ゆきの足跡
明るい空だった。前も見えないほどの豪雪、というと曇り空、なんてイメージのあった私は、視界を荒く通過していく吹雪の向こうの、小さな丸い太陽の眩しさにも驚いた。残念ながら、届いているのは光だけだけど。
ホームから電線、駅舎の屋根まであらゆるものが雪に覆われていて、木やコンクリートの肌の見えるところがない。
ゆきちゃんが子供のように駆けだす。こけるから危ないよ、と思わず言ってしまいそうになるくらいはしゃいだ様子で。裾の余った黒コートが風に翻る。白く塗り込められた世界で小さな黒い影がくるくるとおどっている。
来てよかったでしょ。私は苦笑いを浮かべる。ゆきちゃんの言ったその言葉にはきっと皮肉とか自嘲といった含みなんてないだろう。故郷のすばらしさを教えたげる、と関東から半ば強引に連れて来られ、さらには吹雪に襲われるというこの状況。来てよかったなんて、むしろ私のほうから言ってやりたいくらいだったのに。
私とゆきちゃんは大学で出会った。
小動物のような忙しない動きといい、とことことした歩き方といい、だけどいつもぼうとっした表情といい、同じサークル内でも彼女はけっこう周りから浮かんで見えていたため、私がなんとなく彼女を注目し始めるのにのにそう時間はかからなかった。そして、ゆきちゃんのまとうふわふわとした空気はあっという間に私を取り込んだ。
はるばる北海道からやってきたことを聞いて、どうして、と理由を尋ねると、ゆきちゃんは「独り立ちがしたかったから」と答えた。四人兄弟の末っ子、上は男ばかりということもあって、大変に可愛がられ甘やかされて育ち、自分でもなにか、危機感や焦燥に似た自立心が芽生えたという。とにかく形だけでも独りになりたかった、気持ちとかそういうのはきっと後からついてくるだろうから、と。
とはいえ、おせじにもゆきちゃんは、りっぱに独り立ちが出来ているとは言えなかった。講義には遅れるし、電車はよく逃すし、レポートの提出日は忘れるし……。それでも周りの助けがあってどうにか生きのびている、そんな感じだったから、もしも私たちがいなくなったらこの子は大丈夫かしらとけっこう深刻に思う。だけどそんなことは起きないだろう。一人では生きていけないけど、必ず誰かが面倒を見てくれる、そんな雰囲気がゆきちゃんにはあった。家族がどうしても甘やかしてしまったのも分かる気がする。
「寒くなってきたねえ」「そうだねえ」ある日、大学近くの某カフェテリアの、暖かい日がやんわりと射しこむ窓際テーブルでされたこの一連の会話から、ゆきちゃんは「よし北海道に行こう、わたしの故郷」と言い出した。あまりの脈絡のなさに私は呆気にとられていたし、彼女が本気であることを知るはずもなかった。気が付いたら列車に揺られて窓の外の吹き荒ぶ豪雪を眺めていた。こんな次第である。
されるがままの私も私だったけれど、そもそもいつもぼんやりとした顔でどこを見てるのか分からないゆきちゃんがこのときとばかりに、彼女の一生分を絞り出したくらいの機敏さと行動力を使ったことは不思議だ。
駅の構内に入っても、身を切るような冷気はいまだ身を包んでいる。きっとこの雪国から出ない限り逃れられることはないのだろう。ゆきちゃんの家に、こたつはあるのかなあ。
私は時計を見た。五時を指している。
「えっと、タクシーだっけ?」
「ううん、お母さんが迎えに来てくれる」とゆきちゃんは言って、「やっぱり暑いよ、これ」と私が無理やり羽織らせたコートを脱ぐ。信じられないことに、その白い頬にはじんわりと汗がにじんでいる。
本当は中で待っていたかったが、ゆきちゃんがどうしてもというから、私たちは階段を下りてわざわざ外で彼女の母の車を待った。吹雪が止んできていたのが幸いだった。
