宮成家との別れ。
間が大分空きまして、申し訳ありません。
ちょっとばかし、強制休養をしておりました。季節の変わり目ですので、皆様も体調にはご留意下さい。
「…見ず知らずの方にまで、御迷惑をお掛けしてしまっていますね」
晃お兄様は大丈夫だと言って笑ってさえ見せて下さいましたが、それでも一個人に貸すには巨額過ぎる金額は気軽に動かせる訳はありません。しかも、戻ってこない可能性もあるのです。私が宮成家を関わり続けずともいいようにという配慮の為だけに、その方には迷惑をかけましたし、この先の長い年月に迷惑を掛け続けることになる。その事に、胸が痛みます。
それならば、私が最後の最後まで向き合っていった方が…。
そう思ったのですが、晃お兄様はそんな私の考えを読んだのでしょう、笑いながら首を横に振りました。
「大丈夫、大丈夫。透子。世の中には、お金を貯め込むだけ貯め込んで、使おうとしない人間というものが居るんだよ。今回、協力して貰ったのも、そんな人間でね。老後困らない程度に残っていればいいから、と快く協力してくれたんだよ。それに当たり前のことだけど、借用書には利息についても、遅延損害金についても記載してあるから、完済された際にはちゃんと益も生まれることになっている。」
利息は法に定められている上限の15%。遅延損害金も上限である21.9%。連帯保証人もしっかりとしてるし、抜かりはないようになっているよ。
そう、晃お兄様は説明してくださいました。
その他には、学生身分である際の月々の返済金額、そして就職した後での月々の返済金額など、事細かに取り決めてあるのだそうです。金額が金額、最低限の額として記載されている通りでの月々の返済では完済までに何十年とかかってしまうだろうそれに、私が長々と付き合い、縛られる必要は無いと、私の胸中に浮かんだ思いを一蹴してくれたのです。
「ふ、ふざけるな!!!」
バンッ
茫然自失の状態、といえばいいのでしょうか。小母様によって目の前に突き出された書類を見つめ、何の反応もない状態が続いていた貴一様が、大声を荒げて卓上に拳を振り下ろしました。
「ふざけるなよ!こんな、馬鹿みたいなことが」
「何が、馬鹿みたいなの?それは、貴方以外が思うべきことでしょう?」
貴方や、私達が思っていい言葉じゃない。
そう、小母様は言います。その声は、とても冷たくて、とても疲れているように聞こえました。
「春乃への対処は御祖母様が全て引き受けて下さる、という約束だったんだ。任せろ、と仰って下さっていた。なのに、」
つまり、貴一様は沙希様の分までと力強く宣言されたのは、清花刀自の後押しの言葉があったからなのだと。
「御祖母様が、に、病気なんて、そんなことある訳がない!」
不当な診断を押し付けて清花刀自を追いやったのだと、貴一様は叫ばれます。
認知症と口に仕掛けながらも、それを思いとどまり病気と仰ったのは、それを口にするのもおぞましいと思われてたからなのでしょうか。
「今朝も、俺や沙希と朝食をご一緒した時も何時もと全く変わらぬ様子だった。そんな馬鹿げた様子、兆候など、これまで一度たりとも見たことは無い。誰よりも御祖母様の姿を見ている俺がそういうんだ。医者や、滅多に帰っても来ないアンタ達がどうこう言おうと、馬鹿げた間違いだ!」
…沙希、様と…。
この二週間という間、この屋敷に通うことは止めていました。これは婚約が成ってから初めて、一日、二日、とならこれまでも何度かあった事でしたが、二週間なんて長い期間は本当に始めてのことで、自分を落ち着けることが出来るようになるまでドキドキと胸が痛く感じている期間でした。私の、胸が痛む程の心配も何処吹く風で、清花刀自からのお叱りの連絡も何も無く、貴一様に何かを言われた訳ではなく、そんなものか、と心が凪いだのです。
そして今、また心が静かに、何処か他人事のように思い遠のくような感覚を覚えます。
貴一様、いえ清花刀自が何も仰らなかったのは、すでに沙希様というお気に入りの宮成の嫁が存在していたからなのだと、貴一様の言葉に改めて思い知らされました。
「確かに、母と一番接していたのは貴方よ。でも、身近だったからこそ気づかないなんて、よくあることだわ。貴方がどう言おうと、医師の判断はしっかりと認知症なの。あの人は病気なのよ」
静かなその声は、激昂状態にある貴一様にさえも息を飲ませました。
そして、小母様はその声に含まれる重さや力とは相反する優しい微笑みを浮かべて、口を開きました。
