春乃透子の努力。
色々なご感想、ご意見ありがとうございます。
一つ、この話のせいで誤解が生まれてしまったかも、というご意見を頂きましたので。
あんな馬鹿騒ぎを起こさなくても、婚約破棄による慰謝料などは確実に宮成貴一に請求されていました。その時点で、沙希が付き合っていたという証拠があれば、沙希にも請求されます。これは、婚約破棄の方法には一切関わりの無い権利です。
この騒ぎが無ければ二人は普通に恋愛して幸せだったのでは、と誤解を招いてしまったようで、申し訳ありません。
「姉さん。父さん達の方も、後は書面にするだけって状況らしいよ。」
璃玖が合図をくれた。
璃玖が手を顔の横に上げて、自分の薄い端末をヒラヒラと揺すっている。
璃玖はずっと、彰子姉様や、宮成の家にお邪魔している父と連絡を取り合ってくれていました。
私自身がすることが出来れば良かったのでしょうが、生憎と携帯電話というものに触れたこともありませんでしたので、壊してしまったらと思うと怖くて。
人との連絡や付き合いは、秘書や使用人、夫を通してすればよいのだ、と今まで自分の携帯というものを持ったことがありませんでした。それを伝えたところ、明日にでも私の携帯を買いに行こうと、とても呆れた様子で璃玖が誘ってくれました。私も使いこなせるようになろうと思うと共に、璃玖と買い物に出掛けることも、今から楽しみでなりません。
買い物など行く暇があれば一つでも仕来りや作法を覚えたらどう、と不甲斐ない私は叱責されてばかりでしたから。
親しい友達などいない身ですから、しばらくは父や弟、彰子姉様くらいしか名前は並ぶ事はないでしょうが、今まで出来なかった事に挑戦したり、外に出かけていったりして、増やして行きたいな、と今から夢見ています。
そして、携帯を持っていない方の璃玖の手にも、ある機械が握られていました。ずっと、その手の中に隠すように持った機械で、この会場に入った時からのやり取りの全てを録音してくれていたのです。
此処までの状況ならば別に録音など無くても大丈夫だろうけど、あとで駄々を捏ねられても困るし、あったらあったで使い道は一杯あるから。
彰子姉様がそう言って用意してくれたそれは、広範囲の音を集めることが出来る上に、かなり音の質もいいのだそうです。彰子姉様の愛用品。
壊したら怖い、と璃玖が受け取る時に怯えてみせるという冗談が、とても面白かった。
もう一つ。証拠として使えるのが映像だそうです。
それに関しては、私や璃玖が機械を持って周囲を撮らなくても大丈夫でした。
この会場の映像は学園側が毎年、保護者の子供達の晴れ姿を見たいという要望に応えて、あらゆる角度から誰一人、映らなかったという事のないように撮影されています。
今年の担当は、璃玖の担当である秋月先生。彰子姉様が学園に在籍していた時、姉様の担任だった事もあるという秋月先生が、撮影を途中で止めることは絶対にしない、と約束して下さったそうなので、必要な場合は学園側に提供をお願いすることになっているそうです。
璃玖の手の中にあるボイスレコーダー。
会場のあちらこちらで光を反射しているカメラ。
これは、私が蒔く"毒"が大きく育つ為に必要なもの。
すでに予約を受け付け、多くの保護者の皆様の手に渡ることが決定的である映像が、彼を、彼女を、彼と彼女を祝福した方々を、苦しめてくれるそうです。
それらを一瞥して、私は息を大きく吸い込みました。
「では、これで私達の婚約は、正式に、解消されたということですね。」
正式に、という言葉に力を入れる。
宮成様が行った発表は正式なものではなかった、ということを
「こうして終わってみると、不甲斐ない私が宮成家にどれだけ不適切な存在だったのか、しみじみと心穏やかに思い返すことが出来ます。」
たった数分しか経っていないというのに、この心変わりはなんともおかしいものですね。
「ふんっ。もっと早くに気づくべきだったな。お前がどれだけ苦労しただの、頑張っただの、鬱陶しい言葉を吐こうが、実力の伴わない人間など成宮の嫁に相応しいわけがない。」
