春乃透子の覚悟。
『ダンスパーティーの日、宮成先輩は…。』
もしも、何も知らないままだったならば。
生徒達が集まり注目を集めている中で行われる筈だった彼から私への婚約破棄と、彼から彼女への婚約の申し込みは、私に絶望を突きつけるように突然行われる筈でした。
そうであった筈の未来を覆して、それを私が事前に知り、覚悟と準備を整えることが出来るようにしてくれたのは、私を嫌っていた筈の弟と憧れの従姉のおかげです。本当に感謝してもし尽くせない。もしも、何も知らされることなくこの場に立っていたなら、と考えてしまえば恐怖に身を攀じきられそうになる。去年も一昨年も、この催しで私をエスコートしてくれたのは、当然のように婚約者である彼だった。そんな彼が今年も来てくれると、その訪れを待ち、来ない彼の迎えに待ちくたびれた私は、開催の時間ギリギリとなって一人会場に駆け込むことになっていたでしょう。そして、そんな私に突きつけられていただろう、彼からの別れ。彼を通じて付き合いの深かった彼の友人達も皆、私に突きつけられる婚約破棄と、彼から彼女への申し込みを事前に知っていて、それを心の底から祝福しているのだと、弟が申し訳なさそうに目を逸らしながら、私に教えてくれました。
私の何がいけなかったのだろうか。
-婚約者に対して、良い子ちゃんぶって従順にし過ぎたのよ。
そこは貴女の駄目なところ。俺様何様坊ちゃま達を頭に乗らせてしまったの。
でも、璃玖が言うには、流れに逆らおうと色々と自力で頑張ってたみたいだから、あまり責めないであげる。
俺様坊ちゃまの支配からの脱出もその勢いで頑張りなさい。
婚約破棄?
貴女をずっと苦しめるだけだった、これからの人生を台無しにするだけの婚約なんて、あっちから破棄してくれるんだから、上等だって笑って受け入れればいいわ。
従姉であり、私の為に助言を与えてくれた彰子姉様は、まだ現実を受け止めきれずにいた私の呟きに、そう答えてくれました。
彼女は、物事をはっきりと仰る方です。
父の姉の娘にあたる彼女は、昔から私や璃玖を会う度に全力といっていい程の勢いで可愛がってくれる人だった。
少し冷めた物言いや考え方をする人だったが、私や璃玖の悩みやどうでも良い話さえもただ静かに聞いて、助言をくれる彼女が私は好きでした。そして、憧れだった。
最近では家族に冷たく、家にもあまり帰って来なくなっていた璃玖も、そんな彼女は好いていたのだと思う。弟の知らせによってどん底の中に沈んでいた、二週間前の私の部屋に、彰子姉様を連れてきてくれたのは璃玖だった。
彼との仲も良く、彼の友人達との交友も深い、何より彼女とも友人関係にある璃玖に、彼の友人達は協力を仰ぎました。私との、姉弟仲が険悪なものだと言われていたのも、璃玖に彼らが協力を仰ぐことに躊躇わなかった要因でしょう。
協力を仰いだのは、彼女が彼のプロポーズを受け入れた時、彼らが行おうとしている祝福のサプライズに対する事でした。
私の事は姉弟と思いたくないくらいに嫌いなのだと、日頃公言しているのは学園の生徒のほぼ全員が知っていることです。とはいえ、そんな協力出来るわけがなく、またその行いそのものをあまりな事だと思ってくれた璃玖が、彰子姉様の所に相談に行ってくれた。そのおかげで、こうして私は覚悟と決意を持って会場に足を進めることが出来ました。
来るはずのない婚約者を待つことなく、開催の時間に余裕で間に合うように家を出ました。彼という婚約者がいると生徒全員が知ってる為に私へエスコートを申し出てくれる人はいません。無作法ではあるものの、エスコート無しで行くしかないかと困っていると、璃玖が自分がその役目を負うと申し出てくれました。
今までゴメン。
そう言って、会場まで送迎してくれる車の、後部座席のドアを開けて入るよう促してくれた璃玖。メイドが綺麗に整えてくれた化粧が落ちるのも気に留めず、ボロボロと涙を流してしまいました。
会場について、私達姉弟が生まれる前から我が家に勤めてくれている運転手に応援の言葉を貰いながら車を降りました。その時は何の不安もなく、しっかりと立っていることも出来たのですが、こうして生徒達が続々と姿を消していく会場の入り口を正面に見据えると、覚悟を決めた胸がズキズキと傷みを訴えてくるものがあります。
その痛みが、前に進む足を重たく感じさせるのです。
大丈夫かと聞く璃玖に、大丈夫だと答えてみせました。けれど、少しでも油断すれば、幼い頃から家で働いてくれているメイド達に小言を言われながら直された化粧をまた、崩してはいけないと考え涙を抑えなければ、涙がボロボロと流して崩してしまいそうになる。
彼のこと、彼女のこと、それなりに親しくさせて頂いていたのだとばかり思っていた彼らを考えると、悔しさと悲しみがドロドロと沸き起こってくるのです。
-自分のことだけを考える。彼ら全員、じゃがいもだと思いなさい。坊ちゃま達はひょろっとしてるから、ごぼうでもいいわね。根菜類の気持ちなんて、人間の貴方が理解出来るわけがないでしょう?理解不能な存在として、喰らい尽くしてしまいなさい。
「じゃがいも。じゃがいも。ごぼう…。人参も根菜類だったかしら?」
流れ出そうとする涙を抑える為に、彰子姉様の教えを唱えます。
「姉さん。」
「大丈夫。行くわ。」
ちょっと呆れるように私を呼ぶ璃玖の声に、少しだけ心が軽くなりました。
すっきりとこの苦しみを終わらせる為にも、まずは会場に入らないことにはどうにもならない。
パーティーを欠席して、書面上や親を通じてのやり取りで全てを終わらせるという方法もありました。でも、それに応じず、よりはっきりと彼らとの決別を周知させ、後々の煩わしさを失くすにはこうするのが一番だという彰子姉様の提案に、最終的にやろうと決めたのは私ですから。
会場の入り口では、風紀委員長が会場入りした生徒達のチェックしています。
彼もまた、彼女の友人の一人。
ねぇ、飛鳥君。貴方とは、貴方の趣味の古美術について語り合ったり、情報の共有をしたりと、私は良き関係を築けていたと思っていました。
でも、それは私の勘違いだったのですね。
風紀を取り締まる貴方が、他者を傷つける愚かな行為を許すことは出来ないと、堂々として影口を叩かれていた私を庇ってくれた貴方が、私を傷つけるしかないサプライズに協力するのですから。
ねぇ、今まさにサプライズの準備を終え、今か今かとその時を待っている皆さん。
物心つく前からの婚約を衆目の中で破棄された私が、まだ呆然と留まっているかも知れない場所で…本当に祝福を行おうというのですか?