駅から出るとそこは、畑ばかりの土地にぽつんとあるバス停のような寂しいところだった。見晴らしは良いがあいにく雪のために遠くはかすんでいる。
とにかく寒いと思った。吹雪は止んでくれたが吐く息が白いことに変わりはなく、私はあと二枚くらい厚着してくればよかったと思った。
ぼすっ、という音とともに、背中に軽い衝撃。振り向くとゆきちゃんがにやにやと身構えていて、案の定というかその両手には雪玉が握られている。小さな素手に持てるぎりぎりまで大きな雪玉だ。
「ゆきちゃんまじですか」
「ふへへ」
私より二枚も三枚も薄着のはずなのにゆきちゃんはずっと元気だ。それも東京にいたときよりも。故郷の雪が彼女に影響を与えていると考えずにはいられなかった。肌がむき出しの顔に当たったら悲惨だととっさに判断し、止める間もなく飛んでくる雪を腕で受け止めた。
やがて地平線まで続いてそうな道路の向こうに一つの光が現れ、しだいにそれはヘッドランプとなって私たちに近づいてきた。
車は私たちの前に止まった。運転席の窓が下がり、男の顔がひょこっと現れる。
「ゆき」
「にい!」
ゆきちゃんは駆け出して外から男の顔を抱きしめた。「お母さんは?」「ご飯作ってる」彼は苦しい苦しいと言ってゆきちゃんの手を離し、そしてこちらを見た。
「えーと、京子ちゃんでしたっけ」
「あ、はい」私は言った。「えっとあの、ほんとにいきなりで。すみませんなんか」
「いえいえ」とお兄さんは笑った。「話はゆきから聞いてます。一度北海道に訪れてみたかったんだって? 歓迎しますよ」
あれっ。そういうことを言った覚えはないんだがな。ゆきちゃんは私が来ることをご家族にどう伝えているのだろう。
私とゆきちゃんの二人は後部座席に座った。車の中は暖房がきいていて暖かい。運転席に乗っていたのはお母さんでなく上のほうのお兄さんだった。がっちりとした体格に温厚そうな顔。眼鏡をかけている。
車はくぐもった音を立てて動き出した。対向車のない、畑に挟まれた果てしない一本道を走る。
「東京から陸路ですよね」
「はい。それはもう疲れましたね。寝台列車で20時間……」
初対面の私にも親しげに話しかけてくれるので、こちらも朗らかに返す。敬語ではあったがお兄さんの言葉にはなんとなく方言の感じがあった。
うわー、というゆきちゃんの歓声に私の声は遮られる。ゆきちゃんは車が発進してからずっと犬のように窓の向こうを眺めていた。
私も横を向いてみる。雪が止み、外の、ただ真っ白で平坦な光景が露わになっていた。不思議と電車から見た銀世界、と呼べるようなきらびやかさはなくて、ただあらゆるものを塗り潰してしまいそうな純粋で重たい白の塊が道路を囲んだガードレールの先の空間を満たしていた。
「でもゆきちゃん、きみは飽きるほど見てきたんじゃないの」
「懐かしいんだよ。二年ぶりだもん」
ときどきぴぴっと窓に水滴がつく。中から音は聞こえないが風はまだあるみたいだ。外の景色に、私は美しいとかよりもとにかく寒いな北海道、という感想を素直に覚えたのだった。
やがて車はいかにも北海道といったような四角ですっきりとした形の民家の前に止まった。屋根に積もった雪からは小さな煙突が顔を出している。
車を出ると、やはり身のすくむような冷気が全身を包む。こんな地で平気に過ごしている彼らはどんなにか丈夫なんだろうと改めて思う。
ただいまあ、とゆきちゃんが元気よく戸を開けるとお母さんらしき人が出てきた。髪をしばり、なんとなくきびきびとしていて寒さに引きしまった感じのする女性だった。
「おやまあようこそ。わざわざこんな季節にねえ。なにもないとこだけど、ゆっくりしてってね」
「いえいえ、三日間ほどお世話になります」
と軽く挨拶を交わし中に入る。
車のときにも感じたことだが、外に比べて家の中は驚くほど暖かった。