その言葉を聞くのは、これで何度目でしょうか。
実力を伴わない女とは口を聞きたくもない、この言葉を受けることになるのもこれが最後かと思うと、辛くて仕方なかった言葉でも何だか嬉しく感じるものですね。
「えぇ、本当に私は何をやっても駄目で、清花刀自や貴方、宮成の御縁戚の方々をイラつかせてばかりでした。」
貴方が今まで、宮成家で行ってきた努力の全てが、最高に美味しい"毒"になるのよ。
もちろん、食するのは私達じゃない。
"毒"を呑み込むのは、宮成家であり、宮成家の嫁になると確定した川添沙希。あぁ、そして、貴女より彼女の方が宮成貴一の隣に相応しいと囀った人達ね。
貴女はただ、自分がしてきた努力をを語ればいいわ。
それを"毒"と知らずに料理してくれるのは、俺様何様で何を言い出すのかとっても分かりやすい宮成貴一であり、仕上げの飾りつけは璃玖。
"毒"はジワジワと彼らを追い詰めていくわ。これだけの大騒ぎ、人々がすぐに忘れる訳がない。一度忘れたと思っても、ほんの小さな切っ掛けで甦る。例えば、結婚とか?良家、名家の間で執り行われる結婚で、相手に出身校を言わないなんて事、ありえない。しかも、此処は令息令嬢御用達の名門校ですもの。普通なら声高々に誇るものだわ。年齢と怜泉学園出身とくれば、親族の誰か一人かは、親しいお付き合いのある誰かが、あぁあの騒ぎの、って気づいて皆が思い出す。あなた、あそこに参加していたのねって。
特に、名家だの良家だのと、自分の血筋や家柄を軽々と口にしてしまうような人達はね。他人の揚げ足を取るのがとってもお好きなのよ、暇だから。一度、思い出されてしまえば、"毒"は活動を開始する。
彰子姉様は、私の努力が"毒"になると言った。
その説明を受けて、一応は理解することが出来たそれだけど、でも…まだ納得しきれていない部分がある。
大丈夫、大丈夫。
彰子姉様だけじゃなくて、璃玖まで「多分、大丈夫だよ」と、苦笑を浮かべていた。
説明していたら河豚が食べたくなったわ、と今度一緒に美味しい河豚を食べに行こうと言って下さった。
二人が私に勇気をくれる。
だから、納得しきれない部分がまだあるとしても、私は自信を持って口を開く事が出来る。
「お茶やお花、清花刀自御自身からの指導を頂きながら、最後の最後まで、ご満足頂けることはありませんでした。」
「あぁ、全くだな。お祖母様が物覚えが悪過ぎると怒っておられた。その点、茶道も華道も、沙希は筋が良いと褒めて下さったな。」
「もう、止めてよ、貴一君。私のなんて、小さな頃に近所の方に教えて頂いただけのものよ。お祖母様が気を使って下さっただけよ。」
宮成様。
ちゃんとお付き合い下さって、ありがとうございます。
「まぁ、本当ですか。じゃあ、川添様は別邸に保管されている宮成家が代々集め、大切に受け継いできた、千点を越える茶器などの茶道具、掛け軸などの古美術の名前から、その由来、使い方や手入れの方法まで、もう覚えてしまわれたのですね!?」
まぁ、凄い。やっぱり、私など駄目ですわね。
何の悪意もないように、ただ無邪気に称賛を口にしているのだと、指先一つにまで意識を配して、演じます。
「えっ?」
「宮成の嫁たるもの、何時でも、どんな時でも家を適切に飾り立てることが出来るようにと、所有してる全てのものを把握しなくてはならない、と言われましたのに、私は全て覚え切ることが出来ませんでした。」
あれは本当に大変でした。
扱いも丁重にしなくてはならない古美術の品々を、一つ、一つ、箱から取り出して確認し、戻していくという作業。
宮成の屋敷の敷地内にある、今は特別な時にだけしか使われない建屋の中で、嫁の仕事なのだとたった一人、不備一つないようにと言われてした作業。
「これを終わらせない限りは一年の締めくくりも出来ない、と年の暮れに宮成家の嫁として一人で行うあれは、本当に辛くて、寂しくて、何よりも寒くて、震える手がうっかりと貴重な茶器たちを落としてしまわないかと緊張して。」
