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大丈夫……。
きっと大丈夫だ。
正直、児童相談所も警察も期待はずれではあったけど、わたしを守ってくれる法が存在してるのはわかった。
今、十七歳のわたしを父親が売り飛ばせば、それは犯罪になる。普通の虐待と違って、証拠を残さないことは難しいはずだ。
だからわたしは強気に出ていい……。嫌なことは嫌と……たしかにこれまでいっていなかった。はっきりと伝えれば、状況が、変化しないはずはない。
「おじゃましました」
すでにあたりは暗かった。
見送ってくれた野田に手を振って、道を歩きだした。
野田……いいやつだった。なにも言わずに家にあげてくれて、パソコンも貸してくれて。
友達をつくるのが苦手、というか、億劫なわたしだけど、彼とは、友達になりたいかもしれない。
無事、親とか借金のことが解決したら、学校で話しかけてみようかな。
「あ、阿左美、さん」
喉からやっと絞り出したような声が聞こえた。
わたしが振り返ると、野田はスマホを差し出してきた。
「遅いから、先に家に電話を入れたほうが」
「え、いいよ」
と返したけど、野田は手を引っ込めなかった。
「……わかった」
わたしはスマホを受け取った。
なんだか彼らしくない頑なさに負けた。
父親の携帯にかけた。
三コールめで通話が始まった。
「もしもし……」
『ちひろかい? ちひろ! ごめん……。ごめんなぁ!』
父は大声で謝ってきた。
またいつもの泣き落としが始まると思っていたので驚いた。
『すまなかった。僕は、また同じ過ちを……。綾のときにあれだけ後悔したというのに……。ちひろ、僕のことはもう、父親と思わなくていい。家にも、嫌なら帰ってこなくていい。……ただ、今どこにいるんだい。安全なところか。信用できる人のところか……』
こうまで潔い父親を見るのは、人生ではじめてだった。
別人ではないかと本気で思った。
「今、クラスメイトのところ。……『マネージャー』は?」
『杉山くんは、帰ってもらったよ。彼は……悪くない。自分の仕事をしていただけだ。悪いのは僕なんだ』
「うん……。それはわかってる。…………ひ」
急に涙が流れて頬が濡れた。
わたしは突然あふれ出した感情にのまれて叫んだ。
「ひどいよ! お父さんも『マネージャー』もいつも優しくて……そんなに優しくされたら逆らえるわけないじゃん! 全部計算づくだったんでしょ! ひとでなし! 鬼!」
『……すまない』
「二人とも、わたし、大好きなのに! その好きな人から裏切られたらどんな気持ちになるかわかる? わからないよね? だから平然と裏切ったんだよね?……うっ、ううう……!」
悔しくてぼろぼろ泣いた。
なんでわたしは愛情を、完全な形でうけられなかったんだろう。
夜空に三日月がでていた。あれと同じで、わたしがもらったものも欠けていた。欠けて育ったわたしの心が悲鳴をあげていた。
「死ねっ!! 死ねよ! 許してほしかったら自殺しろ! そうじゃなきゃわたしは安心して生きられないよ!」
『そ、そうだな……。そのとおりだ』
「お姉ちゃんにも謝ってから死ねよ! いや、やっぱり謝るな! 不愉快なだけだから! はやくしね!! 電話切って三秒で死ねよ! いいなッ!」
『――はい』
通話が切れた。
とたんに夢から覚めた気がした。
あわてて、スマホの通話履歴から、リダイヤルを押した。
コール音、三回、四回、五回……。
……。
「ごめん、ありがとう、野田くん」
わたしは彼にスマホを返した。
そして走った。
「お父さん」
溢れ出てくる涙をぬぐった。
「嘘だよ、死なないで……。借金……返そう。わたし、アルバイトするから」
家についた。おんぼろの木造一軒家は、玄関も窓も真っ暗だった。姉の帰宅は深夜だ。今、家にいるのは父だけ。心臓がぎゅっと締め付けられる感覚に襲われて、走ったばかりで呼吸が荒かったのに、その息が今度は完全に止まった。
「ふっ、ふーーーっ……」
必死の思いで息を吸って、吐いて、「お、おとうさん」震える声でいいながら玄関を開けた。
「お父さん……。嘘だよ。死んじゃだめ……」
暗闇の中、照明のスイッチを求めて伸ばした手を――、
つかまれた。
そして口を大きな手で覆われた。
とても強い力だった。掴まれた腕ごと体を締め付けられた。
耳元で声がした。
「ちいちゃん、ごめんよ。仕事なんだ……」
『マネージャー』……。
もがいても振りほどけない。
弱々しいのは声だけで、締め付ける力は骨を折る気じゃないかというほど容赦ない。
「きみのことはもう、会社に話を通してあるんだ……。なん年も前から……。きみと仲良くして、仕事の合意をつくるのも、すでに僕の仕事のひとつになってるんだ……。ぼくはこれでお金をもらって、生活してるんだ……。きみにいなくなられたら、ぼくは……」
すぐそば、玄関をあがったところに、また別の人の気配があった。
その方向から、ぼそぼそと声が聞こえた。
「すまない、ちひろ。父さんは、やっぱり弱かったよ」
湧き出した疑惑が、確信に変わって、衝動となった。
わたしは『マネージャー』の手の中で、「うそ……! 嘘つき!」と叫んでいた。
ぜんぶ嘘だった。
そして今のこれも嘘だ。
わたしが出ていって、電話をかけている間も、『マネージャー』は側にいて、きっとわたしを連れ戻す相談を二人でしていた……。
いや、仮に相談なんてしなくても、利害が一致してる二人だ、あのときは本気で後悔して、本気で謝っていたとしても、でもそのふるまいが、最終的に自分たちに好都合なように働くんだ。示し合わせたように、ふたりとも気が変わって、今、こういう行動に出られるんだ。
こいつらは全部嘘だ。最初から最後まで。
だまされたわたしは、救いようのないバカだ。
「ぼくも弱い……。弱い人間なんだよ……。ほんとうに、ごめん……」
二の腕にちくりと痛みが走った。
なにかがそこから体の中に入って、広がっていく。
「大丈夫、ちいちゃん、眠くなるだけだよ。あとのことは、起きてから考えよう。戻ってきてくれて、ほん……うに……りが……う」
『マネージャー』の声が、途切れて、わからなくなっていく。
わたしは……眠りに…………落ちた。
*
「誕生日はひと月後でしたよね」
『マネージャー』の声だ。
「そうだね。なんとかなりそうかい」
父の声。
「全部書類やデータ上の処理でなんとかなります。あとは本人ですが……悪いいいかたですが、しらばっくれればいいでしょう。疲れて、日付の感覚がおかしくなっていたんじゃないか、とかいって。……そうですね、今、誕生日パーティーをしてしまうのもいいかもしれません」
「それは……いいね」
「これはいい案かも。すぐに準備します。……あ、ちいちゃん、少し目が覚めかけかな……」
脚にちくりと痛みが走った。
そしてじゅわっと広がる液体の感覚。
わたしはまた、眠りに落ちた。
……。
……。
次に起きたとき、
わたしが見たのは、
小さな部屋の、壁じゅうの安っぽい飾り付けと、
その中央の【ちひろちゃん、十八歳のお誕生日おめでとう】の文字。
大きな照明器具を構える男。
カメラをこちらに向ける男。
その他おおぜいの男たち。
わたしは裸で……、
「じゃ、撮影はじめるから」
と男の一人がいった。
tuduku……