03
ラウディリアと過ごした日々を振り返れば、長かったようにも短かったようにも感じる。
ただ思うのは、あの幸福がもっともっと続いてほしかった、たとえ永遠ではなくとも幸福のままで終えたかったという哀切と――そんなちっぽけな望みすら己の手で守れなかった無力さだ。
常勝の剣闘士、戦うために生まれてきたと謳われた狂犬は、決して負けてはならぬ戦場で敗北した。
リヴェラで迎える三度目の夏だった。
「ニト、少しつき合ってくださらない?」
ラウディリアのいない場で奥方に空中庭園へ誘われたのははじめてだった。主君は行儀作法の授業の真っ最中で、暇を持て余していたニトは珍しいことだと思いつつ奥方に従った。何かあれば彼女の母も守ってほしいと、他ならぬ主君から『お願い』されていたのだった。
奥方はニトも見知った中年の侍女をひとり連れていた。彼女がティグレー家に輿入れする前から仕えている腹心らしい。思慮深げなまなざしの侍女は、未だに荒くれ者と揶揄されることもあったニトにも楚々とした笑みを見せてくれる。
見慣れた白い日傘をくるりと回しながら、奥方は夏の庭をゆったりと歩く。淡い菫色のドレスに包まれたほっそりとした後ろ姿は、八歳の娘がいるとは思えぬほど若々しく、少女のようですらあった。
ニトは少し距離を空けて彼女のあとを追いかけていた。伸びた分だけ項で括った縮れ毛は、深い栗色に光りながら豊かに流れ落ち、その様は若者らしいしなやかな艶を帯びている。鋼色の瞳は鋭く研ぎ澄まされているが、ふとした拍子に覗かせる屈託のない微笑に心をときめかせる侍女や下女がいることを当の本人は知らなかった。
今年も色鮮やかに香る勿忘草の絨毯を行き過ぎ、やがて庭園の最奥に建つ四阿にたどり着いた。奥方は日傘をたたんで侍女に預けると、陛を上がって振り返った。
「どうぞあなたもいらして」
ニトは促されるまま四阿に入った。鳥籠を思わせる円形の屋内には、蔦を模した脚の卓と揃いの椅子がふた組置いてあった。奥方はそのうちのひとつに腰を下ろし、ニトはわずかに迷った末、向かい合う席の椅子を引いた。
奥方は娘より淡い金髪を編みこみ、絹のリボンを使って美しく結い上げていた。透けるように白い肌に映える翠色の瞳は、ラウディリアが夏の空ならば彼女は夏の湖面を思わせる。
「ごめんなさいね。どうしても、あなたとお話ししたいことがあったから」
「いや……ラウディリアのことか?」
すまなそうに微笑む奥方にひとつ頭を振り、ニトは声をひそめて尋ねた。
「ええ」
奥方はそっと湖水色の眸を細めた。
「ニト、あなたはあの子をどう思いますか?」
「どう……とは?」
「あなたから見て、ラウディリアはどんな子かしら」
ニトはわずかに眉をひそめ、薄く笑んだままの奥方の面を見据えた。
「俺は人並の貴族の娘というものは知らねぇ。だが、あいつがそこらのやつより賢いのはよくわかる。単に知識があるだけじゃなく、物事をよく理解してるし、機転も利く。割と泣き虫なくせに、いざっていうときには度胸を見せる。あいつが跡継ぎになれる男だったらよかったのにって、みんな口を揃えて言ってるな」
「あなたも、ラウディリアが男子あればと……そう考えますか?」
「いいや」
あっさりと首を横に振った青年に、奥方は虚を衝かれたように瞬いた。その顔が驚いたときのラウディリアにそっくりで、思わず笑いが洩れた。
「俺は別にラウディリアが男でも女でもかまわない。いや――俺が出会った、今のままのラウディリアが一番いい、と答えればいいのか? 確かにあいつが男だったら立派な領主になるかもしれねぇが、だからってそれが女であるラウディリアが劣る理由にはならないだろ?」
幼いながらも気品と知性に溢れ、何より心根の清い姫君をだれもが褒め称える一方で、「若君だったならばどんなによかったか」と口々に嘆いている。ラウディリアには異腹の兄弟が幾人もおり、そのなかでも特に母親の血筋がよく、父親の気性を色濃く受け継いだ何番目だかの息子が跡継ぎに決まっているそうだ。ニトも一度会ったことがあるが、顔を合わせた途端に「犬畜生風情めが無礼であろう! 這いつくばれ!」と長剣の鞘で殴打された。
