第90話 烈姫シャールランテ・フォルダリア2
杣道を進み、会敵したというドワーフ村落へ向かう。剣戟の音や喚声が聞こえてきた。
「いました。敵指揮官は女騎士のようですね。まだ若いようです」
目のいいエミルが先に発見したようだ。女騎士は兜が脱げ、未だ少女らしさの残る美貌が露わになっていた。
「ほう。うら若き女の身で近衛騎士とは。私も武勇にあやかりたいものだ」
「姫殿下はもう十分あやかってますよ」
「ナーヴィンが語っていた、おっかない同僚の女騎士というのはアレの事だと思う?」
「さあ、どうでしょうか」
遠眼鏡で戦場を望み、固まる。舞うような流麗な剣技で連邦兵を斬殺していく女騎士。彼女の周囲には連邦兵の死体が折り重なり、まさに屍山血河の様相。
(なんて美しい剣技……)
「姫殿下、ダメですよ」
心配顔のエミルが念押ししてきた。
「分かっているわ」
(サキュバスの私が見惚れていた? 人間の小娘に魅了された? ……ありえない。あってはならない)
シャールランテは矢を番え、愛用の弓を構えた。
(あの者はここで殺さねばならない。必ず殺す)
女騎士の眉間に狙いを定め、精神を研ぎ澄ます。女騎士がぎろりとこちらを見た。心の水面に細波がたつ。矢が放たれた。微かな精神の乱れで矢が逸れる。山なりの軌道を描いた矢が、逃げ遅れてへたり込むドワーフ少年目がけ飛んでゆく。
(しまった、無辜の子供を――避けろ、避けて!)
女騎士がドワーフ少年を庇って射線上に立ち位置を変えた。彼女の神懸った技量ならば、飛来する矢を払うことなど造作もあるまい。
ドワーフ少年を女騎士の桎梏と見做したか、好機到来とばかり突きかかる連邦の槍兵たち。それらへの対処で針の穴のような隙が生まれた。いくつもの偶然が重なり、矢は女騎士の左眼に突き立った。
「あぁあぁあ――……」
声にならぬ悲鳴。戦闘の邪魔と判じたか、女騎士は歯を食いしばり、矢を引き抜いた。鏃に引っかかった眼球が捥げ落ちる。眼窩からとめどなく滴る血。
「お見事です姫殿下。む、治癒魔法?」
「あの女騎士、魔法も使うのか。ますます生かしてはおけないわね」
ごく初歩的な魔操級のヒールを行使したようだ。完治は望むべくもないが、止血と疼痛緩和の効果はあるだろう。
「街道に敵の増援。およそ二万!」
一瞬の逡巡。が、決断は早い。
「撤退せよ」
帰路、エミルが馬を寄せてきた。
「仕留めそこないましたね」
「あの深手、生き残っても退役じゃないかしら。ともかく二度とあの娘には会いたくないわね」
「珍しいですね、姫殿下がそんな物言いをなさるなんて」
「次に出会ったら問答無用で斬りかかってきそうだわ。もの凄い形相で私を睨んでいたもの」
シャールランテは女騎士の人となりに思いを馳せた。
(あの娘、私がドワーフの子供を的にしたと思って怒ってそうね)
確信はないがそんな気がした。敵同士でなければいい友人になれたかもしれない。
(まぁもう会うこともないでしょう)
シャールランテ・フォルダリアとクッコロ・ネイテール。仮にこの時両雄が一騎打ちに及んでいれば、どちらか或いは双方が斃れ、歴史は大きく変わっていたことだろう。
カルムリッテ平原に大挙して進出してきたゼラール帝国軍五十万を迎え撃つフォルド連邦軍三十万。後に第三次カルムリッテ会戦と呼称されるこの戦いは、戦史を繙いても類例を見ない空前絶後の大規模会戦であった。結果は連邦の惨敗。フォルド領は蚕食され、広大な土地がゼラール帝国の占領するところとなった。
帝都に凱旋したアルネ大将軍はこの功績をもって元帥に叙され、次なる出征に向けて軍備再編に余念がないという。
連邦軍は国境に長大な防衛線を築いて防備を固めていたが、帝都の密偵より皇帝崩御の情報がもたらされ、防衛体制は解除された。大軍を国境に張り付けておくのは費用がかさむという理由らしい。
「践祚したのはベルズ・リセアル皇子という九歳の少年らしいわよ。ベルズ十五世と名乗るんですって」
「なるほど。大貴族たちにはそのほうが御し易いのでしょうね」
「妾腹のクラース皇子とやらと帝位を争っていたらしいけど、期待したほどの内輪揉めにはならなかったみたいね。残念だわ」
「ともあれ帝国も暫くの間は外征どころじゃなくなるでしょうね」
