=エーソン。
英雄から受け継ぎ損ねた、恥晒しのロディだ。
※ ※ ※
カムランは長銃を構えたまま大通りを見詰めていた。
居る。確かに、小柄だが人の形をした、おそらくは子どもの姿が霧の中に見える。
足取りが不確かで、最初は脳無しかとも思ったのだが、四肢は揃っていて頭部もある。肉体の一部が結晶化している奴らは、必ず動きに癖があり、慣れればすぐに判断がつく。その他奴らと忌避呼ばれる者たちの特徴とも似つかない。
しかし何故あんなところに。迷い込んだにしても街中は奴らの巣窟で、ここアラルド農園に近い一帯は比較的掃討されているとはいえ、武器も持たない子どもが単独で歩いてこれる場所ではない筈だ。
警戒するべきだろう。
思い、立ち姿勢のまま周囲を見回した。
伏射可能な場所もあるが、距離は百六十M程度で、叫び屋が出現すれば多方面での戦闘になる。逸早く仕留められるように、この場合は立っている方がいいと考えたのだ。
鳥の断末魔にも似た叫びがあがった。
救出部隊の出発に向けて準備を進めていた者たちが慌てて柵へクロスボウを乗せていく。
「見付かったのか!?」
違う。
「どこに居る!?」
音源はおそらく時計塔方面。
「見付からない!」「探せ!」「ガキはまだ生きてるんだろ!?」積まれた瓦礫上はクリア「そもそも何で叫びやがったんだよ野郎は!!」「これも研究所の仕込みじゃないことを祈るねぇ……!」響きからして屋内ではない。遮蔽物も僅か、視野内に居る「方角は分かるか!?」「時計塔の方だっ、だが見当たらねえっ!」居た「放置してるとこっちにまで押し寄せて来るかもしれない、応援を!」「おいガキ、すぐに増援呼んで来い! 見張りの前後シフトだけじゃ足りなくなるぞ!」
銃声がすべての叫びを吹き飛ばした。
大通りの更に向こう、倒れて道を塞いでいる馬車の脇で、頭部を撃ち抜かれて倒れていく姿を確かに見て取る。
案内看板の柱が邪魔をして狙い辛かったが、再び叫ぼうと仰け反った時に頭部全体が晒されたおかげだった。排莢音と共にカムランが告げる。
「仕留めた」
全員が一斉に息を吐くのが分かった。
しかしそれも一瞬だけ、幾つかの指示が飛ばされ、番え終わったクロスボウを手に続々と構えを取り始める。
それと同じくして、救出部隊が出発した。
カムランは続けて呼応しようとした叫び屋をもう一体仕留め、次に大通りの少年へ銃口を向けた。指は引き金に掛かっていない。望遠筒はないものの、照準装置を通して見ると、感覚的にはただ見るよりも詳細に対象を捕捉できる。
やはり人間だ。この寒さの中で薄着をしている。先の叫びに脅え、物影に潜もうとしているようだが、奴らは目で相手を視ていないから無意味だろう。
そんなことは誰もが知っている。
不意に現れたとしか思えないようなあの子どもをどう判断すればいいのだろう。
そう、あまりに荒唐無稽で口にはしなかったが、カムランの目にはあの子ども、通りへ浮かび上がるようにして現れたように見えたのだ。
新種だろうか。
話しておくべきだった。
ただ心配もしていなかった。
恥晒しのロディ、そう呼ばれてはいるものの、彼はあの英雄の継承者なのだから。
叫びに釣られて湧き出した脳無しをクロスボウ部隊が次々始末していく。
見渡す限り、呼応する姿は多くない。この小雨が幸いした。雨粒で結晶の表面が剥落するのを嫌って、奴らの大半は屋内や地下に潜っている。
救出部隊はもうじきあの子どもの元へと到着するだろう。
そっと息を抜いたカムランは喉のずっと奥がざわつくのを感じ、珍しく愚痴をこぼした。
「煙草が吸いたい……」
※ ※ ※
