02
太陽が高く昇りはじめるのを確かめ、ニトは深い吐息を洩らした。
(奥方様、ようやく終わりました。俺の十年、ラウディリアの十年。俺たちの復讐が、ようやく……俺は、あなたからの依頼をちゃんと果たせたでしょうか)
朝焼けの黄金は溶け去り、初夏の澄んだ空が広がっている。天にまします女神の御許にいるだろう懐かしいひとは、どんな想いで自分たちを見ているのだろうか。
レンスや部下たちが気を遣ってくれているが、いつまでも庭園に閉じこもっているわけにもいかない。ニトは反乱軍の首領として、ラウディリアは彼らの影の協力者でありただひとり残されたティグレー家の嗣子として、果たさねばならぬ責務が待っている。
ラウディリアが唇を噛み、銀の右手を握り締めた。ニトは左手を重ね、力づけるように微笑んだ。
「そろそろ参りましょう、姫君。反乱軍のなかには、今でもあなたをお慕いし、御身のためにと命を擲つ覚悟で戦った者たちも多くいます。どうか彼らに、ねぎらいの言葉をかけてやってください」
「……ええ」
改めた口調に、ラウディリアは表情を引き締めて頷いた。ニトが先立ち、階を下って手を差しのべると、彼女は優雅に裳裾を引いて繊手を重ねた。
四阿をあとにし、庭園を進むうちに、自然とふたりの足が止まった。幼き日々と変わらぬ風と光のなかで、満開の勿忘草が青々と咲き乱れていた。リヴェラの地に再び美しい夏がやって来たと、高らかに歌っている。
暗い冬を越えて、短くもまばゆい歓びの季節が帰ってきたのだ。
「――またこうして、あなたと見れた」
不意にラウディリアが言った。せっかくニトが気持ちを入れ替えたというのに、彼だけに許した少女の顔で笑ってみせる。
「これからは何度でも一緒に夏を迎えられるのね。秋の収穫祭も、気が遠くなるような冬籠りも、あなたと過ごせるのよね」
「……ラウディリア」
当たり前のようにつながれた手に、ニトは天を仰いで嘆きたいような心地だった。だが断腸の覚悟を決めると、ラウディリアに向き直り、彼女の手を両手で包みこんだ。
「メイ。俺はすべてのことを片づけたら、リヴェラを離れるつもりだ」
「……え?」
「部下たちにもさんざん引き留められたんだが、俺は最初から残るつもりはなかったんだ。おまえからの依頼を果たして、おまえが無事に領主になるのを見届けたら――俺はリヴェラを出るよ」
ゆるゆると驚愕が白い面に広がっていく。ラウディリアは何度も瞬き、唇をわななかせた。
「そんなっ、どうして……」
「領主になれば、おまえはいずれ甲斐性も理解もある婿殿を迎えなくちゃならねぇ。そのときに剣闘士上がりの傭兵がご領主様の近くをうろちょろしてたら、せっかくの良縁も逃げちまうだろ?」
奥方が健在だった頃から想定していた未来が、少しばかり形を変えて訪れただけだ。そして何より、一度はラウディリアを裏切った自分が、のうのうと彼女のそばで安穏を貪っていいはずがない。
(もうこの子を連れて逃げる必要はない。ラウディリアはここで穏やかに、幸せに生きていくべきだ。他ならぬ俺がそれを妨げるなんざ、奥方様に顔が向けられねぇ)
女々しい未練など断ち切るべきだ。ニトの受け取るべき報酬はすでに手の中にあるのだから。
「もしもおまえに何かあったら、世界の端からでも駆けつける。『おまえの味方』であることだけは許してくれ」
「……ニトにとって、わたくしは何?」
ラウディリアは硬く頬を強張らせて問うた。やはり怒らせてしまったなと、ニトは苦笑した。
「俺のはじめての友人で、大切な、守るべき主だよ」
いつまでも変わらぬ、たったひとつの答えだった。だがラウディリアはきつくニトを睨み上げ、「違うわ」と否定した。
ニトは眉間を曇らせた。
「メイ?」
「ええそうね、あなたから見ればわたくしはいつまで経ってもおちびちゃんなんでしょうね。でもねニト、わたくしにとってあなたはとっくの昔に『おともだち』なんかじゃなくなっているの!」
