01
青白い霧が流れ、北にそびえる山脈の影が現れる。
十年ぶりのリヴェラの朝を迎えたニトは、ラウディリアに乞われるまま放浪の日々を語った。蔓薔薇が咲き香る四阿で美しく成長した少女に向かい合っていると、まるで十年前の、最後の夏に戻ったようだった。もうひとつの約束を交わした遠いあの日に。
ラウディリアは涙を湛え、ニトの銀の右腕を撫でさすり、手を握った。旅の途中で出会った魔法使いの危機をたまたま救い、彼は恩返しにとこの魔法の義手を造ってくれた。
「エレンシスといって、変わり者だがなかなか面白いやつだった。何年か一緒に旅して、相棒として戦場を渡り歩いた。ずっと探している相手がいて、大陸の東で消息を聞いたというので別れたんだ。たまに手紙代わりの使い魔を寄越してくるんだが、今も元気でやってるらしい」
「わたくしからも、ぜひお礼を申し上げたいわ」
「東でも名を馳せているらしいから、すぐに手紙も届くだろう。あいつも喜ぶ。何しろ、美人に目がない男だったからな」
ニトが旧友を思い出して笑うと、ラウディリアもようやく表情を和らげた。だが青い瞳には、深い悲哀が夜の名残のように沈んでいた。
「……あなたの活躍を耳にしたわ」
ぽつりと、静かな呟きが落ちた。ニトは笑みを消した。
「引き受けた仕事は完璧に成し遂げる。どんな強者も討ち損じることなく、その剣で落ちぬ首はない。戦場に出れば与した側に勝利をもたらす。常勝の傭兵、軍神の申し子――〈銀の隻腕〉」
「褒めすぎだ。俺は殺すしかない能のない、ただの戦争屋だ」
頬を掻いて自嘲するニトに、ラウディリアはゆるゆると首を横に振った。
「名声だけでなく、人望も篤いと聞きました。あなたがひと声かければ、多くのもののふがその下に集うと。あなたを信頼し、召し抱えたいと望む貴人も数多いらっしゃると」
「……俺は大将なんて器じゃない。騎士仕えもご免だ。のらりくらり、気ままな一匹狼のほうが性に合ってる」
「けれど、だからこそ、あなたはこの反乱を成功させたのでしょう?」
勿忘草色の瞳がまっすぐニトを射抜いた。
十八歳のラウディリアは、ニトが何度も思い描いたとおりの、思慮と叡智をまなざしに宿した女性となって気高く咲き誇っていた。密かにリヴェラへ帰還したニトは、十年前の悲劇を経ていっそう領民たちの心の拠となっている姫君の評判を耳にした。
濡れ衣によって母君が処刑されたのち、彼女は一切の自由を奪われた。城砦の外に出ることを禁じられ、常に監視の目に晒されながら籠の鳥のように暮らしていた。快活な性格は鳴りを潜め、まるで人形のように感情を見せない娘に変わってしまったという。
領民のだれもが「おいたわしや」と涙に暮れていた。反乱軍のなかには、姫君や亡き母君にかつてのご恩を返すために剣を取ったと語る者もいた。
――だがニトは、それがラウディリアの巧妙に装った仮面だと気づいていた。
「いくら領民の大半が反乱に加わったとしても、彼らは剣ではなく鍬を振るって生きてきた人々よ。どれほど指揮を執るあなたが優れていようと、この砦を攻め落とすどころか、まともな戦を仕掛けることもままならなかったはずだわ。でもあなたは、たった三日で不落と呼ばれたリヴェラの砦を陥落させた。まるで鍛え抜かれた正規軍のような兵士たちを率いて」
「……俺がリヴェラに戻ったと、いつ知った?」
ニトは目を細めて尋ねた。ラウディリアは微かに顔を歪め、「冬の終わりに」と答えた。
「レンスが教えてくれたわ。とうとう決起を決めた領民たちが、『たまたま』リヴェラを訪れていた〈銀の隻腕〉に力を貸してほしいと依頼したと」
「そうか、あいつがおまえの『目』か」
「レンスだけではないわ。お父様を欺きながら、何年もかけて、このリヴェラの隅々まで見渡せる『目』や、どんな噂話も聞き漏らさぬ『耳』をいくつも作ったの。とても大変だったのよ?」
いたずらっぽく笑いながら、しかしラウディリアの表情は微塵も誇らしげではなかった。氷の仮面を被り、鉄の砦の中で、少女はどれほどの孤独な戦いを続けてきたのだろうか。ニトは手を伸ばして形のいい頭を撫でた。
「反乱軍に紛れていた間者は、やっぱりおまえの手の者だったんだな」
「……知っていたのね」