にわかに騒がしくなってきた都市中心部方面とは反対側、居住区からも少し離れたベンチで、サングラスを掛けた男が巻きタバコを咥えて雨雲を眺めていた。
先日から続く小雨は勢いが増したり弱まったりと安定する気配がない。
アムレキアは寒冷地。
一年の内、雨が降るほど気温が上がるのはこの時期しかない。
雨が霧を晴らす。都市内部へ侵入して稀少物資を確保するのにこれ以上無い好機だが、小雨程度では難しい。
その雨ですら降らない年もあるのだから、事の最中に余計な横槍を嫌って研究所が襲撃を仕掛けてきたというのは打倒な判断だ。具体的に何を狙っているのかは分からないが、妨害を考えていられる余裕は確かに無くなっている。
「アークス」
トタン板へ雨がぶつかる音に混じって、物静かな声が差し入れられた。
口元から昇る煙が揺れる。時折この煙を見る為にタバコへ火を点けているんじゃないかと思うことがある。手製の品だが、これだって隣町の闇市で取引される中では上物の扱いだ。指で挟みこみ、少しだけ吸って、口から離す。煙を吐いた。
「チェネックか」
石像のように表情の動かない男へ言葉を返して彼は肩を竦めた。
「街側が騒がしいようだな」
「街中で生存者を確認したらしい」
「救助、するつもりか」
「あぁ」
「律儀な連中だ」
皮肉げに笑って、また煙をくゆらせる。
アークスもまたこの律儀な連中によって助けられた一人だ。
食料が尽きて、空腹感に耐えられず倒れている所を保護され、以来用心棒のようなことをしている。
農園と呼称されるだけあって食糧事情はマシな分類だが、物資すべてが潤沢という訳じゃない。むしろ襲撃を受けた直後で負傷者も居て、ここで救助活動など合理性に欠ける。しかも奴らの密集している都市の中央を望む北西側で発見されたとなれば、間諜か、それでなくとも薬に溺れた狂人か、最良でも己の力を過信した阿呆という所だろう。
こちらの命を危険に晒すよりは死んでもらった方がいい。
最後の別れに大きく吸い込み、放り捨てた。
個人的意見は煙と共に吐き出して言葉にはしない。
「昨夜に研究所へ奇襲を仕掛けてきたばかりだ、俺は二割も力を出せんぞ」
ベンチから立ち上がって、少し離れた場所にある煙の出所を踏み潰し、懐中時計を取り出す。
銃声が聞こえてきてからもう十三分二十一秒経過している。救助というのならまず第一斑で突入路及び退路の確保、第二班で届く距離なら現場の確保、第三班で救助そのものを行い順次撤退、見張り台からの後方支援が可能な範囲なら難易度は下がるものの、状況の変化に備えて後二班程度の編成は必須だろう。
先行する一斑は五分時点で動いている。増強された見張りのローテーションには切り込み部隊に使える連中が常駐させている筈だからだ。次の二班は準備に時間が掛かる。退路の確保にはまず火力が重要だ。物資を掻き集めて運搬の準備をするのにも時間が掛かるし、手練れの指揮官を欲するならもっと掛かる。
防陣からの援護を受けられるなら、準備を優先して十分から十二分ほど時間を使える。
救助対象の状態は不明だが、霧の濃い中心地ならともかく小雨のある今の状況なら脳無しの動きは鈍い。
通常であれば奴らの集結まで相当な時間を要する筈だ。
ここから現場まで駆ければ五分と掛からない。
アークスやチェネックだからこそ、の時間ではあるのだが。
どの道これ以上時間が掛かっているようなら大軍に囲まれて作戦は失敗。
仮に失敗せず状況が続いているとすれば、それ以上の異変が起こっている可能性が出て来る。
つまりここでアークスが出向くというのは、その異変への対処を目的にしていると考えるべき。
金網での防陣を利用する見張り台は、言ってしまえば射撃場だ。
