序章
距離にしてみれば数十メートル。
でも、今の私にはとても長く感じる距離に見えます。
テレビで中継されることの多いマラソン競技より、各大学が競い合う駅伝より、とてもとてもこの道のりは長く見えるのです。
「姉さん。もう時間だよ。いい加減、入らないと。」
「うん、分かってる。分かってるの、璃玖。」
今日、私のエスコートを務めてくれるのは、一つ下の弟の璃玖。
婚約者である彼じゃない。
「大丈夫?ちゃんと出来る?無理なら…。」
「出来るよ。大丈夫。これは、私がするべきことだもの。彰子姉様にも、自分でしっかりとケジメを、現実を突きつけてやれって…ちゃんと言われたことを覚えているから。」
夏期休暇を目前とした学園で毎年、生徒達にも好評を博して開催されているダンスパーティー。
由緒正しい伝統と格式の怜泉学園の、夏季休暇目前に行われる高等部在籍の生徒全員が出席を義務付けられているこのイベントで、私は婚約を破棄されてしまうそうです。
彼、宮成貴一様との婚約が成ったのは、5歳の頃でした。
元々は、曽祖父の代での約束事。
お互いでお互いを、無二の親友、戦友、異性だったら結婚してた、なんて公言していた程に気があっていた二人は自分の子供を結婚させて親族になろうと、勝手に決めてしまったいた。それが全ての始まりだったと聞きました。
けれど、その願いを叶えようにも、曽祖父達の子供等はお互いに男子しか生まれず、その次と思えば娘しか生まれなかった。お互いに異性の、年の近しい子供が生まれたのが私達、曾孫の代。宮成家に長男である彼が、春乃家に長女である私が生まれ、まだ存命だった曽祖父達はようやく念願叶う時だと興奮を露にし、婚約するべしと話を推し進めました。そして、長らくを生きてすでにお互いが息絶え絶えの状態であったにも関わらず、私達が五歳の頃にそれを成立させて、そして安らかな表情で天に二人仲良く召されていきました。
曽祖父達は周囲が不思議がるほどに仲が良かったとはいえ、宮成家に比べれば春乃家は家柄も、有している資産も格が下だというのに、強硬な意思を持って成立した婚約は宮成家の親族や関係者の方々からはあまり良い顔をされなかったという事を、幼いながらにも私の記憶にはっきりと残っています。
幼かった私の記憶にも残っている批判的な目。
それを払拭する為、宮成家の方々に迷惑をかけない為、婚約者である貴一様に迷惑をかけて顔を潰さない為に、そう言われ、そう思い、今まで努力を怠らずに参りました。
それも今日で終わりかと思うと、辛く苦しかった日々が懐かしく、愛おしくも感じるのは、何だか現金なようにも感じます。
でも、きっと…、私の代わりに彼の婚約者となる彼女は、不器用で物覚えの悪く苦労した私などよりも上手く、婚約者として、そして何れは妻として、宮成家の当主となる彼の隣に立ち、堂々と振舞う事が出来るでしょう。
そう思えば、これでいいのだと、ホッと安心することも出来るのです。
何より、そう思えばこそ、私は全てに区切りをつけて、次に進む事が出来ます。
さぁ、お別れをしましょう。
私と貴方の、婚約者という関係に。
貴方に恋人のように寄り添った彼女に、醜く嫉妬し、憎しみばかりを吐き出していた私自身に。
『宮成家の次の嫁』『次期当主の婚約者』、その舞台から私は潔く退場させて頂きます。