01
※暴力・流血描写あり。
肺が腐り落ちるような悪臭は、ニトにとってひどく馴染みのあるものだった。
黴と、血膿と、人肉が焼け焦げた臭い。それらが石壁に何年も何十年もかけて薄黒く染みこみ、饐えた刺激臭になって囚人の嗅覚や呼吸を苛むのだ。
ジャラリ、と両腕を縛める鉄の鎖が鳴った。
「まだまだ動ける元気があるとは、威勢がいいことだなぁ駄犬よ!」
鋭い音を立てて革の鞭が剥き出しの背中を打ち据えた。ニトは軋むほど奥歯を食い縛った。床に触れるか否かの位置で浮いた爪先がギュッと強張る。
ニトは両腕を上げた姿勢のまま、天井から吊るされていた。引き締まった上半身にはおびただしい裂傷が走り、暗い灯りに血と汗がぬらぬらと光っている。
汗が目に入り、ニトは何度も瞬いた。鋼色の眸が鞭を持った獄吏を見る。片目が白く濁り、頭のてっぺんが禿げた痩せネズミのような男だった。獄吏は黄ばんだ前歯をにいと剥くと、勢いよく鞭をしならせた。
パァンッと皮膚が弾け、灼けるような痛みが脳天まで突き抜ける。ニトは微かに呻き声を洩らした。
「さすがは帝都一の剣闘士様だナァ。だが犬なら犬らしくキャンキャン鳴いてみせたらどうだ? ええ?」
鞭の柄の先で顎を上向けられ、ニトは眉間に皺を寄せた。何も答えない囚人に、獄吏は片眉を跳ね上げて鞭をかまえ直した。
しかし、再び鞭がニトを襲う前に、耳障りな音を立てて金属製の扉が押し開かれた。
「これはこれは、お館様!」
獄吏が慌てて礼を取る。扉の向こうから現れたのは、醜いほど肥え太った貴族の男――ラウディリアの父親だった。
「わざわざこのようなところにお越しになられるとは」
「犬の調子はどうだ?」
「へぇ。さすがは血をすすり、肉を喰らって生きてきた生粋の剣闘士。どれほど痛めつけようと聞き甲斐のある悲鳴のひとつも上げや致しません」
にやにやと笑いながら獄吏が答えると、辺境伯は小さく鼻を鳴らした。
「まったく面の皮の厚い犬めが。……だが、長くは持つまいて」
不穏な呟きをつけ足し、辺境伯はニトの目の前に立った。ニトは口の中に溜まっていた血混じりの唾を吐き捨て、男を睨んだ。
「――いったい、どういうつもりだ」
「それはこちらの台詞ではないか、闘犬よ。いや、今はニト・バルノァなぞというたいそうな名を名乗っていたか?」
辺境伯は薄く笑みを浮かべ、羊の腸詰めのような指で顎を撫でた。
「まさに飼い犬に手を噛まれるとは、このことか」
「俺はあんたの犬じゃない。俺の主は、ラウディリア・ドゥ・ティグレーだ」
淡々とした否定に、獄吏は濁った目をぎょろりと見開き、辺境伯は部屋中に響き渡るような声で笑い出した。こめかみに痛みを覚え、ニトは思いきり顔をしかめた。
「よくぞここまで手懐けたものだ! 呆れるような忠犬ぶりだな、バルノァよ」
笑いを収めた辺境伯は、青年の耳に唇を寄せてねっとりとささいた。
「それとも、おまえが私の妻と娘を手懐けたのか? 色事に長けた奴隷の手管は、さぞやすばらしいものであろうな」
「……何を言っている?」
ニトは小さく喉を鳴らした。辺境伯の肩越しに、開け放たれたままの扉が見えた。
(どうして、扉を閉めない?)
