02
リヴェラは帝国の最南端に位置する巨大な要塞都市である。
国土の大半を峻険な山脈と荒涼とした凍土に覆われている帝国において、慈悲深い夏の乙女が最も長く逗留し、豊かな実りがもたらされる土地だった。中央部と南部を隔てる山々によって北部から吹きつける雪風から守られ、更に南方に広がる平野の温暖な気候の恩恵を受けているおかげだ。雪深い帝都エスラバドでは夏の盛りでも路地のあちこちに凍りついた死体が転がっているというのに、リヴェラでは陽射しに輝く緑の田畑で農夫たちが汗を流している。
太陽に愛された豊饒の都を治めるのは、帝国の四方を守護する四大辺境伯のひとつを拝するティグレー家である。系譜を遡れば帝国の黎明期を切り拓いた賢君に行き着く名門で、長きに渡って中央の諸侯を凌ぐ権勢を誇ってきた。それはひとえに血筋や領地だけでなく、歴代の領主が持つ才覚や志の高さに恵まれてきたからだろう。
『リヴェラの主ほど勇ましく、誇り高きもののふは他にあらず』と称えられたのはいつの世のことだったか。皇族を頂点とする帝国貴族が臣民の善き守護者であった時代は、もはや過去でしかない。
かつて北海の彼方より襲来した〈虚影の軍勢〉に抗するため、北方の民が手に手を取って立ち上がったことがエスラディア帝国の起源である。盟主である初代皇帝を筆頭に、諸侯の祖先たちは我が身を盾と矛として先陣で戦い続けた英雄だった。聖槍ブリューナクに選ばれし〈雷帝〉カールレヒトの御代に〈虚影の軍勢〉を打ち破り、平和と安寧の世が訪れてもその誇りは脈々と受け継がれてきた――はずだった。
千年を越える長い歴史のなかで、いつしか安寧は怠惰と腐敗の温床となり、守護者の矜恃は支配者の傲慢へと成り下がってしまった。帝国騎士の鑑と謳われたエスラディア南部辺境伯は、今やおとぎ話の暴君になぞらえて〈青髭公〉と呼ばれている。領民たちから過剰な取り立てを行うだけでなく、若い娘や子どもをさらってきては慰み者にしたり、『狩り』と称して猟犬に追わせた挙句に嬲り殺したりする、血も涙もない氷でできた髭を生やした狂人だと。
(狂っているといえば狂っているが、貴族としてはごく『正常』だ)
自分を買い上げた男の評判を改めて聞いたニトは、淡々とそう思った。むしろ、ますます自分の新しい主人とその母親が変わっていることを実感した。
「ニト、早く早く!」
夏の陽射しがきらめく庭園を、ドレスの裾を翻してラウディリアが走っていく。頬を紅潮させ、何度もニトを振り返る瞳にはいつにも増して光が溢れていた。ニトは少女に頷きつつ、隣を歩く辺境伯夫人をちらりと見遣った。
レースで縁取られた白い日傘を差した奥方は、視線で窺ってくる青年に目を細めた。くすくすとおかしそうに笑う顔は、やはり彼女の娘にそっくりだった。
「わたくしのことはかまいませんよ。どうぞあの子のところへ行ってあげてちょうだい」
「……わかった」
ニトは短く返すと、足早にラウディリアを追いかけた。彼女の名を呼ぼうとして、わずかに考える。
「メイ」
ラウディリアはきょとんとした顔で立ち止まった。
「わたくしのこと?」
「おまえに借りた絵本に書いてあった。ちっこいやつをそう呼ぶんだろ?」
「まあ、淑女に向かって失礼ね」
いつものように膝を折って視線を合わせれば、桃色の頬がぷくっと膨らんだ。淑女というには子どもらしい表情に、ニトは微かな笑い声を洩らした。
声を立てて笑うということを、彼はいつの間にか身につけていた。
「あのね、ニト。メイは単に『小さい』ではなくて、『かわいい』とか『大切』とか、そういう意味があるの。だから軽々しくご婦人に向かって『おちびちゃん』なんて呼んではいけないのよ?」
ニトと接するとき、ラウディリアは幼い弟に物事を教える姉のような口ぶりで話す。実際、彼女はニトよりもさまざまなことを知っていたし、教えられることのほうが多かった。ニトにとって、ラウディリアは守るべき主人であり、ともに学ぶ友であり、優しい姉であり……だがやはり妹のような女の子でもあった。
「なら間違っていないだろう。俺にとって、おまえはかわいいおちびちゃんなんだから」
膝の下から腕を回して抱き上げると、ラウディリアは驚き混じりの歓声を上げた。
片腕に座らせるようなこの格好は、彼女のお気に入りで幾度となくせがまれたものだった。なんのためらいもなくニトの首に抱きつきながら、ラウディリアは笑いながら怒るという器用な表情を浮かべた。