主力武器であるクロスボウの威力を安定して引き出せる距離、射角を確保している場所で、脳無しや叫び屋といった凡庸な相手への対処を目的としている。
「監視塔へ向かう。それと、分かる範囲で今日の見張りを教えろ」
懐から煙草入れを取り出すもすぐに諦める。
仕舞い直した時、手の甲に鍵のような紋章が微光を発して浮かび上がっていた。
「場合によっては、あの一角を丸ごと吹き飛ばすことになる」
※ ※ ※
唐突だが現場では筋肉が漲っていた。
アークスの予測を遥かに超えて、僅か二分で集結した彼らはその後一分を調整の時間とし、各々の筋肉を確認していたのだ。
そんな彼らの前に一人の男が歩み出た。
前方で固まってポージングをしていた三人に比べると一回りは小柄な身体付き。しかし、一つの目的に対して無駄を削ぎ落とし、黄金比の如く仕上げられた筋肉は最早芸術品の域に達している。身体のラインを見せ付けるタンクトップに革のジャケットを肩に掛け、彼もまた短い時間で己を研ぎ澄ませてきたのか、漲る意気が湯気を伴い登っていく。
「全員己の武器を確認しろ!!」
第一声で詰め所の窓が揺れた。
集結し始めている別働隊が驚いて彼らを見る。
「走れ! 救え!! そして、走れぃ!!」
「「「応!!」」」
「……おう」
「行ぃくぞォ!!」
説明も、相談も一切無かった。
コートを翻したかと思えば、それを風に任せて置き去りにした男が巨大な棍を担いで駆け出している。
続く三人のマッチョ、そしてため息を落として後背を務める青年が身を低くして追従する。
雨は徐々に勢いを増していた。
アムレキアの霧は雨で晴れるが、本質的に消えることが無い。
弱まればすぐに視界は塞がれるだろう。
だから彼らは出発を急ぎ過ぎるほどに急ぎ、飛び出して行ったのだ。
そもそもとして完璧な準備などこの急場では望めない。十分な戦力で現場を確保しつつ、退路を保持したまま救助を完遂する。そんなことが出来るのなら誰もが望んだだろう。しかし発見された子どもは倒れこみ、動けない状態にあるという。
叫び屋の封じ込めに成功したものの、普段より動きに活性化が見られるとあって警戒の度合いは強い。
罠である可能性や、見捨てる選択肢を考えないでもなかった。
けれど彼らは最終的に救うことを選んだのだった。
瞬く間に三つの金網を抜け、先頭を行く男が棍を振り被る。
その途端、彼の身を無数の光子が取り巻いて、市街の方々から叫びがあがった。
潜んでいたのだろう数体の脳無しが顔を出すが、その内三体を建物ごと彼は薙ぎ払った。後続もまた各々の武器を翳し、光子を奔らせ、圧倒的な破壊力で以って敵を蹂躙した。肉体を鍛え上げているだけでは説明のつかない運動量だ。先行く棍の男へ四人が続く。隊は縦列を作り、金網に沿って霧の手前を駆け抜けていった。
「無駄に殺すなよ、後が面倒だ」
「当ぉ然よ!!」
後背を行く青年が呟けば、先頭の男が棍を振り上げ、その先端に担ぎ上げた脳無しを何処かへと放り投げた。これまで倒した全ての個体を、彼は露出した結晶部分を避けて行動不能にしている。
「動けなくすればそれで良し!! これ以上霧が濃くなるのは御免なのでな!!」
しかし間のマッチョたちは視線を彷徨わせ、とりあえず叫んだ。
「そ、その通り!」
「出来る限りっ、出来る限り仕留めない様にな!」
「我ら漲る筋肉がついついやりすぎるのはご愛嬌ということでな!!」
「後継の育成には力を入れてくれ」
ハハハと豪快な笑いがあり、直後に表情が引き締まる。
市街地への突入は、奴らの密集しがちな大通りを避け、やや迂回路を取った。