「俺が『外』に調達を頼む前に、驚くほど手筈よく武器や食糧が揃えられていたからな。心当たりありそうなやつらに訊いてみたら、『さるやんごとなきお方が秘密裡に支援してくださっているんです』なんて大真面目に教えてくれた。ただ、外聞を憚ってそのお方は名前を明かせないらしいから、結局正体はわからなかったが」
朴訥で善良な気風はリヴェラの領民たちの長所だと思う。しかし、疑うことを知らないというのはいささかのんきすぎやしないかとニトは呆れてしまった。裏を返せば、もう戻れぬ場所まで来たという決死の覚悟もあったのかもしれないが。
「だけど、おかげで助かった。『外』のやつらに割と貸しを作ったつもりだったんだが、ちょっと心許ないかもしれなかったんでな。おまえの家臣はよく働いてくれたよ。思ったより早く反乱軍を仕立て上げることができた」
「わたくしにできることは、それぐらいだもの……」
ラウディリアは両手で顔を覆った。泣き虫なところは変わっていないらしいと思いながら、ニトは彼女の頭を抱き寄せた。
「成功するかもわからない反乱を思い立つほど、みんなが追い詰められるのを黙って見ていたの。この十年、見殺しにしてきたの。お母様のように弄ばれ、傷つけられ、殺されてきた人々を、救いを求めて伸ばされた手を、わたくしは振り捨ててきたのよ!」
「おまえは何も悪くない。そんなこと言うな、ラウディリア」
「いいえ、わたくしは責められるべきよ。裁かれるべきなの。だってわたくしは……〈青髭公〉の娘なんだもの」
ニトの胸元に縋りつき、ラウディリアは痛々しい声で泣きじゃくった。ニトは身を丸めて彼女を抱きかかえながら、強く言い切った。
「おまえはもう充分苦しんだ。母君を殺され、父君を憎みに憎み抜いて、十年も苦しみ続けた。もうとっくにおまえは受けるべき罰を受けてるんだよ」
だれがなんと言おうと、ラウディリアに贖罪など必要ないとニトは断言する。もしも彼女にこれ以上の責め苦を課そうとする者がいるならば、悪鬼のごとく笑って斬り伏せてやろう。
借りを返すという名目で反乱軍に参加したり、腕の立つ人材を派遣してくれた協力者たちは、ニトに地獄の猟犬というあだ名をつけた。おとぎ話に登場する地獄の女王ヘイラの忠僕で、その意のままに罪人の魂を喰らうというおぞましい狂犬だ。〈銀の隻腕〉などという高潔な呼び名よりも、よほど傭兵ニト・バルノァにふさわしい。
(おまえの首輪につながれた鎖は、ずいぶん頑丈なんだな)
仕官の話が来るたびに素知らぬ顔で受け流すニトに、かつての相棒は呆れたように言ったものだ。ニトは一生外れない首輪だと心から笑った。
「なあラウディリア。俺の主は確かに泣き虫だが、いつまでもめそめそと嘆き暮れているようなやつだったか?」
藍色のドレスの肩がぴくりと震える。ニトはひとつ笑い、そこを優しく叩いた。
「俺のお姫さんは、泣きに泣いたあとには顔を上げて、まっすぐ前を見据える勝気な女の子だった。自分の名前に誇りを持っていて、それに恥じない人間であるように努力し続ける、強い子だったよ」
ラウディリアはハッと顔を上げた。雪より白い頬を伝う雫を指先で拭いながら、ニトは続ける。
「だから俺は、リヴェラを俺の主に託したいと思ったんだ。彼女なら、きっとリヴェラの人々を癒し、慈しみ、豊かに育んでくれるって信じているから」
「ニト……」
「死ぬのは簡単だ、ラウディリア。だがな、恥も汚名も耐え忍んで、笑ってリヴェラのために全力で生き抜くことが、おまえの求める償いなんじゃないのか。おまえがリヴェラの騎士の末裔だというのなら、今こそその誇りを取り戻すべきなんじゃないのか?」
もしも彼女がリヴェラを離れ、何もかも忘れて生きたいと望んだとしても、ニトは喜んでその願いを叶えよう。だが、きっと彼女はそんなことは選ばない。考えもしない。その頑固で苛烈な矜恃こそ、ニトが魅せられ、すべてを捧げても惜しくはないと焦がれた魂の在り方だった。
「俺はおまえに生きてほしい。生きて、笑っていてくれ。幸せになってくれ。それが俺の、十年分の報酬だ」
「ずるいわ、そんな言い方……」
「俺は傭兵だからな。ずる賢くて当然だ」
ニトを恨めしそうに睨んでいたラウディリアは、張り詰めていた糸がほどけるようにふっと微笑んだ。朝露にきらめきながら咲き綻ぶ花のような、ニトが夢見た笑顔だった。
めまいがしそうな幸福がこみ上げる。
「おかえりなさい、ニト」
「――ただいま」
たどり着いた約束の庭で、彼は過ぎし日のままに、少年のように笑み崩れた。