「もう、ニトったら! あなたみたいな殿方を女たらしって言うのよね?」
「どこで憶えてくるんだ、そんな言葉」
「庭師のレンスが教えてくれたの。『ニトの旦那はさぞや帝都で浮名を流したに違いねぇ』って言っていたわよ」
名もない奴隷にすら分け隔てなく接するラウディリアや奥方は、城内の使用人や領民たちから篤く慕われていた。奥方は夫の所業をたびたび諌め、私財を投じて治水を整備したり施療院を作ったり、領内の公共事業に手を尽くしている。辺境伯の気まぐれの犠牲者やその遺族を密かに保護し、ときには領外へ逃がす手引きも行っていた。
この空中庭園を任されている庭師も、奥方に救われたひとりであるらしい。ひょうきんだがどこか憎めない彼は、拷問によって右の目と耳を失っていた。
(悪いやつじゃないが、滑りすぎる口だけはなんとかならねぇか)
ニトは苦い豆を噛み潰したように顔をしかめた。
剣闘士にとって娯楽といえば酒と色事しかない。幼い頃は何度も男娼のような真似をさせられたし、いっぱしの剣闘士になってからは与えられるままに『褒美』を受け取ってきた。確かに相手に困ったことはないが、ラウディリアの耳に吹きこむにはあまりに生臭く汚れている。
「……あいにく、女にもてたためしはねぇな」
奴隷以外ならば、嘘ではない。ラウディリアは青い瞳をくるめかせ、首を傾げた。
「ほんとうに?」
ぐっと喉の奥が詰まりかけたが、なんとか平静を装って「ああ」と頷く。ニトの姫君はうふふと笑った。
「そういうことにしてあげる」
無邪気な言葉が、なぜかひどくおそろしい。
背中に冷や汗を覚えながら庭園の奥に進んでいくと、ラウディリアが一方を指差して声を上げた。
「ニト、あそこよ、あの花壇!」
ニトは吐息を洩らした。
息を呑むほど鮮やかな青い色が一面を染めていた。庭園の一画に設けられた花壇を覆い尽くす花の群生。小さな青い花がこぼれるように咲き乱れ、夏の風にやわらかく揺れている。
「レンスが教えてくれたの。勿忘草の花が満開になったって!」
「……おまえと同じ名前なのか?」
目を瞬かせるニトに、ラウディリアはくすぐったそうに微笑んだ。
「ええ、そうよ。わたしくしの名前はこの花にちなんでおかあさまがつけてくださったの。だれもが待ち焦がれた夏を告げる勿忘草のように、たくさんの歓びを与えられるひとになるようにって」
きらきらと光る少女の双眸を見つめているうちに、ニトはふと気がついた。甘い若葉の香りのする風がどこまでも吹き抜けるような夏空の色。勿忘草の花の色だ。
輝くように麗しい夏の乙女は、きっとこんな瞳をしているに違いない。
「おまえによく似合う、いい名前だな」
くしゃりとサフラン色の髪を撫でると、ラウディリアは嬉しそうに頬を寄せた。彼女の好きな『ひみつのおはなし』をするときのように白い掌で口元を隠し、そっとささやく。
「あのね、ニト。勿忘草の花には『真実の愛』や『真実の友情』という意味があるのですって」
貴族社会では、美しい花にさまざまな思惑を託して相手に贈る風習がある。ときには同じ種類でも色や咲き合いによって意味が異なり、たとえば赤い薔薇は身を焦がすような熱情を訴えるが、黄色の薔薇は恋の終わりを告げ、三本の蕾に一本の花を添えれば永遠の秘密を求めているのだという。なんともまだるっこしいやりとりだが、貴族にとっては教養の高さを誇示する優雅な嗜みのひとつなのだ。
そして勿忘草にこめるのは、澄み渡る夏の蒼穹のように曇りない真心。
「この花は、わたくしとあなたの友情の証よ。賢帝と傭兵が永遠を誓ったように、わたくしも約束するわ。たとえどんなことがあっても、わたくしはあなたのおともだちよ」
不意に、ニトは大声を上げて泣きたくなった。剣を振るうことしか知らぬ武骨な掌で小さな顔を包めば、ラウディリアははにかむような笑みをこぼした。
もしも彼女の言う永遠があるのならば、今この瞬間、時が止まってしまえばいいのにと思う。
「俺も、誓おう」
熱い頬に触れ、額を重ね合わせ、ニトは祈るように目を閉じた。
「決しておまえを裏切らず、偽らず、何が起ころうとおまえの味方であることを。おまえのよき友であり、おまえだけの傭兵であることを、おまえの名前に約束する」
心から、彼は呼んだ。
「愛しき我が君」