金網沿いに進行しつつも視界の開けた路地へ跳び込み、徐々に目標となる子どもを目撃した場所を目指している。彼らは速度を重んじていた。確かに退路を確保し、火力を集中して前方を拓き、突破をし掛けて救助を行うという形式を取ればこの救助活動に参加する者たちの安全度は格段に上がる。
しかしそれは救助対象の安全を脇に置く考えだ。
一点突破で突入し、確保し、逃げれば、それで全て方が付くというのも確かな話。
幸いにも通りを見張れる位置には鷹の目が居る。
先だって研究所との衝突で動員数が増えていて、クロスボウによる面制圧にも期待が出来る。
「合図だ!!」
「応!!」
スリングショットを用いた投擲によって、大通りの上空へ導火線のついた袋を放った。
一息、二息、足先が割れたレンガ造りの床材を噛んで、身を前へと投じる直前、
炸裂した火薬が衝撃と轟音を放ち、霧を僅かに晴らしてくれた。
合わせて見張り台から放たれた数十本のボルトが目の前を通り抜けていく。
「行ぅけえッ!!」
言われるまでも無く、まず先頭が跳び出て、続いて巨漢の二人がやや奥へ、一人が後方へ身を向けた後に最後の一人が突入する。
「正面の二体と奥のデカブツが厄介だ!! やれっ、バーキン!!」
「その奥の腕長もやる! 二秒!」
光子が奔る。
名を呼ばれ、最後に大通りへ飛び込んだ青年が腰のベルトからナイフを抜き、腕を振るった。
銀の一閃が奔り、残滓のように光子が軌跡を辿り、消えていく。
背後に重い衝撃を感じるが、無理という声がないのなら構わない。
後方は一人がしっかり守ってくれている。
「よし! 今の内に行く――――」
棍を構えた男が前へ踏み出した直後だった。
アムレキアに滞留する霧の粒子が、強烈に震え、共鳴し、色を変える。
薄っすらと灰色がかっていた霧が、青に、そして緑へ。
同時に大通りへ突入した男たちが纏っていた光子が消え失せ、急激に武器の重さが増したように姿勢を崩す。
「っっ、お前たちは全員撤退しろ!! 奴だっ、虚蝋骸だ!!」
「「「おやっさん!?」」」
「俺は子どもを確保しにいく!! 石の力が無くとも鍛え方が違うからなァ!!」
言葉通りに棍を背負って駆け出そうとしたが、緑色に染まっていた霧が奥から赤へ塗り潰されていくのを見て他の者が血相を変えた。
瞬く間に周囲は血の色に染め上げられる。
一人は耐えたが、残りは胸を抑えて膝を付く。
「拙い……ッ、よりにもよって最上級がおでましか……!!」
鳴動する霧の向こうから腕が伸びてくる。
真っ白な、人の骨。
肉は無く、体を動かす為の構造はどこにも無いにも係わらず、宙を浮いたまま指を開いて、霧を一撫でする。
無数の、男女の、老若の、あらゆる人の声が重なり、悲鳴をあげた。
「ぁ……ぁ、ぁぁ…………」
コツンと、石が一つ落ちる。
身動き一つ取れないまま赤の霧に呑まれた一団は、最早光子の力も無く巨大な災害を前に立ち尽くすだけ。
たかが人の身ではそこが限界。
熟達者、あるいは玄人、その程度では。
だからここからは、英雄の戦場となる。
真紅の霧を、ロディ=ロー=エーソンが駆け抜ける。
※ ※ ※
染め上げられていく霧を目にした時、一目散に駆け出していた。
アレは生身の人間からすれば毒そのものだ。遠目から見ているだけで心乱され、渦中へ跳び込めば人の身を保っていられるかも分からない。
先発隊が無茶をする理由は分かる。けれど入り込み過ぎていた。不意の遭遇によって彼らの命はまさしく風前の灯だ。
霧の中を駆けるロディに先発隊のような光子はない。
ただ彼らに負けず劣らず俊敏な動きで大通りを抜け、すれ違い様に脳無しを軽々殴り飛ばしていく様は変わらなかった。
