第92話 烈姫シャールランテ・フォルダリア4
寝椅子に自堕落な姿勢で長まるラハルトーレは見目麗しい美容師数名を侍らせ、髪の手入れや香油をふんだんに用いた按摩に身を委ねている。物憂げな様子。
部屋の隅で焚かれる香を一瞥し、ドルティーバは鼻に皴を寄せた。
(この香り、御禁制の幻惑香か。最高権力者自ら禁を破るようでは処置なしだな)
昨今ラハルトーレは聞香を嗜み、御用商人を奔走させては金に糸目をつけず珍奇な香木を買い求めているらしい。大国フォルドの財政が傾くほどではなかったが、戦時下の浪費ぶりに眉を顰める重臣は多かった。負け戦続きで鬱憤が溜まっておられるのだろうと理解を示す向きもないではなかったが。
「総統陛下。お香も度が過ぎれば毒となりますぞ」
「そなたは薬物の類いに精通しておるのだったな。固い事を申すな。香でも聞かねばやっておれぬのだ。忘我の境地で陶酔するこの瞬間、余は総統のくびきから解放される」
「心中お察し申し上げます」
「ケット・シー族の長老を何人か捕らえたそうだな」
「さすがお耳が早い。お人払いを」
身振りで美容師たちを退室させるラハルトーレ。
「このまま湯浴みさせてもらうぞ」
「香油の薬効成分は皮膚よりじわじわ浸透すると聞きます。性急に洗浄なさらぬがよろしいかと」
「体がべたついて不快なのだ」
ガウンを脱ぎ捨て一糸まとわぬ裸身を晒すと、ドルティーバの視線など意に介す様子もなく猫足浴槽に浸かった。美容施術を嘲笑うかのような瑞々しい肢体。シャールランテの母というよりは、齢の近い姉と言われたほうが納得する者も多いだろう。
「儂もいちおう男なのですが」
「何百年生きておるのか知らんが、そなたは賢者の境地に至っておろう。それとも未だ色欲に未練があるのか」
「仰る通り、女体への執着は枯れ果てて久しいですな」
「サキュバスの長たる余の前でぬけぬけと申すものよ。して、猫長老どもはうたったのか。天空城へ至る門を解錠する秘蹟とやらを」
「知らぬ存ぜぬの一点張りです」
「責め苦が足りぬのではないか。サキュバス族の拷問官を貸してやろう」
「魔法で洗脳済みですので、嘘偽りは申しておらぬかと。おそらくは一家相伝などのかたちで、秘密に触れる者を限定しておるのでしょう」
「おのれ……不忠不義の猫獣人ども。余は連邦総統にしてフォルダリア家の現当主ぞ。我が祖先から管理を託された秘密であろうが。余への開示を拒むとは如何なる料簡か」
「何らかの制約が存在するのでしょうな。それが何かは分かりかねますが」
「口惜しや。天空城に封印されし魔法兵器群さえあれば、ゼラール帝国など物の数ではないものを。なんとか戦況を打開する妙案はないものか」
「帝国で真に恐るべき将帥はアルネ元帥とメーベルト大将軍の二人です。このうちメーベルトは昨年、竜骨山脈遠征中に消息を絶ったという噂があります。現在情報を鋭意分析しておりますが、かなり信憑性が高いと見ております」
「それは朗報だな。強敵が労せずして消えてくれるとはありがたい。この調子でアルネめもぽっくり逝ってくれないものか。聞くところによると、かなり老齢なのであろう」
「記録では先々代皇帝の時代から出仕し、四十年近い軍歴らしいですな」
「奴の寿命が尽きるのを悠長に待つのもよいが、その間我が国がどれほどの損害を被るのか想像もつかん。アルネを排除できんのか」
「戦場で彼奴を討つのは困難ですぞ。イザベル将軍やメルバート将軍ですら返り討ちに遭いましたからな。姫殿下なればあるいは成し遂げるやもしれませんが」
「シャールランテか……確かに将器は非凡なものがある。だがあの子は帝王に向かぬな。臣民に心を寄せすぎる。非情な決断を迫られた時、国家の道を誤るだろう」
「そういうものですか」
「シャールランテは未だ参内致さぬか」
「は。体調がすぐれぬとのことで」
「たかが寵臣一人失ったくらいで見苦しい。そういうところがダメなのだ。かような醜態を晒すようでは余の後継者など務まらぬ。まぁラミルターナを産んでくれたのは僥倖だった。選択肢が多いに越したことはないからな」
「手厳しいですな」
「それよりもアルネの件だ。なんとしても余の代で禍根を取り除いておきたい。暗殺はどうだ。そなたの得意分野であろう」
「得意と評されるのも釈然としませんが。御命令とあらば一計を案じてみましょう」
