第83話 レクスベヒーモス
バールストから退避するや、ウェンティとミリーナは重臣たちへ報告に行った。クッコロは遠慮して子供たちと触れ合うことにする。面倒事から逃げたとも言う。
一心不乱にクッコロの乳頭を貪るメルヴァント。ようやく生えそろってきたアルヴァント譲りの金髪を撫でる。自分の腹を痛めた子ではないが、たまらなく愛おしい。この擬似的な授乳で母性が喚起されているのだろうか。
(もし前世で生き延びてベルズ陛下の御子を授かってたら、こんな気持ちだったのかな)
歴史のイフを妄想するのは心躍るものがあったが、すぐに勤勉な羞恥心が妄想史の打ち消し作業に取りかかる。
(……ないな。皇后とか皇妃って柄じゃなかったし。それにたぶん、近衛騎士の調練で子種宿せる体じゃなくなってたし)
子供の成長は早いと聞く。この子たちがクッコロの事を母と呼ぶようになる日もそう遠い将来ではあるまい。母と呼ばれた時、自分は果たして平静でいられるものやら。
(ところでレクスベヒーモスのほうその後どうなったのかな)
ふと気になってバールスト上空の結界玉と意識リンク。
(都市は無事みたいだね。お、いた)
最初に確認した位置からほとんど動いていないようだ。周辺では、冒険者パーティらしき複数の集団が遠巻きに散開している様子を捉えた。
結界玉を凝視するレクスベヒーモス。
(気付かれた? やたら勘いい魔物だな)
『覗き見とは、あまり高尚な趣味とは言えんな』
脳裏に念話が響いた。
(マジか。大陸公用語喋れるの)
感応の指輪の要領で、思念を同調させてみる。
『この念話はあなた? レクスベヒーモスさん』
『いかにも我である』
隕石招来なる大魔法を操るというし高度な知性を具えているのだろうと考えてはいたが、果たして人語を解するようだ。
『して何用か? 三千年前に締結した貴殿らとの契約は果たしたはず。この上我を束縛するというなら、こちらにも考えがあるぞ』
『? 話が見えないんですけど……』
『はて。貴殿は観星ギルド成員にあらざるや? 貴殿の左腕に刻まれた星核紋は、紛うことなき観星ギルド成員の証と記憶しておるが』
(左腕の星核紋? あ、ホントだ! いつの間にこんなもの)
左腕上膊にうっすらと浮かび上がる謎の紋章。目を凝らしてよく見ると、青の月の観星ギルド施設でよく見かけるものだ。これが件の星核紋とやらなのだろう。
(今の今まで気付かなかったな。思い当たる節と言えば……あの時か)
ハイエルフのランベルと白ローブのヴァレルによる圧迫面接に堪えかね、観星ギルド加入を肯じた時のこと。クッコロの全身がうっすらと発光し、ランベルが何やら意味深な事を言っていた気がする。
『確かにあたしは観星ギルドの者ですけど、新入りなもので三千年前の契約とか仰られても意味分かんないんですよね。引き継ぎも特になかったし』
『彼等らしい開豁さよの』
こうした感想が口をついて出る辺り、レクスベヒーモス氏は観星ギルドの性向にある程度通じていそうだ。
『いったい三千年前に誰とどんな契約交わしたんですか?』
『契約内容はノルトヴァール諸島の魔物島を我が縄張りとし、地下の封龍殿をそれとなく見守ること。期間は観星ギルド成員が魔物島を訪れるまで。契約者は大錬成術師ミューズ・フォン・サークライ殿だな』
(ノルトヴァール諸島の魔物島って確かオータムリヴァ島のことだよね。竜爪団の人たちもそんなこと言ってたし。するってーと、地下の封龍殿ちゅうのはあのダンジョンのこと?)
