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傭兵と報酬  作者: 冬野 暉
夏の庭
3/10

01

 磨いたような初夏の空のまぶしさを、ニトは十二年が過ぎた今でもはっきりと思い出せる。

 新緑の甘く瑞々しい匂いに満ちた空中庭園。昼下がりの陽射しに石畳が白々と輝き、青年の目を眩ませた。噴水から勢いよく湧き出す水は光の粒となって飛び散り、緑陰を揺らす風をいっそう心地好いものに変えていた。

 彼はつい先日まで、血腥い闘技場で飼われていた剣闘士だった。数多の剣闘士のひとりに褒賞としてあてがわれた女奴隷の胎から産まれ、剣戟の音を子守唄に育ち、当然のように剣闘士となった。十歳を数える頃には剣の握り方を覚え、飢えた猛獣と渡り合い、前座の余興として大いに観衆を沸かせた。そして今や闘技場で彼に敵う者はなく、その抜きん出た強さをある貴族に気に入られ、平民のひと家族が一生遊んで暮らせるほどの『はした金』で買い取られたのである。

 彼を買い上げた貴族は、この帝国でも一、二を争う名家の主人だと教えられた。でっぷりと肥えた豚が派手な仮装をしたような壮年の男は、彼を末娘への贈りものにするとたるんだ顎を震わせて笑った。

「『犬が欲しい』とさんざんねだってきおったからな、番犬にはちょうどよかろう」

 その言葉が娘想いの父親のものではないと、今なら断言できる。

 なぜなら、噴水のほとりで彼と引き合わされた少女は恐怖にも似た驚愕で幼い頬を強張らせたというのに、主人はそれを見て笑声を上げたのだ。少女のそばにいた若い母親が美貌を怒りに染めて抗議する様子を満足そうに眺めていた。

 ――詰まるところ、彼は主人の妻と娘に対する嫌がらせの品だったのだ。それも、極めて悪質な。

 政略結婚で嫁いできた奥方と彼女によく似た娘を主人は疎んじていた。下層の人々を『国家の家畜』と蔑む典型的な帝国貴族だった主人に対し、母娘はまるで濁りきった油の中に落ちてしまった透明な水滴のようだった。

「あなたというお方はどこまで恥を知らぬのですか!」

「犬を犬と言って何が悪い? かわいい娘の慎ましいわがままを叶えてやろうという親心ではないか」

 すっかり青ざめて言葉を失っている娘を抱き締めた奥方は、嗤笑を浮かべる夫を烈しく睨めつけた。たおやかな淑女が放つ斬りつけんばかりのまなざしに、彼は思わず息を呑んだ。

「ふむ、これでは気に入らぬと申すか」

 わざとらしく顎を撫でた主人は、どろりと絡みつくような視線を彼に向けた。

「それでは『処分』するしかあるまい」

「なっ……!」

 奥方が上擦った声を上げる。母親の腕の中で少女は小さく震えていた。

 ああ殺されるのか、と彼は漠然と理解した。

 絶対的な階級社会で成り立つ帝国において、最下層の奴隷は真実家畜だった。田畑を耕す農奴は『牛馬』と揶揄され、娯楽のために血濡れた舞台で踊る剣闘士は侮蔑をこめて『闘犬』と呼ばれる。物のように売買され、病や怪我で使いものにならなくなければ簡単に間引かれた。たとえ気まぐれに奴隷を殺したとしても罪に問われることはない。

 ――彼らには人として生き、死ぬ権利など最初から与えられていないのだから。

 剣闘士として剣を取った瞬間から、常に死は彼の傍らにあった。深い夜のような影が目の前に立ち、じぃっと顔を覗きこんでくるのだ。凍てついた指先が脈打つ首筋に触れたことなど数えきれないほどある。

 同じ奴隷が競争相手ならば、彼には死の魔手を振り払うだけの力と才があった。だが、ここは闘犬たちが殺し合う檻の中ではなく、振り下ろされる鉈を待つしかない屠殺場なのだ。

 絶望ともいえない虚脱感が冷たい水のように染みこんでくる。できればあまり苦しまずに死にたいとぼんやり考えていた彼の耳に、ふと、震える雫のような幼い声が聞こえた。

「おとうさま……わたくし、いただきます」

「ラウディリア?」

 奥方が驚いて娘を見る。少女は庇護の腕から抜け出すと、思い詰めたような表情で父親の前まで進み出た。

「失礼なことをしてごめんなさい。わ……わたくしのためにこんな素敵な贈りものをいただけるなんて、嬉しいです」

 ぎこちない笑顔を浮かべる娘に、主人はつまらなそうに鼻を鳴らした。

「気に入ったのであれば受け取るがいい。――せいぜい、手足を噛みちぎられぬように用心することだ」

 冷え冷えとした皮肉に薄い肩がびくんと揺れる。しかし少女は俯くことなく、青い瞳に涙と強い光をこめて主人を見据えた。

 瑞々しい桜桃のような唇がにっこりと微笑む。

「ありがとうございます。手懐ければさぞよい忠犬になることでしょう」

 彼は呼吸を忘れて少女に見惚れた。

 今まで目にしたどんなものより手強く、鮮烈な表情だった。

 すっかり興醒めしたらしい主人は顔をしかめ、踵を返した。置き去りにされた彼はその背中をぼうっと見送った。

「……お名前はなんというの?」

 下から尋ねてくる可憐な声に視線を引き寄せられる。彼の足元まで近づいてきた少女は、目いっぱい上を向いてこちらを見つめていた。

「わたくしはラウディリア・ドゥ・ティグレーというの。あなたはなんとおっしゃるの?」

 間近にすると、彼女の人形のような愛らしさがよくわかった。肩のあたりで切り揃えた濃い黄色の髪を上半分だけまとめ、若草色のリボンで結んでいる。同色のドレスには白いレース飾りがあしらわれ、あどけなくも清楚な顔立ちをよく引き立てていた。