いつものように一日の護衛を終え、ラウディリアと奥方に挨拶を済ませて私室に戻ろうとしたところを数人の騎士に拘束された。ニトは帯剣を許されていなかったが、たとえ徒手でも立ち回ることは可能だった――魔法で調合された特殊な眠り薬さえ使われなければ。
意識を失って運びこまれたのは、城砦の地下にある拷問部屋だった。
鞭で叩かれた激痛に目を覚まし、そこからはひたすら責め苛まれ続けた。何度か獄吏を問い質そうとしたが、「汚らわしい犬め、罪人め!」と喚き立てていっそう手荒く鞭を振るわれるばかりで、固く口を閉ざすしかなかった。
「まさか身に覚えがないとでも?」
ジジ、とわずかな火が踊る。揺らめく陰影の下で、石のような双眸をうっそりとたゆませ、辺境伯が嗤った。
「貴様と私の妻が不義を犯していると、密告があった」
ニトは息を呑んだ。
「そ、んな……馬鹿げたことを!」
「あれが気に入っている庭で逢瀬を楽しんでいたそうではないか。他ならぬあれの側仕えの者が、痛む良心に耐えかねて教えてくれたのだ」
四阿の下で黙って控えていた中年の侍女の顔が頭をよぎった。ニトは歯を軋ませ、吠えた。
「奥方様がそんな真似をするはずがないとわからないのか!? 侍女が信用できないなら庭師に聞いてみればいい! あの方の名誉を傷つけるようなことなんぞ、何ひとつないとすぐに知れる!」
「では、何を話していた?」
「ラウディリアを守ってくれと言われたんだッ」
鋼色の眼を見開き、火花を散らさんばかりの烈しさで睨めつける形相は、まさに闘志を剥き出しにした狼犬そのものだった。
「てめぇの蛆が湧いた脳味噌で考えてるようなことを、あの方がするもんか! 奥方様はいつだってラウディリアやリヴェラの領民のために身を削って働いてる! てめぇが何ひとつ成さぬことを、あの方はいくつもやり遂げたんだ! 情けねぇ亭主の代わりになッ!」
「こ、の、無礼者めェ!」
獄吏が唾を散らし、何度も鞭を振るった。ニトの視界が真っ白に染まる。だが意識を飛ばす間もなく、頭から冷水を浴びせられた。
「……っ、はっ」
ぽたぽたと雫を垂らす顎を掴まれ、鞭の柄で頬を殴られる。そこへ、濡れた栗毛がぺたりと張りついた。
「吠え癖の悪い犬だ。ラウディリアは甘やかすばかりで、躾を怠っていたようだな」
辺境伯は愉快そうに喉を震わせた。粘つくような声が霞む意識に絡みつく。
「だが、その忠義は実に見事だ。私は美しいものは嫌いではない」
愛でるのではなく、踏みにじることにこそ悦楽を見出だした下衆の言葉だった。ニトはこみ上げる吐き気に顔を歪めた。
「貴様が我が娘を主人と呼ぶのなら、選ばせてやろう」
「なに、を……」
「妻か、娘か」
贅肉に埋もれた眸が背後を見遣る。開け放たれたままの扉の、更に奥を。
――声が、聞こえた。
女の、すすり泣くような、叫ぶような、悲鳴が。切れ切れに、石壁に反響し、火明かりを悲しげに震わせた。
「私の下ではかわいげもなく声も立てなかったというのに、よく啼くことだ」
男が笑った。つられて獄吏も下卑た表情を浮かべる。ニトは絶叫した。
「ティグレェェェェェッ!」
ガシャンッと鎖がけたたましく鳴った。狂ったように暴れる青年に、辺境伯は乾いた一瞥を投げた。
「感謝しよう、ニト・バルノァ。不義があろうとなかろうと、貴様は私にあの小賢しい女を正当に裁く機会を与えてくれた」
剣が欲しい、とニトは思った。目の前の首を斬り飛ばしてやりたい。犬のように喉笛を喰いちぎってやりたい。ああ、だれか、俺にこの男を殺させてくれ!
憎悪と殺意が黒々と燃え上がり、嵐のように渦巻く業火となって獣の魂を焼き焦がす。煮えたぎる怨嗟に身悶えるニトに、辺境伯はこの上なく優しく微笑んだ。
「さて――賢い忠犬は、幼いラウディリアにも母親のような責め苦を味わあせたいか?」
ニトは大きく身を震わせた。
「あの子には手を出すな!」
「貴様が望むのなら、先ほどの『礼』としてラウディリアだけは見逃してやろう。私もかわいい娘を手にかけるのは忍びない」
笑みを深めて男が問う。気づけば、ニトは泣いていた。赤黒く腫れ上がった頬を冷たい涙が伝い落ちる。嗚咽を押し殺し、彼は力なく項垂れた。
(ラウディリア……)
夏の光、緑風の匂い、そよぐ勿忘草の花の青さ、少女の笑顔、奥方の優しい掌の温度。守りたかった、そのすべてを。もう奪われたくなかった、一番大切なひとだけは。
(あの子を、頼みますね)
記憶の向こうからささやく声に、ニトはのろのろと顔を上げた。
違えられぬ約束のための、最初で最後の裏切りだった。
「殺さないでくれ……」
ひび割れた唇をわななかせ、懇願した。
「ラウディリアを……あの子だけは……傷つけないでくれ…………」
破鐘のごとき哄笑がとどろいた。辺境伯は両手を打ち鳴らし、子どものようにはしゃぎ騒いだ。
「すばらしい、すばらしい! 上出来だ、ニト・バルノァ! なんと愚かで美しい忠愛だ!」
辺境伯は恍惚に表情をとろけさせ、落涙する虚ろな瞳を覗きこんだ。
「その愚直さに免じて約束は守ろう。ラウディリアは髪の毛のひと筋すら損なうことなく、この手で健やかに育もう。安心せよ、番犬」
昏い絶望がニトを呑みこんでいく。奥方の悲鳴も、辺境伯の笑い声も、水底に深く沈んでいくように遠ざかる。
辺境伯は控えていた獄吏に場所を譲ると、ニトの利き腕を眺めながら命じた。
「牙の一本でも抜いてやれ。そうすれば無闇に吠え立てることもなくなるだろう」
「仰せのままに」
嬉しそうに獄吏は頷き、興味を失ったように踵を返した主人を頭を下げて見送った。重低音が肌を震わせ、再び濃密な腐臭が部屋を満たした。
ゆらゆらとたゆたう光を抜き身の刃が鈍く弾く。数えきれぬ人間の脂を舐め、吸い上げた血が滴り落ちるような断罪の剣だった。
「さァて、せいぜい今度は気持ちのいい声で鳴いてくれよ」
剣を手に、獄吏がひたひたと近づいてくる。その足音を数えながら、ニトは深い闇に瞼を閉ざした。