コリーナからの伝書鳩を受け、夜を日に継いでスレイプニルを駆った。普通の軍馬であればとうに乗り潰していただろう。供回りは親衛隊の選りすぐり三十騎ほど。
「これは……」
絶句。ガイルンの谷の村は跡形もなく焼け落ち、焦げた木材や崩れた石垣が散乱する有り様。所々残り火が燻っているようで、降りしきる雨の中にあってさえ焦げ臭いにおいがたちこめる。
「誰かいないか! コリーナどこだ!」
下乗して人の姿を探し回る。
(モルディス、無事なの)
我が子の名を叫びたい衝動を必死に抑える。その名を口に出す訳にはいかないのだ。
見た範囲に遺体はない。一縷の希望に縋り、親衛隊に生存者の捜索を命じた。
「何奴!」
広場の方で鋭い誰何の声があがった。泥濘を踏みしめ広場に集まる面々。
広場には場違いに瀟洒な円卓と二脚の椅子が置かれ、一人の老人が腰掛けていた。周辺は雨に濡れそぼっていたが、あたかも目に見えぬ天蓋でもあるかのようにその場だけ乾いている。
「そう恐ろしい形相で睨まんでくれ。警戒せずとも吾輩一人じゃよ」
剣を抜いて包囲する親衛隊の猛者たちを見回すと両手を上げ、無抵抗をアピールしてきた。老人は凡そ武人らしからぬ雰囲気だったが、ゼラール帝国の将軍衣を身につけている。立派な肩章や飾緒からしてかなり高位の将帥に思われた。
老人がシャールランテを見て微笑んだ。
「ケット・シーの長老から、お前さんが駆け付けるやもしれぬと聞いての。たいそう美しい御仁と耳にしたので会ってみたくなったのじゃ。――申し遅れた。吾輩の名はアルネ。皇帝陛下より色々な肩書を賜ったが、この場で述べることに意味はあるまい。ただのアルネでご容赦願いたい」
「名にし負う軍神の謦咳に接する機会を得、光栄の至りだ。私はシャールランテ。貴殿同様、総統陛下より多くの肩書を賜っているが、この場ではただのシャールランテとして振る舞わせていただく」
アルネが席を勧めてきた。罠を警戒した親衛隊の者たちが難色を示すも、シャールランテは委細構わず席に着いた。
「お茶は如何かな?」
「さすがに遠慮しておこう。配下の者たちが卒倒しそうな顔をしているのでね」
「是非もない。我等は交戦中の敵国人同士」
「貴殿のような御仁が、如何なる経緯でこの場所に?」
「かいつまんで申すと、この地に吾輩を誘き寄せて害そうという謀略が実行されたのじゃ。罠であることは看破しておったが、巻き添えで滅ぼされるケット・シー族が不憫になっての。退避に少しばかり手を貸してやった訳じゃ」
ラハルトーレやドルティーバの顔が脳裏に浮かんだ。
(母上たちならやりかねないわね)
「そのために単身敵国の領土へ潜入したと? 貴殿ともあろう者がいささか軽率ではないのか」
「優しいのぅ。吾輩の身を案じてくれるか」
「勘違いするな。これまで貴殿の用兵には散々煮え湯を飲まされてきたのだ。戦場で貴殿を討ってこそ雪辱も果たされるというもの。下らぬ謀略などで命を落とされては、貴殿に倒された英霊たちが浮かばれぬではないか」
横に控えるリューネが頻りと頷いている。彼女はエミルの後任として登用した副官で、戦死したイザベル将軍の娘だ。
アルネが愉快そうに笑った。
「世上の人々がお前さんの事を烈姫と恐れ敬うのも頷けるの。――付言すると、ここガイルンの谷は知人の古里でな。見て見ぬふりは出来なかったまでのことじゃよ」
「ほう。ケット・シー族に知己がおられるか」
「うむ。純血ではないらしい。母親がこの里の出と聞いた。気のいい冒険者での。昔頼まれて魔法の手ほどきをしてやったんじゃ。あまり弟子の私事を吹聴するのも如何なものかと思うのでこの辺でやめておくが」
(なんかどこかで聞いたような話ね。例の【魔爪】事件の裏で糸を引いているのはアルネ元帥? ……さすがに穿ち過ぎかしら)
「冒険者に魔法の指導とな。貴殿は魔法にも造詣が深いのか」
「年の功じゃよ」
「貴殿は我々の想定を上回る古狸ということだな。アルネ殿が実は魔法使いだったという新情報を得られたのは有意義だった」
「しもうたわい。調子に乗ってぺらぺら喋り過ぎたかの。どうも美人の前だと饒舌になっていかん」
「さて、私の民を助けていただいたという理解でいいのかな」
「なに、行き掛けの駄賃じゃよ」
「で、ケット・シーたちはいずこに?」
