風鈴
「暑いわねぇ」
「昨日、一昨日と、雨が降ったから湿気がこもってるのね」
涼と流華は、縁側に並んで腰掛けながら揃ってため息を吐いた。氷水を入れた金だらいに仲良く足をつけ、むわっとこもる空気にぼやく。
流華が訪れてから一週間がたった。汚れを好まない彼女はその間に、平屋を隅々までとはいかないが掃除をした。そのおかげか、目立つ汚れはなくなり薄暗かった雰囲気もどこかへと消えさった。
まるで梅雨が明けた夏の空のようにカラッとしている。
が、今の二人を襲っているのはもわっとした湿り気を帯びた空気だ。それは、涼がぼやいたように二日連続雨が降ったせいである。
足を冷やし、団扇で風を送っても熱気はどこにもいかない。二人の額や首筋に玉のような汗がいくつも流れていく。
「ところで、次は誰が来るんだい? そろそろだって言ってたじゃないか」
「あぁ、そういえば。暑さで忘れかけてたわ」
ばしゃばしゃと氷水をかき混ぜながら、自分の横に置いていた箱を引き寄せた。
縦に細長いそれの蓋あけると、薄い布にくるまれた何かが顔を出す。その形で、流華は何が入っているのかがわかったようだ。
「……といことは」
「一番乗りしたがっていたから、きっと頬を膨らませるでしょうね」
くすりと、笑いながらゆっくりとした動作で布をほどき、箱から取り出す。それは、夏空を映しながら澄んだ音を響かせた。
高く遠くまで飛んでいくような美しい音は、それだけでこもる熱を払うようだ。
「夏音のお嬢ちゃんか」
「そう、元気いっぱいの手紙が届いたわ。これと一緒に」
「変わらないみたいだね」
「みんなそう簡単に変わらないでしょう?」
くすくすと笑えば、震えが伝わりチリリと小刻みな音を響かせる。
混じりけのない透明な硝子に、鮮やかに描かれた朝顔。夏空色の花びらがのびのびと描かれ、それを際立たせるように葉と蔓が茂っていた。
舌と呼ばれる音を奏でる小片は、薄い青をしておりその先端には短冊が取り付けられている。
そこには、「夏音」と元気いっぱいの墨文字が記されていた。
「名前まで書いてあるの」
短冊の文字が目に入ったらしい流華がくすくすと笑う。それにつられるように微笑み、涼は頷く。
手を動かせば、舌が縁に打ちチリチリと小さな音を立てた。
「良い音ね」
「風が吹けばもっと美しい音が聞けそうだけど」
そこで言葉を区切り、視線を空へと向ける。綿あめのような白い雲が彼女たちの目の前にあった。
それは動かずに、青い空を白く染め上げている。もしかしたらほんの少しずつ動いているのかもしれない。だが、肉眼ではその動きは全く見えないのだ。
「そろそろ風は吹くでしょう」
「確かに」
微笑みあったその時、チリリンと風鈴が鳴った。同時にふわりと黒髪と朱の艶髪が風に舞う。
「涼ー! いーれーて!」
次いで、元気いっぱいの声が家の外から響いてきた。夏の日差しのように明るい少女のものが。
「噂をすればなんとやらだね」
「みたい。……『いらっしゃい』 夏音」
不思議な響きをもった涼の声が放たれた。それは波紋のように広がっていく。
「おじゃましまーす!」
ふわっと風が吹き、それに乗るようにして一人の少女が庭先に現れる。
青空の目が涼を、そして隣に座る流華を映す。幼くも目鼻立ちがはっきりとした顔に驚愕の色が宿った。
「あたしが一番じゃない!?」
「夏音、久しぶりだね。一番乗りしちゃって悪いねぇ」
「むー! 今回こそ一番だと思ってたのにぃ!」
ばたばたと少女、夏音は空中で地団駄を踏む。動きに合わせて、ふわふわとした金の髪と纏う浴衣がめくり上がりそうになる。