棍を背負った男へ虚蝋骸の手が伸びている。文字通り、腕となる白骨が伸長し、頭を掴もうとしているのだ。
どういう理屈かも分からないが、あの手に掴まれれば人の力じゃどうにもならない。
ロディは革の手袋を引っ張って指先の感触を確かめ、レンガ造りの床を蹴った。
指先の感覚は鈍らせたくない、けれど何を殴る時に剥き出しの肌では皮膚が破けてしまうこともある。
指の先端部を切り落とした革手袋は、普段通り手に馴染んだ。
「あぁ行こう」
誰ともなしに呟いて地面を蹴る。
瞬く間に男たちの間を抜け、白骨の手首を掴み取った。
握った掌から炎が燃え上がる。霧が激しく鳴動し、幾つもの悲鳴をロディは聞いた。
「無理すんなって、おやっさん」
骨の手を引けば、離せとばかりに暴れ、だから逆らわずにロディは手を離した。
霧の向こうに消えていった手を追うのは止めて、地面に手を置く。
静かの炎が沸き上がり、周囲の者たちを包み込む。
熱は無く、それでいてほっと一息つきたくなるような優しさの宿った炎。
新緑を思わせる色をしているが、それは確かに炎だった。
血の気の引いていた男たちにようやく熱が通う。
一人、バーキンと呼ばれていた青年は苦々しい顔をして俯いていたが。
「っ、無理をするなは貴様の方だロディ!! 従者の身では限度があるぞ!!」
「分かってるって、おやっさん。ガキを拾ったらこっちも逃げるよ」
残り火を置いて再びロディは駆ける。
正面、いや、建物をすり抜けて側面からも腕が迫る。
一つは跳び越え、一つは身を捻って潜り抜け、回避の動作がそのまま駆け出しの準備となり、狙いを定め、己を蹴り放った。
突き破った霧が天へと舞い上がり、けれどやがて戻っていく。手を繋ぐように、縋りつくように、アムレキアの霧は永遠に消えることが無い。
そう、視界の殆どは赤で埋め尽くされている。
頼りは虚蝋骸が出現する前から目に焼き付けていた通りの光景だ。あと勘だ。
気分が大事だと先代は良く言っていた。
「先代言うなって言われそうだな」
違った呼び方を嫌う人だった。
大体の者には名前で、ロディには一つの呼び方を指定していた。
どうしてそこまで拘るのか分からなかったが、あの人なりの価値があったんだろうか。
ともあれ濃い霧の中でも虚蝋骸の位置は徐々に見えてくる。
鼓動のように時折脈打つ霧を感じていると、中心点が分かってくるからだ。
何よりこれだけ濃い赤をしていると、力の所在は匂いで分かる。勘だけど。
「近いな」
自分と敵の距離が、ではなく、長銃持ちのカムランが言っていた少年とやらの居場所が、だ。
最初から妙ではあった。
脳無しは人に反応して寄ってくるが、その距離はかなり短い。
だから分布を把握できれば、霧が薄くなる雨の日に軍団を避けてゴミ漁りが出来る。特に医療品は稀少だ。宝飾品などが手に入れば物々交換にも使えるだろう。近隣の街はもう掘り尽されていると聞くが、アムレキアはこの濃密な霧と、大量の奴らを始めとした障害の存在があって、手付かずの場所がまだまだある。
障害の中で、赤の虚蝋骸は最悪の部類の一つだ。
居場所の把握は困難だが、こんな街外れに現れたことは過去に例が無い。
それが少年のすぐ傍で佇んでいる。
まるで会いにきたとでも言うように。
「何をしに来たんだ、お前はよ」
どちらにせよ子どもは回収する。
奴らが気にしているのなら一層見捨てる訳にはいかない。
足跡に炎を宿しながらロディは進む。
そうして見た。
赤の霧、そこに浮かぶ脚の無い白骨の化け物。
ボロの外套を纏い、胸骨の内側には魔的なほどに美しい真紅の結晶がある。