火花が飛び散るばかりの怒気に、ニトは息を呑んだ。ラウディリアの双眸にみるみる涙の膜が張り、ぽろりとひと粒こぼれ落ちる。
白い頬を燃え上がらせ、今にも泣きそうな目で睨みつけてくる少女は――たとえようもなくかわいかった。
「女の十年をなめないでちょうだい。いったいわたくしがだれのために、歯を食い縛って貞節を守り抜いたと思っているの? お父様がけしかけてくる腐った縁談をあらゆる手でぶち壊して、嫁き遅れになる覚悟で待ち続けたのは、だれだと思っているの!」
「ラウディリア……」
「意気地なしも大概にしてちょうだい、このすっとこどっこい!」
「すっ」
いったいどこでそんな言葉を覚えたんだ、レンスだなあの野郎一度とっちめてやる、と混乱と動揺のあまり、ニトの思考はあらぬ方向へ飛びかけた。むんずと胸倉を掴まれ、我に返ったときにはたたらを踏んでいた。
「ちょ……っ」
待ってくれという懇願は、物理的に途切れた。
ニトは瞬きを忘れ、ついでに呼吸も忘れた。唇に被さる、熱く、おそろしいほどやわらかい、甘い感触に凍りつくしかない。林檎の花のようなラウディリアの匂いが胸を締めつけ、色づいた目元に落ちる睫毛の影すら美しいと見惚れかけた。
そこで、気がついた。
「……ッ!?」
悲鳴を上げなかっただけ褒めてほしい。ニトは勢いよくラウディリアを引き剥がすと、ぱくぱくと魚のように口を開閉した。ラウディリアは負けじと伸び上がり、ニトの首にがっちりと腕を回した。
ニトの心臓が追い詰められた野兎のように飛び上がった。
「頼むから待ってくれ、早まるなラウディリア!」
「もう充分待ったわ。待ちくたびれたわよ!」
「そういう意味じゃなくてだな、とにかく離れてくれ。お願いだから!」
「いやですっ!」
嘆願虚しく、二度目の口づけがニトに襲いかかった。貪り尽くさんとばかりの激しさで、とろけるような舌先に下唇を舐められたところで限界だった。
ぐらりと体が傾き、ラウディリアを抱えた姿勢で勿忘草の花畑に倒れこむ。青い花びらが舞い上がり、もつれて絡んだ栗毛と濃い金髪にはらはらと降り注いだ。
男の厚い胸板に手をついて、ラウディリアが顔を上げた。口元を押さえ、首筋まで真っ赤に染めている。
ニトは茫然と彼女を見上げていたが、のろのろと両手で顔を覆った。耳が焼け切れそうだった。
「……勘弁してくれ」
「ニ、ニトが逃げようとするからいけないんですっ!」
ラウディリアは憤慨したような声を上げた。上擦り気味なあたり、彼女も羞恥で頭が焼け焦げそうになっているに違いない。ニトはとっくに黒煙を噴き上げていてもおかしくはない有り様だった。
「……ニト、顔を見せて?」
「俺を殺したいのか、おまえは」
「あなたはわたくしに愛を打ち明けることすら許してくれないの?」
喉が震える。ニトは逃げ出したいような叫びたいような衝動と戦いながら、両手を外した。さらさらとサフラン色の長い髪がこぼれ落ちる。目を瞠ったときには掌に頬を包まれ、挑むような青い瞳に捕らわれた。
「あなたを愛しています。ニト・バルノァ」
逃げ場はどこにもなかった。自分の心のなかにすら、見つからなかった。ニトだけを待ち続け、艶やかに花開こうとする十八歳のラウディリアを見た瞬間に、ただひとりに捧げた想いが鮮やかに色づくのはあっという間だった。
ニトは、恋に落ちた。
「……駄目なんだ、ラウディリア。俺はおまえにふさわしい男なんかじゃない。俺は……」
必死に反論しようとするニトを、ラウディリアはひと言で黙らせた。
「お母様のことですか?」
ニトの体に怯えにも似た戦慄が走った。
「どう、して」
「お父様がお話ししてくださいました。『おまえは実に出来のいい忠犬を持ったな』と、それはそれは愉快そうに」
ニトは顔を歪ませた。ラウディリアは憂うように目を細め、「ニト」と呼んだ。