『昨年貴殿があの島に現れた時点を以て契約は満了し、我は魔物島を退去したのだ。契約は誠実に遺漏なく履行された。実際、三千年間に龍神教団の手の者による侵入の試みを幾度となく撃退しておる。――龍玉を封印より解放したのは貴殿らの手抜かりであろう。契約満了後の出来事ゆえ、我は与り知らぬことだ。今更苦情を言われても困る』
(龍玉って何? ……ま、いいや)
よく分からない事でくよくよ思い詰めても仕方ない。クッコロは訳知り顔で鷹揚に頷いた。念話で身振りが伝わるかは定かでないが。
『契約満了の件は分かりました。そんなことより――』
レクスベヒーモスの思念が苦笑の色をおびた。
『そんなこと、か。龍玉の件は世界の帰趨に関わる大事に思われるが、貴殿らにとっては些細な事なのだろうな。さすがは観星ギルドと言うべきか。さだめし蒙昧な我等の思惑など及ばぬ深遠な意図があるのだろう』
(そんなもんありませんけど)
『そんなことより、バールストの街が大騒ぎになってます。お互いの平穏のために人外境への移動を提案したいんですが』
マルチタスクで手隙の結界玉を急行させ、バールストの冒険者ギルドの様子を探ってみた。案の定蜂の巣をつついたような混乱に陥っている。
『冒険者ギルドが、近隣に滞在中の高ランク冒険者の招集を始めたみたいです』
『人間や亜人が何万人群れようと我にとってはさしたる脅威ではないが……そうさな、神金級冒険者が集まると確かに厄介そうだ。それに……派手に暴れて貴殿ら観星ギルドに目を付けられては敵わん。よかろう。その提案受諾しようではないか』
『おーよかった』
胸をなでおろすクッコロ。さすがに大ボス級の魔物ともなると理知的なようだ。
『人外境――何処に参ろうか。そうさな、久方振りにザガスフィア大洋を泳いで魔大陸にでも行ってみるか。彼の地は冥王めの縄張りがあるゆえ気に食わんが、貴殿らと敵対するよりはマシであろう』
思い立って質問してみた。
『レクスベヒーモスさん。あなたはミューズ・フォン・サークライ様と面識があるんですよね? どんな人でした?』
『我より観星ギルドの同志たる貴殿のほうが、彼女の人となりに詳しいであろうが』
『さっきも言った通りあたし新入りなもんで、先輩方のことあまりよく知らないんですよ』
『なるほどそう言う事か。外見は人間の少女であったぞ。取り立てて特徴は思い出せんな。――そういえば、貴殿によく似た黒髪の娘だったよ。人の美醜は我にはよく分からぬが、周囲の人間は可憐だと褒めちぎっておったな。魔力はまさに魔創神の一柱に相応しいものであった。あまりにも彼我の力が隔絶していて戦うという発想自体論外だが、仮に我が挑んだところで瞬殺されたであろうな』
『さいですか……』
ベルズ十五世の遠い先祖にしてゼラール帝国の建国者、ミューズ・フォン・サークライ。
(どんな人だったのかな。たぶん今もどこかで生きてるんだろうな。会いたいような会いたくないような……)
ミリーナとウェンティを呼んでバールスト再訪を持ちかけた。
「レクスベヒーモスの脅威はなくなったみたいだよ」
「……もしかしてクッコロ様が退治なさったのですか?」
「まさか。情理を尽くして説得したら去ってくれたんだよ」
「なるほど。肉体言語対話されたんですね」
なにやら理解に齟齬があるようだが、気にせず転移した。
危機が去ったバールストの宿屋に降り立つ。目抜き通りでは未だに人々が右往左往していた。レクスベヒーモス退去の情報がまだ周知されていないのだろうか。
ミリーナが冒険者を捉まえて聞き込みをしている。
「郊外の森に現れた大魔獣が海岸のほうに移動したようです。クッコロ様の仰った通りでしたね」
「それにしては騒ぎが収まってないみたいだけど」
「どうやら大魔獣――レクスベヒーモスでしたっけ? それの移動中に鉱滓ダムが損傷を受けたらしく、決壊の恐れがあるらしいです」
(あー……あの図体でそこいらのし歩かれたら、そりゃ環境破壊も起きるか。まして人間のインフラなんかにゃ配慮してくれなさそうだし)