 だが、赤く色づいたやわらかそうな頬や大きくまろい双眸には、人形には持ちえない活き活きとした魅力が溢れていた。まるで少女の内側からきらきらと輝く粒子がこぼれ落ちているようだった。

 その光をもっと近くで見たくて、彼は自然と膝を折って視線を合わせていた。

「……名前は、ない」

 このとき、彼ははじめて名乗る名前を持たないことを残念に思った。

「同じ奴隷や主人からは『栗毛』と呼ばれていた。客の間では、『狂犬』で通っていたらしい」

 まともに洗ったことなどない縮れ毛のひと房を引っ張ってみせると、少女はひどく悲しそうに唇を引き結んだ。『毛色』で識別されることなど奴隷の間では常識だが、この少女にとってはたいそう胸を痛める事実であるらしい。

 どうすれば彼女の表情を変えることができるのかわからず、彼は途方に暮れた。

「――あなたが名づけてさしあげなさい、ラウディリア」

 ほっそりとした白い手が少女の肩を優しく包みこんだ。娘を後ろから抱き締めるように膝をついた奥方は、穏やかな笑みを浮かべて少女と彼を見比べた。

「奴隷に姓名を与えるのは、主人がその身分から解放するということなのです。今では廃れてしまった風習ですが……」

「この方を自由にしてあげることができるの?」

「そうです。そしてその権限は、この方の主人となったあなたにしかないのですよ」

 母親の言葉を噛み締めた少女は、真剣なまなざしで問いかけてきた。

「あなたは、自由になりたい?」

 尋ねられた事実と内容に驚くあまり、彼は瞬きを忘れて小さな主人を凝視した。

 彼の知る『貴族』という人種と、目の前の母娘はあまりにかけ離れていた。まるで――彼が彼女たちと同じ人間であるかのように見つめ、語りかけてくる。

 それは、ありえぬはずの奇跡を見出したような気持ちだった。

「……わからない」

 だからこそ、彼の口からこぼれたのは素直な答えだった。

「俺はずっと闘技場の中で生きてきた。外の世界なんて知らなかったし、興味もなかった。それよりも、どうやってうまく試合相手を仕留めて客や主人を喜ばせるか……明日も飯にありつける保障を貰うことが大事だった。だから、自由になって……それでどうやって生きていけばいいのかなんて、わからない」

 殺し殺され、弱者はひたすら淘汰されていく檻の内側で、夢を見ることなどだれも教えてくれなかった。晴れた空がこんなにも青く高いことも、注がれる陽射しがあたたかいことも、花や木々が目を灼くほどに色鮮やかなことも、それらを美しいと感じることも知らなかった。

 もしも人になれるのならば。生まれてきたことを憎まず、恨まず、愛し尊べるようになれるのならば。

「教えてくれ。人はどうやって生きるのか。どんなときに笑って、どんなときに泣くのか。父とは何か、母とは何か、心とは何か……俺は知りたい。俺がいる、人が生きるこの世界を知りたい」

 澄みきった少女の瞳が彼を映す。ざんばらな縮れ毛、肉を削げ落としたように頬骨が突き出した顔、無精髭、脂にぎらつく鋼のようだと揶揄されたことのある色の瞳。こんなにも醜く汚れた獣でも、彼女と等しい存在になれたのならどんなにすばらしいだろう。

 不意に、息を呑むほどやわらかく熱い掌が彼の手をくるみこんだ。今度こそ心臓が止まるような衝撃に硬直した彼へ、少女はふわりと笑ってみせた。

 光のなかで白い花が咲いたようだった。

「わたくしが教えてあげる。わたくしが知っていることはほんの少しだけれど、わからないことはふたりでお勉強しましょう。いいことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、たくさんたくさんあなたと探してみたい」

 彼はおそるおそる少女の手を握り返した。もう一方の小さな掌が優しく添えられる。それが、確かな応えだった。

「わたくしのおともだちになって。……ニト」

「ニ、ト?」

「あなたのお名前よ、ニト・バルノァ。千の勇気と知恵を持った傭兵で、困っているひとを大勢助けるのよ」

 のちに詳しく聞けば、それは古い民間伝承に登場する英雄の名前だった。悪がはびこる時代、ただひとり善良な心を失わなかった皇子と友誼を結び、彼と彼の民のために闇に身を落とした義賊。やがて名君となる皇子との永遠の友情こそ生涯最高の報酬と叫んで敵の刃にかかった彼は、敬意をこめて〈賢帝の傭兵〉と呼ばれる。

 いつか、そんな誇り高い人間になれるように。

「よろしくね、ニト」

 光り輝く世界そのもののように少女が笑う。彼は――ニトはまぶしさに目を細め、気づけば彼女と同じ表情を浮かべていた。

「ああ……よろしくな、ラウディリア」

 それが、ニトが最初の友と出会い、もう一度この世に生まれ落ちた瞬間だった。

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