「あなたのせいではないわ」
「違う! 奥方様を守ってほしいとおまえに言われていたのに、俺はその信頼に背いた。俺は確かに、奥方様を見殺しにしたんだ」
「わたくしはあなたを憎んだことなんてない。あなたを十年もの間さまよわせ、拭いきれぬ血を浴びせ、反逆者に貶めたわたくしこそ断罪されるべきよ」
「そんなことは……っ」
「それでもわたくしの幸福を望んでくれるのなら、あなたの心をわたくしにください」
もう一度体が震えた。無敗の傭兵、戦場の王と畏怖された男が幼子のように瞳を揺らしている。限りない愛しさをこめて、ラウディリアは微笑んだ。
「あなたが何からもわたくしを守りたいと想ってくれるのなら、どうかあなたの人生を懸けてわたくしの心を守ってください。なぜわたくしの幸せに、ご自分を数えてはくださらないの?」
「……そばに、いてもいいのか」
「いてください。あなたにふられたら、わたくしはもう尼僧院に駆けこむしかないわ」
ニトは眉尻を垂らし、「それは困る」と呟いた。ためらいながらラウディリアの頬に触れると、彼女は光を振りまくような笑みをいっそうこぼした。
名もなき彼が愛し、焦がれ、叶うならば永遠に見つめていたいと願った笑顔だった。
ふつりとニトの眦から涙が溢れ、こめかみを伝う。白魚のような指がその痕を優しく拭った。
「わがままを言っていいか」
「はい」
「俺に、おまえを幸せにさせてくれ。魂が終わる永遠まで、おまえのそばにいさせてくれ」
許されるかもしれない。許されぬままかもしれない。ただひとつわかるのは、ラウディリアの望みを叶えられるのは自分だけで、ニトが選ぶべき答えは決まっていた。
この世の何にも代えがたい彼女の幸福を守り抜くことが、傭兵ニト・バルノァの至上の責務であり、最高の報酬だった。
夏の風の向こうで、ラウディリアによく似ただれかが笑ったような気がした。過ぎ去った時間のどこかで、彼女はもう一度ニトに告げた。
(あの子を、頼みますね)
勿忘草の花が清かに香る。サフラン色の髪がたなびき、ニトの視界をふわりと覆った。刹那に目に焼きついた空はどこまでも青く、輝いていた。
麗しい夏の乙女が甘くささやく。
「わたくしのすべては、あなたとともに」
ニトは下りてくる影にそっと瞼を閉ざし、口づけに溶ける狭間で曇りない真実を捧げた。
「愛してる」
二年に渡る戦争を経て、リヴェラは自治領としてエスラディア帝国からの独立を宣言した。
炎のように燃え上がり、そしてすぐに鎮火するだろうと見なされていた反乱軍の抵抗は、驚くべき粘り強さで帝国軍を苦しめた。その闘志は鍛え抜かれた鋼のごとき不屈さで、ついにエスラディア皇帝にリヴェラからの全軍撤退を決断させたのである。
類い稀なる采配によってリヴェラ独立を導いた隻腕の傭兵ニト・バルノァは、史上最悪の国賊でありながら皇帝を以てして〈戦神〉と言わしめ、限りない畏敬と称賛を贈られた。自治領の成立とともに彼はリヴェラの新たな領主となり、のちにウェトシー王国の祖となるバルノァ候家を築く。独立戦争の影の立役者と伝えられる前領主の息女ラウディリアを妻に迎え、大陸西方・レーテス海沿岸の北の守護者として歴史にその名を刻んだ。
彼が掲げた黄金の宿木の紋章は、いかなる苦難にも負けず、己の信念を胸に誇り高く生きよとリヴェラの民に教え、不羈の精神として末永く語り継がれていく。あるいは最愛の奥方と苦労と幸福を重ねて孫を抱き、子どものような笑顔で天寿を全うした、ひとりの傭兵の物語として。名と志を受け継いだ古き英雄のように、彼は人生の最後にこう言い残した。
我が生涯のすべてが、この世でただひとつの得がたき報酬だったと。
拙作は、異世界召喚競作企画『テルミア・ストーリーズ+』の『テルミアおまけ部門』参加作品です。作中の設定の一部は企画元よりお借り致しました。
Image song 柴咲コウ『勿忘草』