国境の小競り合いこそあったものの、比較的平和な三年が過ぎた。
「帝国の脅威が迫る中、姫殿下を連邦統帥府から外すとは……軍部の重鎮たちは何を考えているのやら」
エミルが憤慨していた。
「おそらく母上の意向でしょうね。私がケット・シー族を重用しているのが気にくわないのだと思うわ」
困惑顔のコリーナ。
「最近の総統陛下は何故ケット・シー族を白眼視なさるのでしょう?」
「ドルティーバ卿があることないこと中傷しているんだろうね。ケット・シー族を追い落とし、奴の子飼いの毒刃衆を後釜に据える魂胆だと思うよ。暗部の実権を握れば、総統陛下とて等閑に付すことはできないからね」
エミルの意見は辛辣だ。彼は既にドルティーバを仮想敵と見做しているようだ。
「ドルティーバ卿……絵に描いたような奸臣ですね。どうしてそのような人物がのさばるようになったのでしょう」
「インキュバス族の追討に功績があったらしい。僕もそれとなく奴の身辺を探らせているけど、なかなか尻尾を掴めないんだ。老獪な爺だよ」
シャールランテがおもむろに言った。
「コリーナは巷で評判の【魔爪】という冒険者を知っている?」
「噂くらいは耳にしたことがございますが……」
一介の冒険者風情がこの件に何の脈絡があるというのか、とでも言いたげな表情。
「【魔爪】なる渾名の冒険者には、昨年たて続けに起きた政府高官殺害事件の主犯ではないかという容疑がかかっている」
「冒険者の仮面を被った暗殺者という訳ですか」
「被害者は皆インキュバス弾圧政策の急先鋒だった。そして【魔爪】はインキュバスとケット・シーの混血らしい。つまりインキュバス族とケット・シー族は結託しているのではないかという疑惑が持ち上がっている」
「そんな! 濡れ衣もいいところです。あたしたちの種族は代々の総統陛下にお仕えし、汚れ仕事を一手に引き受けてきたのに」
「裏を返せば連邦の闇をつぶさに見てきたという事でもあるわ。粛清の動機としては十分ね。ケット・シーの評議員たちに気を付けるよう連絡しておきなさい」
「……しばらく隠れ里で鳴りを潜めるよう進言しておきます。事と次第によっては姫殿下の治世が到来するまで雌伏するのがいいかもしれませんね」
自嘲気味の笑い。
「遠大な計画に水を差すようで悪いけど、私が順当に総統位を継ぐのか雲行きが怪しくなってきたわよ。母上に疎まれているようだし」
「それもこれもあのドルティーバ卿の讒奏と僕は見ております。あの得体の知れない魔法使いが出仕するようになってから、総統陛下の人柄がお変わりあそばされたように思えてなりません」
「まぁ、今干されるのは私的に好都合」
コリーナが首を傾げる。
「ご存念をお伺いしても?」
「たいしたことではないわ。実は懐妊の兆候があってね。産休にお誂え向きかなって」
「なるほど、そういう――って、えええええ? 姫殿下が? 妊娠?」
エミルが窘める。
「コリーナ殿、声が大きい」
「お相手は? 父親はどなたなのですか?」
「エミルの子種をもらったわ。どこの馬の骨とも知れない男よりは気心の知れた相手のほうがいいかと思って。いちおう内密にね」
何でもないことのように宣う。エミルを睨むコリーナ。
「副官殿であれば許容範囲内と言えないこともありませんが……フォルダリア家惣領としては些か軽率じゃありませんか」
「帝国が代替わりのごたごたで大人しくなったから、我々軍人は暇でしょ。サキュバスは暇になると愛を語らうように出来ているのよ。私もサキュバスのはしくれだから、かねがね男女の睦み事には興味津々だったの」
釈明するシャールランテ。エミルはきまり悪そうにそっぽを向いている。
「前に図書館で調べ物をしていたらこんな本を見つけてね。ほら」
コリーナに一冊の本を手渡す。表題にはこうある。
『サキュバス房中術大全』
顰めっ面で頁を捲ってみたコリーナはみるみる赤面し、慌てて本を閉じた。交合の手引書的なもので、あられもない図解が満載だったのだ。ご丁寧に宮廷画家レベルの技巧を凝らした写実絵だったものだから堪らない。
「未婚女子になんてもの見せてくれるんですか!」
「コリーナはお堅いわね」
「ケット・シーとサキュバスじゃあ貞操観念が違うんです」