避難を呼びかける役人とそれに詰め寄る住民たちの人だかりが各所にできていた。
「確か鉱滓ダムってさ、選鉱とか製錬の過程で出る重金属とか健康に悪そうな鉱毒堆積してるとこだよね」
「そうらしいですね」
「そんなもん決壊した日にゃ大惨事なんじゃ?」
「城壁で囲われてますからバールストへの直接的な被害は食い止められるかもしれません。ただ周辺の土地は将来にわたって汚染されるでしょうから、人の居住に適さなくなりそうですね」
何事か思案していたウェンティが問うてきた。
「クッコロ様の魔法でダム決壊を何とかすることは可能でしょうか?」
いつものお手盛り結界工法で補強は可能かもしれないが、鉱滓ダムのようなデリケート施設に素人普請で手を加えていいものだろうか。この星には地殻活動があるようなので、地震時慣性力や動水圧も勘案して設計する必要があるだろう。また周辺の水系から遮断する土木工事も必要だ。
(安易に手ェ出すのはやめとこ。――まてよ、ダムの堆積物丸ごと空間収納に仕舞っちゃえばどうだろ。もしくは転移魔法で遠い宇宙空間に投棄してくるとか)
クッコロ的にこちらの方法は造作もない。
「えーと、何とかなりそうかも」
「ではそれを取引材料に、バールストの有力者たちと鉄の商談を進めてみます」
「おー! ウェンティちゃんカッケーす。仕事ができる女商会主って感じ」
「てへへへへ」
褒められてはにかむ姿は年齢相応だった。
鉱滓ダム決壊がいよいよ危惧される段になって、ウェンティが進めていたバールスト商人たちとの交渉が妥結した。
「クッコロ様。出番です」
「あいよ」
メイド服よりはいつもの冒険者装束のほうが謎の強者感を醸し出せるだろうということで着替えた。これも演出だ。
(あらよっと。一丁上がり)
後はウェンティが上手くやるだろう。バールスト行政府から派遣されてきた検分役の人が、空っぽになった鉱滓ダムを見て唖然としていた。余計なことを口走ると馬脚をあらわしそうなので黙っておく。
(あたしはこれで御役御免かね。ウェンティちゃんとミリーナちゃん戻るまで暇だし、ゴミの分別でもしとくか)
空間収納に仕舞った鉱滓ダムのスラグを成分ごとに抽出、仕分けていく。青の月のアカシックレコード先生の演算サポートで最近できるようになった小技だ。
(……もしかして、これでスラグ無害化できるんでない? 今頃気付いたよ。――おろ? ミスリルの含有量ずいぶん高いな)
現地の鉱山技師たちは気付いてないのだろうか。
(ひょっとして手付かずのミスリル鉱脈あるんじゃない? いちおう坑道沿いに魔力波走査かけとくか)
ダルシャール海商同盟に連なるバールスト商人たちは海千山千のやり手が多いらしい。名うての辣腕たちを向こうに回して尚、上首尾で商談を纏めたウェンティはホクホク顔。
「いやーお疲れ様。とりあえず祝杯あげよ」
「私お酒はまだ嗜んだことがなくて」
「あれ? ウェンティちゃん未成年だっけ?」
「いえ、少し前に十五歳になりました。こういうご時世ですから、ごく内輪の成人祝いでしたが」
「へーあたしと一つしか違わないんだ」
驚くウェンティ。
「えええ? クッコロ様そんなにお若かったんですか。すごい魔法使いだから、てっきり先皇陛下みたいに何千年も生きてらっしゃるのかと」
「そんなお婆ちゃんじゃないですー。つうかこの話題やめよ。あの世からアルちゃんの抗議がきそう」
冗談のつもりだったが、俄かに一陣の風が吹き燭台の蝋燭のひとつが揺らめいて消えた。
「……」
「……」
「……そ、そういえばさ、ダムの堆積物成分分析したらけっこうなミスリル検出したんだけど」
「何ですって! 詳しく!」
血相変えてこの話題に食いつくウェンティ。詳細を語って聞かせると食事もそこそこにバールスト商人たちのもとへ出かけて行った。
「仕事熱心なのはいいけど、長時間労働は控えてほしいな。あたしブラック勤務とやりがい搾取って大嫌い」
ミリーナが評した。
「商機を感じたのではありませんか。あの嗅覚は祖父のロラン殿譲りかもしれません」
鉱山への出資を捻じ込んだウェンティが宿屋に戻ったのは、深更のことである。