木造の床、台所からの音と匂い、至るところに設置されたストーブ、古びたガラスの向こうに見える紺色の雪景色。それら諸々、外の寒さへの工夫みたいなものが、関東のマンションにはない芯から温めるようなほっこりした熱で家じゅうの空気を満たしていた。こたつはなかったけれど別に必要とも感じなかった。
とりあえず夕食をみんなで作って、やがてもう一人のお兄さんやお父さんやお祖父さんが帰って来て家の中はにわかに騒がしくなった。みんな色んなものを買って来てくれていたため、シチューにお寿司にズワイガニにじゃがいもと次々並べられた食卓はあっという間にいっぱいになった。
とにかくこの日の夜は、初めて北海道を訪れた私と二年ぶりの帰郷を果たしたゆきちゃんを囲む会だった。前が見えなくなるくらいの料理を出されまさに手当たり次第に頬張りながら雨のように降り注ぐ質問にもぐもぐ答えていく。ゆきちゃんもそんな感じだった。
翌日の昼になると、たくさんいた家の人はみんなではらい、ゆきちゃんとゆきちゃんのお母さんとわたしだけが残された。お母さんはけっこう忙しそうに家事をしていたけれど、私が手伝いましょうかというと客人に働かせるわけにはいかないとするりと断られた。そしてあまりにゆきちゃんがのんびりとしているので、一体いつどこに行く予定なのか尋ねてみると、返答は「考えてなかった」だった。私は呆れてものが言えなかった。はるばる関東からやって来てなにもせずに帰る北海道旅行があるだろうか? ゆきちゃんは一体なんのために私を連れてきたというのだ。
「そうだねえ、じゃあ、外に出ようか」ゆきちゃんはそう言った。
「寒いよ」
「だからだよ」とゆきちゃんは無理やり引っ張っていやがる私を静かな極寒の世界に放り出した。
開かれた視界には本当に、雪以外の何もないのだった。人が生きる上で必要なもの、それ以外の余計なものは一切取り除かれた空間だった。そこにあるのは厳しい自然とそれに対する人々の工夫だけで、娯楽的なものは見当たらない。
それでも、雪だるま、でっかいのを作ったほうが勝ち、と勝手に言って一人で作り始めているゆきちゃんはこんな世界でも楽しく生きている。厳しい自然を、むしろ友好的なものとして接している。私にもできるだろうか。そんなことが。
「ねえゆきちゃん」
「なに?」
「競争するよりもさ、二人でおっきいの作ってみない?」
それは名案だ、といわんばかりにゆきちゃんの顔が輝いた。
「わあ、すごいじゃない」
ちょうど創作が終了した頃にお母さんが外に出てきて、私たちの背丈くらいある完成品を見て驚きの声を上げた。
「写真撮ろう、写真」
カメラを持ち出して来て、私たちを横に並ばせて記念撮影なんて久しぶりと嬉々な表情でぱしゃり。小学生に帰った気分がした。
家の中に入ると暑くて仕方がなく、シャツとその上だけの服装で居間に寝転ぶ。そのまま眠ってしまいそうだった。
お兄さんが帰ってきて、お菓子を買ってきていたので四人で食べた。気付けば夕焼けの時刻で古窓から差した夕日が部屋をピンク色に染めていた。
座布団に座って四人でもくもくとチョコレートを食べているなか、ゆきちゃんが言った。
「あんねえ。わたし、好きな人ができたんです」
ぽつりと。
「へえ。ゆきにも、ついにねえ」お母さんが言った。
「初めてじゃないだろ。小学校のときにも、一人いたじゃん確か」
「小学校と一緒にしないでよ」とゆきちゃんは赤い顔をしている。
なるほど、と私は納得していた。
ゆきちゃんが私を口実にしてまで故郷に帰りたがっていたわけが、単なるホームシックでないことが分かったからだ。
人を好きになるというのは彼女にとって一大イベントで、だけど頼りの家族はいなくて、なんとなく前に進めなくなっていたのだろう。だけど、東京へ行くというのは自分で決めたことだったから、自分の理由で帰るのは意地みたいなものが許さなかった。だから私も連れてきた。らしいと言えば、すごく彼女らしい思考だと思う。