「そうでなければ、可笑しいのよ。そうでなければ、透子ちゃんへの仕打ちの説明がつかない。そうでしょう?常識も何もあったものではない、常軌を逸したともいえる、厳しい振る舞い。それに気づくことの無かった愚かな私達夫婦が、後から人伝に聞いただけでも怖気が走るそれらの、宮成の嫁の心得であるというそれら。私達はこれを、医師の判断の通り認知症を患ってしまったせいで、攻撃的になってしまっていただけだと思っているわ」
穏やかな声に反する、強い意志を込めた目で貴一様を射抜かれる。
「だって、そうでなければ、あの人の透子ちゃんへの行いはただの意地悪ということになってしまうじゃない。娘の私の知らなかった、嫁が行うべきこの家の仕来りの数々がただのイジメということになってしまうわ。でも、そうなると可笑しいのよ。可笑しいでしょう?だって、沙希さんは透子ちゃん以上にそれらをこなせるからこそ、あの人に宮成の嫁として認められてのでしょう?なら、その仕来りの全てはイジメではないということじゃない。本当に宮成の嫁として必要だったということ。母の厳しい態度の数々は、認知症からくる攻撃性が過ぎたから。そう考えるのが普通でしょう?」
「なっ…」
「総領娘というだけで、私は愚かなくらいに甘やかされて、今まで生きてきてしまった。透子ちゃんが教え込まれていた全てを聞いた時、私はそう思ったわ。宮成の家の嫁の仕来りも知らずに、のうのうと自分勝手にしてきた。だから、仕事から身を引いて宮成の当主の妻という肩書きになったからには、それらをしっかりと学び直して全うしていきます。それに関しては沙希さんの方が先輩に当たるわね。彼女が嫁いできてくれる4年後、共に役目を果たせる日が本当に楽しみであり、彼女の迷惑にならないように気を付けねばと思わずにはいられないわ」
真っ直ぐに向けられる小母様の言葉に、貴一様は返す言葉を探っているようでした。
貴一様が何を言うのか、これからどうなさるおつもりなのか、私はそれを聞くことは出来ませんでした。
「宮成さん。私達はこの辺で御暇させて頂こうと思います」
貴一様と小母様のやり取りによって膠着した中で、そう発言して場を割ったのは御父様でした。
「御父様?」
「宮成家の内内の話に、私達が聞き耳を立てている訳にはいかないだろう?」
「そうですね。こちらの身内の間でのあれやこれやに、もう春乃の皆さんを巻き込む謂れは御座いません」
御父様の言葉に同意して頷いたのは、小父様。
そう。そうですね。婚約はもう無かったことになったのです。まだ貴一様がサインはしていないとはいえ、それは貴一様を頭にした宮成家と、お金を貸して下さるという方との契約。そこに宮成家との関わりの失った私が加わっていいものではありません。
「本日は、こちらの身の程を弁えない呼び出しに応じて頂いた上、ご足労を頂きました事、改めまして深くお詫び致します」
「それはもう、最初に御詫び頂いたことですから。」
小父様も、貴一様を強く見つめていた小母様も、深く頭を下げました。
御父様がそれを留めるような言葉を口にすると、小父様や小母様は一度頭を上げて、その目を私へと向けたのです。
「透子さん。この度は不快な思いをさせ、何より、これまで愚かな私達が気づこうともせずに負わせてしまった苦痛の数々と御迷惑をお掛け致しましたこと、誠に申し訳御座いませんでした。」
これまで、私の事を小父様達ご夫婦は"透子ちゃん"と呼んで下さっていました。それが"透子さん"となった改まった最後の謝罪によって、本当の本当に彼等との関わりが切れたのだと感じます。
何度も感じた、関わりが切れるのだという感覚。それを重ねる事で少しだけ、本当に少しだけ寂しさを感じ、そして嬉しいという開放感を感じます。その二つの感覚が私の心を占めている割合に、自分自身でも気づかない内にどれだけ我慢を重ね、もう嫌だという思いを押し込めていたのかを理解出来た気がします。
「まだまだ話を詰めねばならないと思いますので、見送りはこちらで結構です。どうか、よりよい結果であることを祈ります」
それが透子の為でもありますから、と御父様は立ち上がろうとした小父様と小母様に断りを入れました。
「春乃さん」
「情けない事に、娘の異変に全く気づくことの出来なかったことを、酒の席の悪酔いしたせいとはいえ私は友人達に泣き言を言ってしまいました。こうして話は付き、一応の終わりを迎えたのですから、皆に忘れて欲しいと連絡しなくてはいけませんね。もしかすると、ご不快に思える話がお二人の耳に入ってしまうかも知れませんが、全ては酔った席で友人とはいえ関係の無い人間に零してしまった私のせいですので。」
御父様に見送りを断られた小父様と小母様が立ち上がり、御父様と共に部屋を出ようとする私達に向かい、また頭を下げられました。
小父様は、拳を握り締めて微動だにしない貴一様の頭を押さえ、頭を下げさせています。