「ルーヤ山脈奥深くにちょうどいい按配の土地があったのでな。そこへ退避してもらった」
シャールランテが副官リューネに目配せ。円卓上に地図が広げられる。
「場所をご教示いただきたい」
老眼鏡を装着し、地図を覗き込むアルネ。
「大雑把な地図じゃな。この辺りなんじゃが。直接案内したほうが早かろう」
怪訝そうに首を傾げるシャールランテ。
「案内していただけるのはありがたいが、かなりの行程になりそうだぞ。帝国軍の重鎮たる貴殿が、いつまでも国許を留守にするわけにもゆくまい」
「心配無用。魔法で一足飛びじゃよ。ほれ」
アルネのフィンガースナップ。途端に足元に出現する謎の魔法陣。
「やはり罠か! 姫殿下をお守りせよ!」
すわと色めき立つ親衛隊士たち。
「下手な芝居を打つような罠など張りゃせんよ」
乱舞する燐光を残しかき消える人々。
「これはもしや転移魔法というやつか……多芸な御仁だ。こんな切り札を隠していたとは」
(この魔法を軍事利用された日には勝ち筋なんて見えなくなるわね……なんてこと。私はこんな化け物相手に今まで戦っていたの)
「長老殿が参られたようじゃぞい」
アルネの視線の先を追うとケット・シーの女が立っていた。杖を突き、左右をケット・シーの童女に支えられている。
「おおおお、姫殿下! お久しゅうございます」
「……もしかしてコリーナ?」
「はい。コリーナでございます。もはや生きて再びお目にかかることは叶わぬと思っておりましたが、図らずもこうして拝謁することができました」
目鼻立ちに若い頃の面影があり、なによりも特徴的なかぎしっぽは往時のままだった。
「あなたも随分齢をとったのね……いえそれより満身創痍じゃないの。今まで何があったの」
久闊を叙すのもそこそこに問い質す。
「この二十年、ガイルンの谷に度々襲撃がありまして。おおかたドルティーバ卿の手の者でしょうが。なに、悉く撃退しております」
「その子たちは?」
「あたしの娘たちです。ほら、サリーナにマリーナ、姫殿下にご挨拶なさい」
「……こにちわひめしゃま」
「こにゅちわです、ひめでんか」
「はい。こんにちは。おーよしよし。二人ともいい子だこと。――まさかコリーナが母親になってるとはね。いえ、考えてみればあなたも四十路にさしかかっているのだもの。子供がいても不自然ではないわね。報告をくれればお祝いを贈ったのに」
「評議員に就任して立て込んでおりましたので。それに、若君のこともございましたし。連絡は差し控えていたのです」
コリーナのほうから言及してきたので思い切って尋ねてみる。
「あの子は元気にしている?」
コリーナの顔が翳った。
「実はその……冒険者になりたいとおおせられまして、成人と同時に里を出奔なされました。申し訳ございません、あたしの監督が行き届かず」
「しようのない子ね」
「密かに里の者数名を付けてありますので、所在地は常に把握しております。ケット・シー流体術を徹底的に仕込みましたので、巷の者にはそうそう後れを取らないと思うのですが。ご要望とあれば、里に連れ戻すよう手配いたします」
しばし考えて首を振るシャールランテ。
「いえ。元気ならいいわ。いずれどこかで巡り合うかもしれないし」
「旧交を温めているところすまんが、吾輩はそろそろお暇させてもらうよ」
アルネが言った。
「どうやら貴殿には大きな借りが出来たようだ」
「恩義に感じることはない。こちらにも打算がある故な。連邦で最も手強いお前さんを、しばしの間戦場から遠ざけることができるからの」
苦笑まじりに問う。
「ガイルンの谷に戻してはくれないのか」
「そこまでサービスはできんな。自力で首都に帰還めされよ。尤もお前さんが帰り着くまでフォルド連邦が存続しているかは神のみぞ知るじゃが」
溜息をつく。
「連邦の滅亡は免れぬか……是非もなし。神の如き力を持つ貴殿が相手ではな。質問をよろしいか」
「答えられる範囲であれば答えて進ぜるが」
「アルネ殿、貴殿はいったい何者なのだ。貴殿のような巨大な力を持つ者が、何故ゼラール帝国に肩入れする。目的は何だ」
「こりゃまた矢継ぎ早の質問じゃのぅ。申し訳ないがいずれも秘密なんじゃよ。――お会いできて楽しかったよ、烈姫殿。さらばじゃ」
転移門が開き、老人の姿がかき消えた。




