02
ひどく喉が渇いていた。
右腕が焼けつくように熱い。痛みを越えて炎に包まれているような感覚に、ニトは低く唸った。床に爪を立てようとして――指がないことに気づく。
(違う、腕が、ない)
乾いた血が浮いた唇に、ぽつりと雫が落ちた。雨が降っているのだろうか。ぽたり、ぽたりと、冷たい水滴が額や頬に降りかかる。左手でまさぐると、細くやわらかな髪と、甘い桃のような膚に触れた。
「ニト」
泣き濡れた少女の声が彼を呼んだ。ニトは呻きながら瞼を押し上げた。視界の暗さに一瞬、光を失ったのかとおののくが、幼い輪郭が仄かに浮かび上がった。
「……らうでぃり、あ」
北風が吹き抜けるような掠れた声が洩れた。パタパタと涙が散り、小さな嗚咽が鼓膜に突き刺さった。ラウディリアは膝に乗せたニトの頭を掻き抱き、しゃくり上げた。
「ニト、ニト、ニトっ……」
えずく背中を抱き寄せ、ニトは少女の匂いを深く吸いこんだ。林檎の花の香りのように甘酸っぱい、子どもの体温を帯びた匂いだった。
――ラウディリアは生きている。それだけで、ニトは泣きたくなるような歓喜に胸を詰まらせた。
「ニト、どうしてっ、どうしてこんな……あなたの、あなたの腕が……」
「いいんだ。俺の腕なんて……おまえが無事なら……」
薄暗い部屋の中にニトは転がされているようだった。傷のひどい上半身や右肩には申し訳程度の包帯が巻かれているが、むっとするような血臭が鼻を突いた。多量出血による貧血と凄まじい激痛に砕かれそうな意識を必死に縛り上げ、ニトは左手でラウディリアの頬や肩を確かめた。
「おまえはどこか、怪我してないか?」
「わたくしは、だいじょうぶ。おとうさまにここへ連れてこられて、そうしたら、傷だらけの……右腕のないあなたが……倒れていて……」
恐怖を思い出したように、ラウディリアの体が大きく震えた。かわいらしい顔を涙と洟でぐちゃぐちゃにして、彼女はニトの左手に縋りついた。
「あなたまでいなくなっちゃうと思った……!」
その言葉に、ニトは両目を見開いた。どくん、どくん、と鼓動を刻む音が耳の奥で鳴り響く。
「ラウディリア……奥方様は――」
少女は激しく頭を振った。ぎゅっと左手を握る小さな指先が皮膚に食いこむ。ニトは身をよじり、ラウディリアの膝に額をこすりつけた。
「すまない、すまないラウディリア、俺は、俺は……ッ!」
どれほど悔いても、どれほど嘆いても、もう二度と奥方は帰ってこない。だれよりも自分たちを愛してくれた母をニトは見捨てたのだ。守ると約束したラウディリアの信頼を、裏切ったのだ。
(俺が、奥方様を)
引き絞るような悲鳴が今でも耳にこびりついている。あんなにも尊い女性が恥辱の果てに嬲り殺された。暗く汚れた場所に置き去りにした。
(なんて醜いんだ、俺は)
獣にすら劣る、誇りもない、みじめで愚かな生きものだ。何が剣闘士だ。何が狂犬だ。大事なものを守れぬこの腕に、いったいなんの価値があるというのだ!