涼は流華と顔を見合わせ、苦笑をした。
「なんでよー!」
「ごめんね。祭り屋台の準備を邪魔しちゃ悪いと思って、早めにきたの」
「いつ?」
「一週間前」
美女と少女の会話を聞きながら、涼は桐箱の中に風鈴を一度しまっておく。これから起こることが予想できるからだ。
金タライから足を引き抜き、ささっとタオルで拭くと数歩ほど下がっておく。
次の瞬間、後ろに倒れそうなほど強い突風が彼女を襲う。咄嗟に、桐箱を胸に抱き庇った。
息を止め、目をぎゅっとつぶる。時がどれくらい経ったかわからないほどの荒々しさは唐突に収まった。
うっすらと目を開き、涼は様子を確認する。
夏音はいつの間にか流華の隣に座っており、ご機嫌である。鼻歌まで歌いだしそうな雰囲気だ。
こちらを見た金の目が大丈夫だと言っているのを何となく感じとり、ゆっくりと二人のもとへ戻った。
「ね、ね、涼。その風鈴綺麗しょ!」
「ええ、すごく綺麗。音も絵柄も」
夏音を真ん中にするようにして座ると、彼女は抱き着いてきた。キラキラと輝く青空の目を向けられる。不機嫌そうな様子はどこかへ飛んでいったらしい。
涼は苦笑しながら頷く。桐箱の中にしまった風鈴は見た目も音も確かに美しいからだ。
「でも、夏音ちゃんが思いっきり風を吹かせると台無しになってしまうけどね」
「う……ごめんなさい」
「暑さが吹っ飛んだからいいじゃないか」
さりげなく注意をすれば、夏音はしょんぼりとしてしまう。それを流華が笑いながらフォローをした。
言われてみればと、涼は思う。
先ほどまであった、まとわりついてくる湿った空気はない。
暑さも少し和らぎ、乾いた空気が満ちている。思わずといったように空を見上げると、綿あめのようだった雲は千切れて四方八方に散らばっていた。
「夏音ちゃんの、居場所を作らないとね」
「そこでいいよ」
そこと指をさしたのは、涼の頭上。正確には、彼女の隣にある柱から出ている太い釘だ。長く伸びているそれは先端が上を向くように曲がっている。風鈴を飾るのにぴったりだ。
「毎年ここだけど、いいの?」
「うん。ここが一番いいの!」
にこにこと笑いながら夏音は風鈴を手に取ると、ふわりと浮きあがり釘へとひっかける。彼女が手を放すと同時に一瞬だけ青い光に包まれた。
それは、涼が瞬きをすると消え去る。
「できたー!」
ふわふわと宙に浮きながら少女は歓声を上げる。
薄緑色の布地に描かれた大輪の朝顔も心なしか鮮やかになったような気がした。
「おいで」
夏音が不意に真面目な表情になった。空のほうを振り返り、まるで何かを手招くような動作をする。それが合図のように緩やかな風が吹き始めた。
強すぎず弱すぎず、それでいて暑さをそっと吹き流してくれる夏の風が。
それに彼女は満足そうにうなずいた。
「涼、これくらいなら大丈夫?」
肩の上で切りそろえられた髪を揺らして振り返る少女に、涼は微笑んで頷く。撫でるような風に、彼女は心地よさそうに吐息を吐いた。
「ありがとう、夏音ちゃん」
「ううん。今年もお世話になるからね」
にこっと満面の笑みを浮かべた夏音は、いそいそと縁側に座るとしゃべり始める。氷水を操りながら流華は相槌をうっていく。
涼は二人の会話を聞きながらも、風鈴の奏でる涼やかな音色にも耳を傾けた。
夏風の化身、夏音。彼女がもたらす心地よい風にまどろみながら、涼は次に来訪するであろう人物と思い出す。
「今度はあの人か。……アレとシロップの材料をしておかないと」
独り言をこぼしながら、涼は一人楽しげに笑った。