(がんばるよ。がんばるけど、あとちょっとだけ。)そんなゆきちゃんの声が聞こえてきそうだった。
それにしても、と少しさみしくなる。全然気付かなかった。好きな人ってどんな人だろう? 私には全然話してくれなかったことはやっぱり悲しいかもしれない。
だけどゆきちゃんとゆきちゃんを取り巻く家族との繋がりの強さだけは分かった気がする。私の入る隙間なんてないくらいにきっちりと柵で囲まれていて、だけど中の空間は意外とゆったりしていて、楽に寝転べる、そんな感じ。
二人にあれこれ突っ込まれ、うんうんとただうなずいているだけのゆきちゃんはだけど、ほっと安心しているように見えた。
次の日の朝、私たちは特急寝台列車に乗ってばたばたと北海道を離れた。名残惜しむなんて暇はなかったけれど、駅へ向かう車から見た二度目の雪景色は最初に見たときよりも優しくてきれいだった。日光が反射して光っているとかそういうことに気が付いて、気が付くだけの余裕と慣れと親しみができていることにも気付いて、わずかながらこの三日間に自分にも変化が訪れていることに嬉しくなった。
見送られるときにもゆきちゃんは泣いたりしなかった。ただにこにこと笑って手を振っていた。甘えるのはこれが最後、と北海道に来る前に決めていたのだろうか。
そして東京に着いて一週間が経った。それからは一度も会っていない、というのは色々と年末の行事が重なって私自身忙しくしていたからだ。休みが明けたら、学部は違うけれどサークルできっと会うから、そのときにどうなったか聞こうと思っていた。
それからさらに一週間が経ち、大学に行くとやっぱりゆきちゃんはとことこと忙しなく歩いていて、いつものゆきちゃんだった。
「こういうのはタイミングが大事だと思うんだよ」とゆきちゃんは言った。
「ふんふん」
「だからね」
「うん」
「今日言おうと思う」
ずるっと椅子から滑り落ちそうになった。確かに、一度決めたら即座にやろうとするのはゆきちゃんらしいとは思うけれど。
「急がば進めだよ」
「それはえーとなに、座右の銘?」
「そうそれ」
とにかくほんとに今日、するつもりらしい。
そして私はサークルの部屋でほかのメンバーと適当に喋っていたが、どうも帰りが遅い。
ちょっと心配になってきて、
「そういえば○○君って彼女いたりするのかな?」と切り出してみる。「狙ってんの」なんて言われるのは当たり前なので「そういうわけじゃないけど」と軽く流す。
すると一人の女の子が、
「ああ、あの人、こないだの休みのとき駅の映画館で出会ったよ。女の子と一緒だった」
あちゃあ、と内心で顔を覆う。ゆきちゃんはいまどこにいるんだろう? ここに来ないってことは、家に帰ってるのかな。
とにかく会いに行かなきゃ、と私は思った。
「ごめん、私ちょっと帰るね」
泣き寝入りかよ、元気出せ、と的外れな慰めを背中に浴びながら部屋を後にし、大学を走り出た。
某区の片隅に位置する安アパートに、切らした息で到着する。かんかんと階段を駆け、ゆきちゃんの借りている109号室のインターホンを押す。出ない。
おじゃまします、と戸を開けるとすぐ目の前にゆきちゃんがしゃがみこんでいたのでびっくりする。
「大丈夫、ゆきちゃん」
と声をかけ、すぐ傍の玄関先に大きなダンボール箱が一つ置いてあることに気付く。開封され、中にはチョコレートがいっぱい詰まっている。
「京子ちゃん。わたしね、」ゆきちゃんが言った。「ふられちゃったよ」いつも高い声はかすれていて、だけど顔は笑っていて。
ゆきちゃんが片手に持っているのは一枚の写真で、見るとこないだの、巨大雪だるまと汗だくの私たちが写っていた。