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とりあえず裸足のままひたすら走って逃げたけど、それからどうすればいいかわからなかった。
わたしは隣町の公園にいた。
遊具で遊ぶ小学生くらいの子たちを見ながら思った。
あそこにあるのは日常だ。
わたしとはもう完全に隔たれてしまった、平和な世界。
わたしだって、あんな家庭で育った歪んだ子供だけれど、日々の楽しみはあった。本を読んだり、音楽をきいたり…………だいたい一人でできる趣味だ。
姉のことが近所や学校に知られていたので、学校で普通の人間関係はつくれなかった。たいていの人はそもそも関わってこない。一部のバカにしてくる人は、一度面と向かって言ってやればもう関わってこなくなって、陰口にシフトする。そういうのを見て、威張ってるとか調子乗ってるとか言って絡んでくる不良は、だって威張ってないもんと思って無視しつづけたらやっぱり関わってこなくなる。友達っていうのはできなかった。でもこれは姉や父がどうこうではなくて、わたしから作りにいかなかったからだと思う。それはわたしなんかと友達になった人がかわいそうってどこかで思ってたからで、それって、バカにされるのが嫌とかいっておきながら誰よりも自分が自分をバカにしてるのかもしれない。
ワンワンワンワンワン!
と犬が鳴いた。
ベンチでうつむいていたわたしは顔を上げた。
そこにいたのは、クラスメイトの野田という男子だった。
私服姿で、犬をつないだリードを握っていた。
「ごめん、こいつが」
野田はそれだけいって、顔をそむけた。
前髪が長すぎて、どんな目をしているのか全く見えない。
さらにこの人は、寡黙、というか、喋るのが極端に不器用な人だ。たぶん、今のは、わたしがいるこの場に自分が来てしまったのは犬のせいだ、といいたかったんだと思う。犬はなにが気に入らないのか、わたしに向かって吠えながら突進しようとしてくる。それを野田はぐっと引っ張って制している。柴犬の成犬で力はそれなりにありそうだけど、ひょろひょろした体格の彼はそれでも一応飼い主のようだ。
「野田くん」
と言いかけて、前髪のすきまから覗く彼の目に気づいた。
その視線はすこし下方……わたしの裸足の足を見ていた。
「あ、阿左美さん」
と彼はわたしの名前を呼んで、そして、
「なにか……あったの」
ときいた。
きくんだ、と思った。
クラスではずっと一人で(わたしもだけど)、うまく喋れなくて、そうやって心を開かないせいでいじめられてたような人なのに。
「あったよ」
わたしは答えた。
そして彼をにらんだ。
それを知ったところで、あんたになにができる。
あんたも平和な景色の一部だよ。わたしの世界とは高い壁で隔たれている。
あんたなんかにはなにも――、
……。
「野田くん、家どこ」
わたしの突然の質問に、彼は指で答えた。
公園の柵の向こうの、大きな一軒の家をさしていた。
「あの家?」
野田くんはうなずいた。
すぐさま、わたしは言った。
「ちょっと……借りたいものがある」
*
パソコンの扱いには慣れていた。
家に遊ぶものが一切なく友達もいないわたしは、昔から図書館が居場所というか重要な拠点のひとつで、そこにある本、音楽、パソコンはわたしの世界の三種の神器だったから。
よく考えたら、姉の稼ぎがありながら我が家の暮らしは質素だった。家や家具はぼろぼろで、わたしが掃除して最悪の見栄えだけはどうにか避けてたけど、まずテレビがなかったし、小学生のころはおもちゃもなかったし、かわりに本が好きだったから買ってほしいと一度言ってみたことがあったけど、父は大げさに泣いて謝って買ってくれなかった。
本やネットで調べた常識だけれど、若い女がその体を犠牲にして稼げる月々のお金というのはそんじょそこらのサラリーマンの年収をはるかに超えていて、だからそれで底辺の生活をしてるってことは収入を阻害するなにかがあるということで、それは自身のギャンブル依存を泣いて謝る父の存在なのか、それともその父がやはりそれ以前にも作っていた借金のせいなのか、多分両方だと思うけど、どう考えてもおかしいのはそれだけ金のかからない生活をわたしたちはしていながら食事だけは豪勢だったということだ。
平日休日にかかわらず毎日外食で、それも和食料亭とかうなぎとか、栄養満点のものばかり。
あとは、睡眠。わたしも姉も、睡眠だけはしっかりととるようにいわれていた。あの父がいうには珍しいまともないいつけだったので、何も思わず従っていた。
今ならわかる。父にとって娘の体は、大切な資本だったんだ。
健康であること、発育がいいこと、肌がきれいであること。それが若い女の商品価値を上げるからだ。
……もういい。過去のこととか父のことを考えたって仕方ない。
これからのことが大事だ。
これからは、誰に流されるのでもなく、わたし自身が考えてやるんだ。
そうして運命を変えるんだ。
「ていうか野田くんの家って……」
大型二画面デスクトップパソコンから、黒のスチールデスクに目を移し、壁と一体化した書棚、同じく壁に埋め込まれた大型スクリーン、高すぎる天井と見回す。
ここが野田の自室で、通ってきた廊下、階段、玄関、庭と、なにもかもが大きく、つくりが良かった。単にお金がかかってるだけじゃない。めちゃくちゃ住みやすそうだ。
「お金持ちだね。それもかなりの……」
野田はそれに対して、低い声で「あ」とか「ん」とかいっただけだった。
「お父さん、なにしてる人かきいていい?」
「……税理士」
すごいな……。まぁなにがすごいって、お金を多く稼ぐこともそうなんだけど、それを暮らしに反映できてるってことが。そのまともさが羨ましい。
「とにかく、ちょっと使わせてもらうね。パソコン」
わたしはネットで、わたしみたいなケースの対処法を検索しはじめた。