血を吐くような慟哭だった。生まれてはじめて、ニトは声の限り泣いた。喉の渇きが嘘のようにぼろぼろと涙が溢れ、失った右手で床を掻き毟る。
「――ニト……」
もがくように揺れる右肩に小さな掌が触れた。ニトは全身を引きつらせた。ラウディリアの目を見ることが途方もなくおそろしかった。
だがラウディリアは許さず、抗えぬ優しさでニトの頬を撫でた。熱に膿んだ輪郭を包みこみ、薄氷のようにひび割れた鋼色の瞳を見つめた。
乱れた長い髪の内側で、青ざめた面が仄白く光っていた。幼さをどこかに置き捨て、悲しみに凍りついた表情で、彼女はささやいた。
「ニト、あなたは、わたくしが頼めばどんなことでもしてくれる?」
深い青の双眸の奥で揺らぐ激情に、ニトは顔を歪ませた。
(違う。俺はおまえに、そんな目をさせたかったんじゃない。そんな思いを知ってほしかったんじゃない)
少女はきっとまだ気づいていないだろう。自分の内側で燻る感情に、その意味に。怒りではない、どんな罪と引き替えにしても惜しくないと思うほどの狂気。
無垢な唇が冷ややかに命じる。
「おとうさまを、殺して」
ニトは大きく喘ぎ、ラウディリアの細い肩に額を押しつけた。華奢な腕が首に回される。
「おかあさまを殺したおとうさまを、あなたをこんな目に遭わせたおとうさまを、殺して。殺してしまって!」
「ラウディリア……」
「わたくしはおとうさまが許せない。絶対に許さない。だから、だから、お願いニト、あのおとこを殺してしまって!」
身を引き裂かれるようにラウディリアは叫んだ。ニトは少女をきつく抱き締めた。
(どうして、この子がこんなことを望まなければいけないんだ。母親を奪われ、父親を憎んで、苦しまなくちゃいけないんだ)
憎悪と苦悩に苛まれるのは自分だけでいい。ニトも奥方も、ラウディリアがいつまでも笑っていてくれることだけを願ってきた。その末に、こんな風に彼女の笑顔を失ってしまうなんて。
(せめて、おまえだけは。おまえの、幸せだけは)
「…………それが、おまえの望みなら」
震える声で答えると、ラウディリアの喉がひくりと鳴った。ニトはわずかに身を離し、軋む左手を彼女の頬に伸ばした。
今にもこぼれ落ちそうな双眸に唇を寄せ、彼は笑った。
「おまえが望むなら、おまえの傭兵が必ず果たそう。この命を懸けて、必ず」
「ニ、ニト」
「その依頼、確かに引き受けた」
ニトは剣を振るうことしか知らない。他者の命を屠る術しか知らない。叶うのならば、奥方やラウディリアのように、殺すのではなく生かす人間になりたかった。だれかを傷つけるのではなく、慈しみ、守る人間になりたかった。
もう、許されないけれど。
(だから俺は、剣でおまえに報いよう。おまえのために牙を剥く猟犬であることだけは、見逃してくれ)
最後まで、ラウディリアのために生きると嘯く、欲深い獣であることだけは。
「――五年」
「……え?」
「いや、十年、待ってくれ。十年の間に、あの男を殺すだけの――〈青髭公〉を地に引きずり落とし、リヴェラを奪うのに必要な力をつけて、帰ってくる」
右腕と引き替えに生き延びたが、おそらく自分は奥方を誘惑した罪人として追放されるだろう。今のニトでは辺境伯に喰らいつくことさえできない。何より、ただ単に死を与えるだけでは飽き足らない。
「あの男を、奥方様が味わったような絶望の底で破滅させてやる。そしてリヴェラを、だれよりも正統な、領主にふさわしいおまえの手に」
「そんな……」
「だから、しばしの暇乞いを願いたい」
ラウディリアは顔をくしゃくしゃにしてニトの首にかじりついた。薄い背中を撫でさすり、彼は主を呼んだ。
「我が君」
それは誓いであり、祈りだった。溢れるほどの狂おしさをこめて、白い貝殻のような少女の耳に口づける。
「どうか、お許しを」
「…………帰ってきて」
か細い声が懇願する。ラウディリアは咽ぶようにくり返した。
「絶対に、わたくしの許へ帰ってきて。ずっと待ってる。ニトを、ずっとずっと、待ってるから……!」
ニトは頷いた。何度も、大きく、頷いた。伏せた瞼の際から忘れていた涙が滲み、ふたりを濡らす。
少しずつ闇が明度を増していく。窓があり、その向こうの空で夜が明けようとしていることにニトはようやく気づいた。
憶えていよう。どれほどの苦難が待っていようと、身も魂もすり切れようと、この愛しさだけは。帰れと命じる、幼いままの主君の声だけは。
暗い夜の淵で、ニトの長い永い彷徨がはじまった。