そこまで、私は貴方達にとって厭わしい存在でしたか。
「春乃透子、春乃璃玖。」
名簿に名前を呼び上げてチェックと入れる風紀委員長、飛鳥隆二の目が大きく見開き、私を通り越して璃玖を見ている。
璃玖は、彰子姉様に相談した後、サプライズの協力を断ったのだそうです。彼女に一番懐いているように見えた璃玖が、彼女が喜ぶであろうそれを断った事でまず驚かれ、その上で、あれだけ嫌っていた姉をエスコートして姿を見せたことで、彼をまた驚かせたのでしょう。
「どうし…」
「あの方はお見えにならないと思いましたので、弟に代役を頼みましたの。何か不都合でも?別に、パートナーは、学園に在籍しているのであれば兄弟でも構わなかった筈ですわよね?」
「あぁ、問題ない。問題ないが…」
その口では取り繕っても戸惑の消えなかった目は璃玖から離れない。
璃玖が秘密をばらしてのではと疑っているのかも知れません。
「姉さん。早く前に進まないと、後ろが困ってるよ。それじゃあ失礼します、飛鳥風紀委員長。」
開催の時刻まで、あと僅か。
生徒達も続々と着飾った姿で会場の中へと入っていこうと押し寄せてきています。私と璃玖が並んだ、風紀委員長が受付を担当するカウンターにも多くの生徒達が私達の後ろに長い列を築き上げていました。
「あら、申し訳ありませんでしたわ、お仕事の手を止めさせてしまって。それでは、また後程。」
会場に入っていけば、生徒達が各々親しい付き合いのある方々で集まり、おしゃべりに興じています。壁沿いには先生方が立ち、こういった場に相応しくない言動、行動が見られたらすぐに注意が出来るようにと、目を光らせている。
普通の学校には無いという授業が、怜泉学園には存在しています。上流階級での立ち振る舞いやマナー、パーティーなどで興じることのあるダンスなど。
このダンスパーティーは、その授業の一環でもあるのです。
始めて参加する一年生は空気や雰囲気などを肌で感じること。
二年生と三年生は、授業で学んだ成果を示し、後輩に手本を見せること。
「…私は、こんな場所で恥を晒す筈だったのね。」
「うん。…ごめん。」
「どうして謝るの?璃玖は、私に覚悟を決めさせてくれたじゃない。璃玖が教えてくれなかったら、私は取り乱して、みっともない姿を晒して、恥に恥を重ねる愚か者になっていたわ。だから、ありがとう、璃玖。」
自覚している。
私を私として作り上げていたモノの多くは、『宮成貴一の婚約者』という肩書きだった。
その肩書きの為に、宮成家から指定された習い事や、家の付き合い、宮成のお義母様やお義祖母から出された様々な課題も、必死になってこなしてきた。苦手なことも、出来れば逃げ出してしまいたいことも、その肩書きが私にはあるのだと思って、頑張ってきた。
それを予告もなく取り上げられたのなら、私はきっと狂って狂って、そして、彼や彼女に掴みかかっていたかも知れない。
公衆の面前で、いや例え人の目が無かったとしても、12年も続いた婚約を破棄されてしまうなんて醜聞の上に、嫉妬のあまり恥ずべき騒動を起こした女として笑いの種を蒔くなんて、耐えられるわけがない。
ガガッ
会場に設置された音響機具から音が漏れた。
時計の針を見てみれば、開催の時間が訪れていました。
会場の最奥にあるステージに、集まっている生徒達の目が向かいます。
ステージ上に立っているのは、生徒会長を務めている宮成貴一。今から別れを告げられる、私の婚約者だった人。
全員が、パーティーの始まりを告げる挨拶が行われると思っているのだろう。
私もそう思っていた。
婚約破棄も申し込みも、ただの私情だ。それを挟むのならば、パーティーが終わりを告げた後だとばかり思っていた。
開始と共に、私情を持ち込み、それでいてサプライズをするなんて。そんな非常識を、幼い頃からしっかりと立ち振る舞いを教え込まれてきた彼が、彼らがするとは思わなかった。
「一つ、発表したいことがある。」
そんな愚かなことを、彼は口にした。
「俺、宮成貴一は、春乃透子との婚約を破棄することを決定した。」
ザワッ
空気が揺れて、そして私の周囲に居た生徒達からの視線が突き刺さってくる。
「そして…、」
春乃透子はただ、その発表を冷めた目で聞いていた。
その胸の奥深くに、悲しみと覚悟を蓄えながら。