劈くような悲鳴の重奏に眉を潜め、振り回された腕を弾いて足元へ飛び込んでいく。
「っっ、くそ!!」
飛び込んだ先で静かの炎を巻き起こし、安置を確保しようとしたが、生み出したその場で炎が結晶に吸い込まれてしまった。
地面に触れ、炎の噴出点とした左腕もまた虚脱感に襲われる。力を喰われたのだ。
額に脂汗が浮かび、けれど目はしっかりと対象を捉えていた。右腕が倒れた少年を抱え上げ、伸びてきた腕を避けて身を回す。足で弾いた。同時にその足までもが力を喰われて地面を踏み損なう。捻らなかったのは九死に一生、この状況で片足が駄目になるのは拙過ぎた。
転がるロディの周囲に炎が巻き起こって壁を作るも、虚蝋骸の悲鳴がそれを振り払う。
何とか起き上がろうとする彼の背後に矢が突き立てられた。
「っ、ぁあそうかい!!」
邪魔だ退け、とそう言われたのだ。
銀を帯びた矢が風を巻き起こし、迫る虚蝋骸を押し戻す。
その間に身を立て直したロディは少年を抱え直し、方向も分からず跳び上がった。
四階建てを軽々跳び越え、見下ろした大通り。
「いいとこ持って行きやがって、アークスの野郎」
赤の霧を、銀の嵐が呑み込んでいた。
けれど、
※ ※ ※
監視塔からアークスの放った二矢目が虚蝋骸の侵食した赤の霧を押し流していく。
銀色の輝きを宿し、狼の遠吠えを伴って喰らい付いた攻撃はしかし、徐々に勢いを弱めていった。
「出力不足だ。まあ、昨日酷使したばかりだから、この程度が限度だろう」
「それで、どうするんだ」
眉を寄せて溢せば、ここまで付いてきたチェネックが不満そうに言う。
弓を放り投げるようにして消し、アークスは肩を竦めた。サングラスの奥で瞳を閉じ、眉を上げて口端を広げる。無駄と呼べる行動を彼は取らない。故にこれは足掻きではなく、勝利への布石に他ならない。
「相手は最上級の赤だ。半端な力じゃ飲み干されるのは予想通り」
だから、
「霧は晴らした。きっちり仕留めれば、煙草の一つくらいは奢ってやるさ」
※ ※ ※
銀色の風が、真紅の霧を払いながら消えていく。
常の霧ならばともかく、虚蝋骸によって侵食された霧は物理的にも視界を強く遮ってしまう。早々に遠距離射撃を諦め突入を想定し始めた見張り台の者たちの中で、彼だけは長銃を構えたままその時を待っていた。
彼は身体の揺れに逆らわず立ち姿勢のまま狙いを定める。
無理な修正は返って弾を逸らす。銃口の先と標的とが重なった時ではなく、飛ばした弾が風によって流れていく軌跡の終点を目に浮かべながら、引き金に指を掛けた。
いつしか雨も止んでいる。
霧が払われ、アムレキアの大通りは結晶化事変前の姿を六十年ぶりに人々の前へ晒していた。
草木に侵食され、朽ちて尚も人の生きた証が遥か北方の最果てまで貫いていた。その先までは、今はまだ見通せなかったけれど。
「あぁ、良く視える」
これだけの好条件、カムラン=ノークェイサーにとっては外す方が難しい。
指先が柔らかく引き金を引き絞っていった。破裂の音が鳴り響き、長い銃身を抜けて弾が発射されていく。衝撃は肩口で柔軟に受け止められ、銃口を僅かに揺らすだけ。そのズレさえも彼は識っている。
炸薬は少なく、弾頭は重く。
発射時のエネルギーを失い難く、弾丸の直進性を高める低速弾は狙撃主の感性に違う事無く弾道を再現して見せた。
防ぎに掲げられた白骨の手を巨大な棍が叩き飛ばし、人の造った弾丸は英雄たちの戦場を越えて赤の結晶を完全に撃ち砕く。
最後に一度だけ霧を脈動させ、心無い化け物は啼いた。
それはすぐに、人の歓声によって掻き消えた。
負けじと。
霧だけではないのだと。
最果ての街アムレキアには人の息吹が残っていると。