(あのあと、ぶち切れたラウディリアに口先でさんざん叩きのめされてたな……いい気味というか、ちょっとかわいそうなくらいだったが……)
ニトとしては、異母兄を言い負かしたあとに盛大に泣きつかれ、「ごめんなさい」をいつまでもくり返されたことのほうが胸に痛かった。犬と嘲られることも理由もなく暴力を振るわれることも、奴隷だったニトには慣れたことだ。じっとうずくまっていればいつか嵐は通り過ぎる。だが、慈雨のように降り注ぐ労りは、すっかり薄くなった古傷にすらひどく沁みた。
しゃくり上げるラウディリアを必死に慰めながら、彼は思ったのだ。本当に、自分はもうこれ以上望むものもないほど幸せなのだと。
「俺は、そのままのラウディリアが好きだ。できることなら、あいつが許してくれる限りずっと一緒にいたい」
それはがんぜない少年のように純粋で、素直な言葉だった。ニトは明るい庭園のどこかにラウディリアの姿を探すように遠くを見つめた。
「……あいつも貴族の娘だから、いつかはどこかへ嫁に行くっていうのはわかってる。そうなればきっと俺はお役御免だろうし、ここにもいられなくなるだろう。なら、せめて……あいつが子どもでいるうちは、あいつのそばにいたい」
どんなに不変の友情を約束しても、ふたりがともに過ごせる時間は有限だ。お転婆な少女はやがて母親のように美しい令嬢に成長し、彼女にふさわしい男の許へ嫁いでいく。いつか子を産み、彼女自身が母となり、その才知と人柄でだれからも敬愛される貴婦人になるに違いない。
そしてきっとその隣に、自分はいない。
「それでいいさ。あいつが幸せそうに笑っていてくれるなら、俺はそれだけで充分だ。もしもあいつが望めば、俺はもう一度奴隷に落ちたってかまわない。どんな薄汚いことだってできるだろうな」
ニトは笑った。そして沈黙したままの奥方へ、鮮やかに、厳かに宣誓した。
「俺はラウディリア・ドゥ・ティグレーの生涯の友であり、この身を剣と盾として捧げる傭兵ニト・バルノァだ」
それは彼を彼たらしめる、唯一無二の誇りだった。
奥方は深く息を吸いこむように目を伏せ、微かに震える声で言った。
「――ありがとう」
「……礼を言われる覚えはねぇぞ?」
「いいえ、言わせてください。あの子はとても得がたい宝を手に入れたのですね。母として、あなたのようなすばらしい方が我が子のそばにいてくれることに、どれほど感謝してもし尽せません」
翠色の瞳を潤ませ、奥方は微笑んだ。繊細な透かし編みの手袋に包まれた白い手が、そっと青年の手に触れる。
「傭兵ニト・バルノァ。あなたにお願いしたい」
凛としたまなざしを前に、ニトは表情を引き締めた。
「もしもたったひとりを選ばなければならなくなったときは、迷わずラウディリアを連れて逃げてください。あの子の命を、守ってあげてください」
「……どういう意味だ?」
訝しむニトに、奥方は小さく頭を振った。「確かなことは、まだ何も言えません」と薄く紅を刷いた唇が呟く。
「ただ、『そのとき』は――必ずラウディリアの身を優先することを、わたくしはあなたに依頼します」
白皙の面は凪いだように静かだった。ニトは問い質したいもどかしさをぐっと噛み殺した。
――たとえば、奥方とラウディリアのどちらかを切り捨てなければならなくなったとしたら。
返すべき答えは、すでに決まっていた。
「承知した」
奥方は娘を褒めるときのような優しい笑みで応えた。その瞳の奥に秘められた覚悟を見つけた瞬間、ニトはまばゆい夏の庭に不意に翳りが差したような不安を覚えた。
「あの子を、頼みますね」
リヴェラで迎える三度目の夏だった。
そして、奥方にとってもこの地で過ごす最後の季節になることを、ニトはまだ知らなかった。