怖かった、と体が震えるのは演技ではなく、本当に何度か落としてしまいそうになった瞬間を思い出すと自然とそうなってしまうのです。
「きっと、生徒会室のお花をよく変えていらっしゃった川添様なら、100を越える花器を完璧に使いこなして、宮成家の屋敷中、全ての部屋、一部屋一部屋に、気温や部屋をお使いになる方の立場や気分などを考慮することも難しいなどと思いもしないのでしょうね。」
羨ましい、と苦笑を浮かべる。
「宮成の嫁たるもの、取り引きのある海外の方が訪ねていらっしゃっても不快な思いをさせないように、と外国語の講師までつけて頂きましたが、なかなか上達もせず。」
「英語と中国語の授業でも成績が優秀な沙希なら、安心して任せられるというものだ。」
「海外の方とお話するのって、色々と発見があって楽しいんだもの。下手の横好きが高じた、趣味みたいなものだよ。」
「本当に、講師の方々の困った顔を見ていたら、自分の頭の悪さが心苦しかったですわ。アメリカ英語、イギリス英語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、中国語。あとは、ポルトガル語やアラビア語も覚えなくてはいけないのに、私の出来があまりにも悪い為に講師の方をお招きすることも難しいと、清花刀自に呆れられてしまっていたところでした。私も、川添様のように楽しみを覚えれば良かったのですね。」
ある程度までは順調にいくのですが、それぞれで微妙に違う発音や、経済用語、商業用語などの専門的な単語などが、聞き慣れないせいか覚え難かった。
「おもてなしをする相手に、求められる時、何処であろうと、すぐにでも楽しんで頂けるように、とピアノやヴァイオリン、フルート、琴を嗜むようにと言われましたが、中々、清花刀自の仰るレベルにまで達することは出来ませんでした。」
「お祖母様は、沙希のピアノを心地よいと気に入っていたよ。幼い頃から努力を怠らずに、コンクールに出たこともある腕前だからな。お前とは違って、当たり前だろうが。」
「そんな。本当に小さなコンクールなだけだよ。」
「謙遜するね、沙希。まぁ、そういう所も可愛いんだが。」
彰子姉様の予想通りです。
まず、此処まで言えば女生徒達がザワめきだす、と。
その通り、女生徒達がなにやらザワザワと、近くに居る誰かに話しかけたりしていますね。
「節折々の行事の仕来りも覚えるだけでも大変でした。手順一つ間違っては、ご先祖様に失礼にあたると注意されたのは、本当に心苦しかったです。」
「行事…お盆、とかのこと?じゃあ、私は大丈夫。そういうのも好きだし、得意だもの。」
胡瓜や茄子で乗り物を作って差し上げるのよね、と川添様が笑う。
えぇ、その通りです。
ただ、やはり名家と呼ばれる宮成家ですから、お一人お一人用にとお作りして全てで60は越えたかしら。
もしかしたら、お盆が大変さでは一番かも知れません。本当に大変でした。
他の行事などは、辛くとも何だか一つ一つの動作や秘められた意味が面白くて、楽しむことが出来ました。緊張感が足りない、とそんな様子を見せれば怒られてしまいましたから、笑みが漏れ出すのを我慢しなくてはいけませんでしたが。
毎朝、お茶にご飯をお供えして。
事細かな決まりごとを守りながら、送り火から迎え火まで、ご先祖様方が気分よく御滞在して頂けるように
、お仕えなさいと言われました。
「お盆は本当に大変でした。清花刀自が一度しか教えて下さらない仕来りなどをちゃんとその通りにしなくてはいけなくて、何度も何度も、間違いを犯してしまいました。ご先祖様お一人、お一人のお名前をお呼びしながら御位牌を移動させて準備を整えたり、様々な場所に点在している全てのお墓に参って。ある古い方ですと山の奥深くに存在していて、その方だけは清花刀自が言うには月命日のお参りも欠かすことは許されていない、と宮成家の嫁として毎月お参りさせて頂いておりました。」
でも、川添様は得意でいらっしゃるのなら、きっと何の不備もなく、宮成のご先祖様方も満足して頂けることでしょう。