夏休み、というものに感謝するのはもしかしなくても、初めてかも知れません。
これまでは長い休みは、宮成の家で過ごす大変な、苦しみの日々でした。以前の私は何も思う事もしなかったのですが、今思えばそれは諦めだったのだと分かります。彰子姉様にも言われたのですが、それはジワジワと理解することが出来てきました。
けれど、今回はホッと安堵する休みになりました。
怒りに震えるこんな状態の貴一様が、すぐに鎮まるとは思えないのです。そんな状態の貴一様と、学園で遭遇することになったなら、と恐ろしく思うのです。
勿論、あのような騒ぎの後で、私も貴一様も、そして沙希様も、普通に登校出来るとは思えませんが、それでも時間を置いたとしても、貴一様と体面することになる状況を想像しただけで恐ろしいと震えが走るのです。
初めて、何も予定の無い夏休み。
彰子姉様と璃玖が、なにやら計画を立てているのだとは言っていましたし、休み明けのことも「楽しみにしていてね」と言われているのですが、不安と嬉しさ、そして期待が尽きる事なく湧き出てきます。
頭を下げたままの小父様達を部屋に残し、私達はそのまま真っ直ぐに玄関へと向かいました。
部屋から少しだけ離れた場所で、顔色の悪い女中の方が一人姿を見せて玄関までを先導して下さいました。この屋敷に通う日々の中、よく見知った、清花刀自を手伝い指導下さった方でしたが、同じ方とは思えない力の無い背中。
「遠いとはいえ、刀自の血縁だって話だからね」
じっと背中を見ていた私の気持ちに気づいた璃玖がそう教えてくれたのですが、私とは違い宮成の屋敷にあまり出入りの無かった璃玖がどうしてそれを知っているのか、そちらの方に気が取られて他に考えが及ばなくなりました。
ガシャン
そんな大きな、何かを壊す甲高い音が屋敷の奥から響いてきたのは、私達が靴を履き、玄関を出ようとした頃でした。
私は、貴一様の仕業、と思いました。
小父様によって押さえつけられて無理矢理頭を下げていた貴一様は、拳を握り締めて震えていました。あれは、怒り。
想像もしていなかった全てに対しての怒り。
貴一様は武道を嗜われていた筈です。小父様や小母様が怪我をなさっていたら、と思ったのです。
「若様か、それとも刀自、かな?」
それは晃お兄様の言葉。
「あぁ、閉じ込められてヒスってそうだね」
璃玖もそれに同意を示しました。
玄関を出ていこうとする私達を見送ろうとしていた女性が、その音に顔色の悪さを一層強め、二人の言葉に慌てた様子で屋敷の奥へと駆け出していきました。
「まぁ、屈強な介護士を贅沢に二人も付き添わせてあるから、暴れたって問題は無いけどね」
「屈強って」
晃お兄様の言葉に吹き出した璃玖が尋ねると、晃お兄様もご自分の言葉だというのに少し笑いながら教えて下さいました。
体力も、力の強さも折り紙つきの介護士の方を、晃お兄様が紹介なさって刀自につけているのだそうです。
「そうじゃないと、あの刀自と坊ちゃんなら、貴重な品の数々も破壊しそうだしね」
さすがにそれは、宮成夫妻が可哀想過ぎる。
晃お兄様は一人、この屋敷に残って顛末を確認するとのことで、手を振って私達が玄関を出るのを見送ってくださいました。
私が結婚した際に譲り渡すように、と宮成の先々代が遺言を残されているそれらを故意に損なったとなれば、今回の件で充分に傷ついた宮成の名がより傷つくことになる。
婚約という重要な契約さえも護れない上に、傷つけ捨て去った婚約者に与えられた正当な権利さえ傷つけるのか、と。
私は初めて知ったことでしたが、私に古美術の多くが渡されるという話は、先々代と既知の間柄にある方々の間では知れた話なのだと、御父様が教えて下さいました。
そうするのだ、と先々代が嬉々として知人達に触れ回っていたのだと。
そして、宮成が所有する古美術の多くは、茶会や野点、パーティーの際に目にしたことのある方々は多く、それが私に受け継がれる前に目にしなくなれば、人々は面白可笑しく、何の躊躇いもなく無責任に囀ることになるのだろう、と。
「お前がしっかりとそれらを受け取った後に、宮成に売って欲しい。どれだけ先になるかも分からないのに、そう仰ったのは、覚悟があっての為だろうな」
「皆の前で、姉さんが行ってきた事は自分にも出来るって、彼女は言っちゃったから。それを耳にした色々な方々の目は審査するようなものになるって事か」
宮成の体面を整える為の付き合いは続くのだ、と小母様は仰いました。
そういう場に、場にあった物を配置していくのも、嫁の役目。
璃玖が口にしたそれを想像するだけで、胃が痛むような感覚を覚えます。そして、自分が背負う役目で無くなったのだということに、安堵したのです。




