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アスペルガー京大博士エッセイ集

ノライ様

作者: 小島 剛

 母が生前よく言っていたのだが、「おばあちゃんがねえ、お母さんによく言ったのは、『ノライ様が見たっさる』って言って、悪いことをするんじゃないよっていうことなんだよ。

だからお前も、悪いことをするんじゃないよ」だった。

私が子供のころから言っていたから、ずいぶん長いことこんなことを言っていたのである。




 私が長じて、母に「あの『ノライ様』っていうのは『如来様』がなまったものだよなあ」というと、「そうだろうね」といっていた。

母の実家は、富山県旧山田村という山村にあり、浄土真宗の信仰が盛んな地であった。

近隣の越中砺波瑞泉寺といえば一向一揆の拠点として有名である。

わたしも、富山県に親戚がたくさんいるので、行ったことがあるのだが、家に飾る欄間の木彫を店頭でやっている店が複数あり、非常に興味深かった。

日本の木彫文化には驚嘆すべきものが多いが、砺波の欄間もその一つである。




 さて、母の生涯であるが、母の家は事情があって、家族仲が良くなく、母は学校を卒業すると、すぐに家を出て、石川県、岐阜県の製糸工場などで働いた後、東京都目黒区のクリーニング店に行きつく。

若いころをそこで住み込み店員として過ごし、クリーニング店経営者の親族であった父と知り合い、結婚して、埼玉県中央部に落ち着くことになる。

まさに激動の若年期を過ごしたのであるが、母がよく言っていたのは「お母さんには、学歴はないけどねえ、悪いことはしたことはないんだよ。それが自慢なんだよ」という言葉であった。

その道徳観念の支えとなったのが、母の母の教え、「ノライ様が見たっさる」だったのである。




 さて、私の話になるが、私が博士課程を出るころになると博士論文を書かなければならなくなる(博士課程3年を終えて3年以内に博士論文を提出する義務がある)。

私は、主に環境問題で、一般市民に科学的知識を提供する、京都市内のNGO、国土問題研究会(国土研)に所属し、いわゆる和歌山県日置川殿山ダム水害訴訟を取材することにした。

当時、国土研がかかわっていた案件のうち、最も興味深かったのがその訴訟であり、国土研は被告関西電力と和歌山県がダムの誤操作の結果引き起こした水害のヘドロ害を巡って、ヘドロと農作物への害の因果関係を立証しようとしていたのである。


 この訴訟は、水害そのものが案件となった一次訴訟、ヘドロ害を巡って改めて起こされた二次訴訟からなり、1990年の水害から2005年のヘドロ害訴訟の結審まで実に15年が経過している。

私が調査に入ったのは2004年初めごろで結審寸前。

そのぶん、弁護団、国土研ともに最終準備書面提出に向けて密な議論を行っていたので、調査するにはいいタイミングであった。




 ここで私ははっきり言ってしまうのであるが、一次訴訟被告の電力会社と県は証拠をねつ造しており、被告側証人のダム操作責任者、被告側証人京都大学某名誉教授は偽証をしている。

こうはっきり言うために、すべての証拠・書面・証言記録・陳述書等に目を通したし、それを論理的に400字詰め原稿用紙600枚ほどにまとめた。

それは『科学技術とリスクの社会学』(本名で発表)としてお茶の水書房から刊行されている。




 ともかくも、私が驚嘆したのは、法廷における証拠のねつ造、偽証の類の多さである。

原告側がダム操作者の偽証を示すのはそう難しくはなかったが、なにぶん、原告被災者住民から正規の料金を取らないほぼ手弁当で行われる訴訟だったため、そこにかけるヒト・カネ・時間がなかった。

ダム操作責任者の告訴は見送られた。




 訴訟の結果は原告側の完全敗訴である。

原告側が正しいことを述べ、被告がウソを並べ立てたのに、被告が勝ったのである。

理由は、最高裁事務総局の判事人事権掌握や会同、訴訟操作など、裁判所論的な法曹の病が関係している。

それについても自著で詳述しておいた。

証拠ねつ造、偽証の疑いのあるものは実名で明示してある。

が、ここでは措く。




 ともかくも、私が強い衝撃を覚えたのは、本来「正しさ」を明瞭にする場所であるはずの法廷で、堂々とウソと偽証が行われ、それを上なぞりする裁判官がいるということである。




 現実に、労働基準法や行政手続法、国家賠償責任法等、その十分な機能が疑われる法律は多い。

平気で悪いことをするのが常態というのが今日の社会ではないか?

 したがって教育の場でも、道徳教育がなぜ人を傷つけていけないかを説明できないでいる。

江本勝『水からの伝言』のような何ら科学的根拠のない珍説が堂々と道徳教材として使われる始末で、道徳教材製作者さえもが、道徳の根拠づけができないありさまなのである。

このような学校で、校内暴力、いじめ等が多発するのは当然のことではあるまいか?

 さて、母のノライ様であるが、別に母が聖人のように善に生きたというつもりはない。

しゃべれば近所の人の悪口は言うし、私の障害に関してもずいぶん差別的な言葉を吐いていた。

だが、十分に道徳的に生涯を全うしたし、非人間的な行いをなしこともない。

ノライ様に小市民的な、何ら根拠のない偶像と、冷笑を浴びせる事はたやすい。

だが、ノライ様が母という一人の人を生涯にわたって十分正しく生きさせたとなると、誰がこれをただに嗤えようか?

 現代の学者や法曹家、教育者さえもできていない道徳の根拠づけをいともやすやすとやってのけたノライ様に、私は畏敬の念を覚えるのだが、これは果たしておかしなことなのだろうか。



   母の正しきを導きしノライ様を詠める

   悪に満つ 末法濁世を 生き延びて なお正しきは ノライの心


   『水からの伝言』に思うところを詠める

   「科学ぞ」と 驕り高ぶる 邪しまを かすめ取りたり 『水からの伝言』


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