伝統を守っている宮成家には、春乃家にはない仕来りや儀式が月に一度は何かしらのものがありましたから、そういうものがお好きなら、きっと楽しむことが出来るでしょう。
「重要なお客様を屋敷でもてなす時、完璧に満足して、長くに渡ってお付き合いの出来る良好な関係になれるように、宮成の嫁は全てを完璧に采配してのけなくてはいけない、と料理から掃除、マナー、外国の方ならば知っておかねば失礼にあたる、と様々な国や宗教のマナーやタブーも学びました。素材一つ一つの選び方から教えて頂いて、何度も清花刀自のご要望の料理にも挑戦しましたが…、結局、清花刀自や貴方が口にして頂けることは一度もありませんでした。本当に、それは少し心残りです。」
「何をやらせても不完全なお前の作ったものなど、口に出来るわけがないだろう。」
鼻で笑われて言われた言葉に、もう傷ついたりしません。
さすがに、清花刀自に机の上に並べた料理を全て床に落とされてしまった直後は、悲しくて悲しくて、どうしようもなかったのですが。
人の手を借りるな、と言われて一から作ったコンソメスープが一番、悔しかったかも知れません。あれは、私では会心の出来だと思っていたので。
「まぁ、沙希が毎日作ってきてくれるお弁当に比べたら、お前の料理だけでなく誰の作った料理であろうと、全ての味が色あせて感じるがな。」
「あ、あんなの、ただ本を読んでいれば簡単に出来ちゃうようなものばかりだよ。きっと、春乃さんが作ったものの方が手も込んで料理だったんでしょう?」
「ふんっ。どうだかな。」
お弁当ですか。
習い事をしたりしていた時間も余るようになりますし、お父様や璃玖のお弁当を作ってみるのも、楽しそうですね。最近流行りだというキャラ弁というものに挑戦したら、二人は嫌がるかしら。
「何より一番、心苦しく、悔やむのは、一番大切なことだと言われた事が最後の最後まで完璧に覚えることが出来なかったことでしょうか。」
あれ程見るのも嫌だった、二人のいちゃつく姿もスルーしてしまえるくらい、今の私の心は晴れ渡っています。
「宮成家に連なる縁戚の方々、親しいお付き合いのある御家の方々、取引先関係の重要な立場にある方々。その方々の、名前や家族関係、誕生日、経歴、お好みになるもの、苦手でいらっしゃるもの、色々な情報を頭に入れて、夫が恥を掻かぬように支えることが、宮成の嫁として一番重要である、と何度も何度も言われましたのに、私ときたら未だに間違えてしまうことがありました。皆さん、お優しい方々ばかりで、笑って許して下さいましたが、お忙しい身の上で席を外す事の多い宮成様の要らぬ恥を掻かせてしまいました。本当に、情けなく、申し訳ないばかりでした。」
宮成の屋敷から持ち出してはならない、という書類に目を通して覚えていく作業は、一切体を動かすことのない時間だったとはいえ、本当に疲れるものでした。
「これで、学業の方が少しでもマシでしたら、此処まで情けない姿を晒す事も無かったのでしょうが…。駄目ですわね。結局は、宮成様や皆さん、川添様に遠く及ばない順位にしか上がれませんでした。」
「姉さん。」
終わりました。
彰子姉様が、"毒"を蒔く、と言われた作業はこれでお仕舞い。
次は、璃玖が引き受けてくれます。
「いい加減にしなよ、姉さん。見苦しい。沙希先輩は姉さんなんかと違って、宮成先輩や先代夫人がべた褒めするくらいに認められた人だよ。認められることも出来なかった姉さんなんかの、不出来だった話なんて聞かされても迷惑でしかないよ。沙希先輩は、宮成の嫁として、もうちゃんと認められているんだから。」
「璃玖…。」
「り、璃玖君?」
「ねぇ、宮成先輩?」
「あぁ、そうだな。沙希は、宮成家の奥向きを取り仕切っているお祖母様にも、宮成の主だった親戚達にも、もう認められている。れっきとした、俺の嫁だ。誰にも認められなかったお前なんかの後悔など、沙希にとっては、ただの耳汚しだ。」
宮成家の嫁となる努力。
宮成貴一の嫁となる努力。
選ばれたのは…。