「ともかく余暇を利用して読み込んでいたら、なんだかそのムラムラしてきてね。その本に記述された技法を実践してみたくなったの。屋敷に男娼を連れ込むのはさすがに外聞が悪いし、口が堅そうなエミルに相手を頼んだ次第よ」
「そしたら命中してしまったということですか……まったく、お楽しみになるのは結構ですが、避妊くらいしてくださいよ」
「最初は気を付けていたのよ。途中からその、本能の赴くまま行為に及んでしまって……」
「姫殿下のご乱行をお諫めするのは副官たるあなたの役目でしょう。何をやっているんですか」
指弾の矛先がエミルに向いた。項垂れるエミル。
「面目次第もない。凡人の僕ごときでは、姫殿下の魅惑に抗うすべはなかったんだ」
「子種を放つ前に、理性を総動員してお道具を抜くなりできなかったんですか」
「無茶言わないでくれ。鍛え抜かれた戦士でもある殿下の腕と脚でがっちり拘束されていた上、耳元で抜かないで中に出してと何度も囁かれるんだぞ。理性など木っ端微塵に決まっているだろ」
赤くなって抗議の声を上げるシャールランテ。
「ちょ――人前で事の詳細を語るのはさすがにどうかと思うわ」
「ももも申し訳ございません姫殿下」
コリーナの額に青筋が浮く。
「エミル殿。そんなもの気分を高揚させるための社交辞令に決まっているでしょう。真に受けて胎内に子種を放つとは何事ですか。愚か者の所業と言わざるを得ません」
見かねたシャールランテが取り成す。
「その辺にしてあげて。いちおうエミルは私の恋人に就任した訳だし」
「就任て……なんだか官職みたいですね」
微妙な顔のエミル。蟀谷をおさえるコリーナ。
「まったくもう、この主従は……出来てしまったものは致し方ございません。今必要なのは善後策です。どうなさるおつもりですか、この後始末」
「せっかく授かった赤ちゃんだもの。普通に産んで育てるわよ」
側近たちと相談した結果、シャールランテの懐妊は連邦政府に報告せず出産まで伏せることで一決した。この頃ラハルトーレとシャールランテの親子関係が冷え込んで廃嫡の噂が絶えなかったため、不測の事態を憂慮しての措置だ。
シャールランテの屋敷ではラハルトーレの息がかかった使用人が多く情報が筒抜けになるので、エミルの実家ポルト家が所有する辺境の別荘に滞在することにした。表向きの口実は陳腐だが病気療養ということにしておく。
エミルやコリーナらの尽力もあり、別荘滞在九ヶ月後シャールランテが出産した。母子ともに健康状態は良好ではあったのだが。
「サキュバスの子は御息女が生まれると聞いておりましたが……どうして御子息が生まれたのでしょうか」
シャールランテも首を捻る。
「私が訊きたいくらいだわ。どこからどう見ても生えてるわね、この子」
「男の子……ということは、このお子様はもしかしてインキュバスということに?」
「そうなるわね」
「どうしてこんなことに……」
シャールランテが推測を述べた。
「私の血が突然変異したか、エミルの先祖にインキュバスの血が入っていて隔世遺伝したか……まぁそんなことはどうでもいいわ。母上にこの子の存在が露見したらまずいことになりそうね」
「姫殿下ごと闇に葬られる恐れがありますね」
「私としてはなんとかこの子の生きる道を模索したい。この子の生存を大前提とすると、今思い浮かぶ方策は三つかしら。一つ、母上を亡き者にして私が総統に立ち、連邦の全権を掌握する。二つ、この子を連れて出奔し、帝国か王国へ亡命する。三つ、あくまでもこの子の存在を隠匿し、こっそりと養育する」
「一つ目と二つ目の道はかなり血を見ることになりそうです。三つ目の道がいちばん穏当に思えます」
コリーナが申し出た。
「僭越ながら、ガイルンの谷にあるあたしの故郷の村で若君を匿いましょう。あたしが姫殿下の御子息として恥ずかしくない教養と武術を仕込んで御覧に入れます」
しばしの瞑目。やがて未練を断ち切るように頷いた。
「コリーナに任せるわ。念のため物心つくまでは女子として育てなさい」
「かしこまりました。お子様の御尊名は如何なさいますか」
「コリーナの養子となるのだもの。あなたが名付けてやって」
首を振るコリーナ。
「命名はお子様との唯一無二の絆。ご生母であられる姫殿下が行使なさるべき神聖な権利であり義務ですよ」
「わかったわ。……この子の名は、モルディスとする」




