02
彼女は城砦の最上階にある空中庭園にいた。
なぜ戦のための建造物にそんなものを作ったのか、時に『戦争屋』と揶揄される傭兵のニトには理解しがたい。しかし、贅を尽くして整えられた庭園は確かに美しく、彼女やその母親が愛した思い出の場所に違いなかった。
螺旋階段を上がりきったところで、庭園に続く扉の番をする中年の男と出会った。右目と右耳のあるべき部分が焼き潰されたように爛れている。彼はニトの顔を見ると、複雑そうな表情で扉を開けた。
「四阿でお待ちになっています」
「すまねぇ」
ニトは苦笑を返し、男の脇を通り過ぎた。
空はすでに紫から水色へと移り変わり、東の地平から金の光が陽炎のように滲み出している。煤と血の混じり合った戦場の腐臭を澄み渡った朝の風が散らし、ニトは深く息をついた。
名高い宮廷画家が描いたような庭園は、在りし日の光景そのままだった。風に揺れる花の香り、緑のなかに佇む女神や聖獣の彫刻、水盤に清らかな水を湛えた大理石の噴水。石畳の敷かれた通路には枯れ葉一枚落ちていない。
ニトは記憶をなぞりながら通路を進んだ。やがて庭園の最奥にひっそりと建つ、四阿の白い屋根が見えた。
蔓薔薇が支柱を伝うその下に、華奢な人影が淡く浮かび上がっていた。
四阿の階下にたどり着いたニトは、ゆっくりと片膝をついて頭を垂れた。
「……たいへんお待たせ致しました」
微かな衣擦れが頭上からこぼれる。ニトはこみ上げる感嘆を堪え、彼女の言葉を待った。
声が聞きたかった。
「――よくぞ戻りました、ニト・バルノァ」
それは、彼女の母親のものとよく似ていた。
やわらかな足音がゆっくりと階を下りてくる。「顔を、見せて」と震えているような声音がささやきかけた。
ニトは視線を上げた。
曙の女神の羽衣のような、長いサフラン色の髪が揺れる。ほっそりとした身を包む藍色のドレス、白い首と小さな顎、固く引き結ばれた珊瑚色の唇と――雫を湛えて見つめてくる青い瞳。
仄かな光を帯びたような十八歳の乙女がそこにいた。
「……本当に、ニトなのね?」
こわごわと伸ばされた繊手を、ニトは目を伏せて押し戴いた。
「お久しぶりです――我が君」
彼女こそ、ニトが再会を願い続けたそのひと――南部辺境伯クレメンシス・ドゥ・ティグレーの息女、ラウディリアだった。
かつてニトに名と魂を与えてくれた小さな姫君。この手で守ると誓いながら、結局何も果たせなかった。
優しかった彼女の母親と右腕を失ったあの日から、ラウディリアの望みだけがニトを生かしてきた。
「ニト……よく、よく無事で」
ラウディリアはドレスが汚れるのもかまわず、ニトの目の前に膝をついた。やわらかな掌がぎゅっと両手を包みこむ。
「十年前、あなたから受けた依頼を果たしにきました」
ニトはラウディリアをまっすぐ見つめて告げた。少女は目を瞠り、すぐに悲しみに顔を曇らせた。
「……ニト」
「父君を討ち、母君の仇を取ってほしい――あなたは傭兵にそう望みましたね」
ラウディリアの唇が微かにわななく。何かを言いかけ、呑みこんで、彼女はそっと睫毛を伏せた。
「ええ……確かに、わたくしはあなたに母の仇討ちを頼みました。だから……あなたは、リヴェラに戻ってきたのね」
「傭兵は、引き受けた仕事を完遂してこそ傭兵ですから」
ニトは彼女の傭兵だった。誇り高い騎士などなれない。あるのはただ、ラウディリアからの報酬を手に入れたいという欲望だけ。
長くつらい放浪の日々も、それだけで耐えられた。
「あと少し――夜が明けたら、南部辺境伯は処刑されます」
ラウディリアはひゅっと息を呑んだ。夏の空を映したような双眸が震え、縋るように見上げてくる。
ニトは静かに彼女を見つけ返した。
「リヴェラは解放される。……あなたも、もうだれも憎まず苦しまなくてもいいんだ」
「ニ、ト」
「俺が望むのはひとつだけです。もう一度、あなたの笑った顔が見たい」
少女の美しい顔が歪む。溢れた涙が青ざめた頬を濡らし、細い体がニトの腕の中に崩れ落ちた。
ニトは万感の思いをこめてラウディリアを抱き締めた。
「泣かないでくれ、おちびちゃん」
十年ぶりにこぼれ落ちたそれは、ニトだけに許された幼い姫君を呼ぶ愛称だった。
「ひとりぼっちにしてごめんな。ずっと泣いてたんだよな」
ラウディリアが首を横に振る。しゃくり上げながら言った。
「な、泣けなかった。泣いちゃいけないと思ったの。だって、ニトがこんな目に遭ったのはわたくしのせいなのに……!」
泣き虫だった少女の告白に、ニトは狂おしいほどの愛しさを覚えた。奥歯を噛み締めて両腕に力をこめる。
「もう、いいんだ」
いくつもの夜を越えて、ラウディリアを想わぬ日などありはしなかった。彼女も自分と同じように忘れずにいてくれたことだけで、ニトの十年は報われた。
ただ、ただ、今願うことはひとつだけ。
「どうか笑ってくれ」
ニトは少女の向こうに輝くような朝焼けを見た。透きとおった光がたなびく雲に射し、静かな産声が上がるようにリヴェラの街を黄金に染めていく。
生まれ変わろうとする世界の中心で、ニトは確かに祝福の鐘の音を聞いた。