第2話「俺は主人公じゃないのに」
2.
フブキ監督が、その立場を降りる。
監督をやめる...と言ったのか?
直ぐさまストレッチの姿勢を取りやめ、監督に向き直る。
フブキ監督はさっき俺と出会った位置からほとんと動いておらず、自販機の前で立ち尽くしている。
...いや、買ったペプシをその場でぐびぐびと飲んでいる最中だった。
「監督...。それは一体、どういうことですか...?」
「げぼぉっ!...すまん、ゲップじゃ」
「いやいや言葉どおり。ワシは監督をやめる...今大会限りでな」
...それは、何故なんだ。
名誉も栄光も手にした監督がここで手を引くには、あまりにも急だ。
いや、既にその両方を手に入れたからこそ...?
「ここで説明するには、時間が足らん。かと言ってこれを言う機会は他に無かったのじゃ...わかってくれ」
「......。それを俺に伝えて、監督はどうするつもりなんですか」
「空馬に、残って欲しいのじゃ」
「残る...?」
「のちに分かる。この試合が終わったとき、全てを話そう」
微妙に、哀愁のような含みのある笑みを浮かべて、監督はこの話を断ち切った。
続いてゆっくりと、俺の背後に回り込み。
「...話は終わりじゃ。時間が無い、とっとと会場へ向かえ!」
ばしんっ!
瞬間、ややスマッシュの要領で平手を背中に打ち付けられる。
「っはい!」
っこの...。
思うところはあるけれど、やはり今はIHが先決だ。
"やるべきことをやらずして悩むことは何よりの欺瞞である"...と。
これもあの御老人の言葉だ。
俺は監督の、またしてもゲップの音を去り際の耳に掛けながら、インハイ会場ホールの自動ドアへ駆け入った。
ウィーン...ウィーン。
...2重構造である、駆け出しの勢いが殺される...が。
「急がなきゃ」
試合まであと19分。
運良く台が空いていれば、少しラリーが出来るかどうかの時間だ。
...正直ここに来るまでに身体は出来ているけれど、実際に球を打ってみないと不安は残る。
控室からラケット一式だけは持ってきていたので、あとは駆け足で練習会場に向かうだけだ。
ええっと、道順は...。
この真っ直ぐの廊下を突き当たって、売店を抜けて、曲がり角ー...
を曲がる途中、こちらへ走ってくる少女の影が見えたので、俺は後ろ向きにステップし廊下の傍へ捌けた。
俺が気づいた時点で少女との距離は40センチ程度。おそらく、向こうは気付かず角を曲がるところだっただろう。
危ない危ない、こういうときに周りが見えていないと、思わぬ事故に遭うことになる。
自慢と捉えられても仕方が無いが、これが卓球部の動体視力というやつだ。あとコンマ4・5秒でも反応が遅れていたら本当にぶつかっていたところだし、ぶつかって怪我をするのは体格的に向こうの方だろう。
間も無く少女は俺の避けたところを駆け足で抜けて行った...なんて。
これは半分、理想だった。
本当のことを言えば、俺がそれを避けようとした時点で少女と目が合っていた。
俺「...あ」
少女「へ!?」
どってーん。
この機会にもう一度自己紹介しておこう、名前を覚えてもらうためにも。
只今曲がり角で女子中学生とぶつかってしまい...もっというとぶつかったときに少女の胸を触ってしまった気がするし、つまずき転けた少女がなかなか起き上がってこなかったので彼女の服装上、暫し目のやり場に困っている
泉 ケイです。長い。
俺としては完全にその進路をかわした...と思ったのだけれど、なんとその少女は俺の避けた先へ追尾する形で急ターンを開始したのだ。
「174センチ、63キロ。中々良い動体視力してるわね。...にしても、このホールの設計者考えなさ過ぎなんだケド」
ブツブツと何かしらを唱えながら少女はゆっくりと上体を起こした...よかった、無事みたいだ。
紺の制服にスカート。胸の校章に"中"の文字が大きく刻印されているから、おそらく中学生だろう。
しかし頭には指定の服装とは思えない蝶々結びの赤紐がついた、品の良い朱色の帽子を被っている。
「あの、ごめん。...大丈夫?」
俺は恐る恐る、その少女へ手を差し出す。最近の女子中学生は何かと怖いといつかのニュースで見たけれど、この状況は...。
「ん、ありがと。悪いわね、アンタを見くびってた」
少女は怒るでも文句を言うでも無く、素直に俺の手をとって感謝と謝罪?を述べた。
「ふぅん、これは卓球ね。まぁまぁ強いんだ?」
俺のユニフォームやラケット鞄を見てだろうか、女子中学生は俺が卓球部であることを言い当てる。
いや、そもそも今日はこのホールに卓球部しかいないだろうから当たり前ではあるけれど。
「ん?...て言うかそのユニ(フォーム)、ラケット鞄、空馬じゃん」
「ああ、そうだよ。次の試合に出るんだ」
「ふぅん...へぇ。っ...うん、頑張ってね!」
女子中学生は次の言葉を言いかけたみたいだけれど、何かを急いているのか、それを取りやめた。
「ん」「...んっん!」
続いて咳払い...何をしているんだろう。
「ちょっと、退いてもらえるかしら」
気付けば俺のすぐ後ろは、女子トイレだった。
自販機からの道順...少女がこちらへ向かって予想外に急ターンしたこと...少女の様子。
それぞれを思い出せば、全て納得がいく。
「うわ...!ごっ、ごめん」
俺は急いで道を空ける。
それから少女は歩いて俺と並び、何かと焦る気持ちを抑えてか、ややぎこちない笑顔を向けてこう言った。
「先に言っとく、アタシはハル。よろしくね」
言ってから、少女は足早に女子トイレの中へ駆けて行った。
...何故自己紹介を?