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傭兵と報酬  作者: 冬野 暉
夜明け
2/10

02

 彼女は城砦の最上階にある空中庭園にいた。

 なぜ戦のための建造物にそんなものを作ったのか、時に『戦争屋』と揶揄される傭兵のニトには理解しがたい。しかし、贅を尽くして整えられた庭園は確かに美しく、彼女やその母親が愛した思い出の場所に違いなかった。

 螺旋階段を上がりきったところで、庭園に続く扉の番をする中年の男と出会った。右目と右耳のあるべき部分が焼き潰されたように爛れている。彼はニトの顔を見ると、複雑そうな表情で扉を開けた。

「四阿でお待ちになっています」

「すまねぇ」

 ニトは苦笑を返し、男の脇を通り過ぎた。

 空はすでに紫から水色へと移り変わり、東の地平から金の光が陽炎のように滲み出している。煤と血の混じり合った戦場の腐臭を澄み渡った朝の風が散らし、ニトは深く息をついた。

 名高い宮廷画家が描いたような庭園は、在りし日の光景そのままだった。風に揺れる花の香り、緑のなかに佇む女神や聖獣の彫刻、水盤に清らかな水を湛えた大理石の噴水。石畳の敷かれた通路には枯れ葉一枚落ちていない。

 ニトは記憶をなぞりながら通路を進んだ。やがて庭園の最奥にひっそりと建つ、四阿の白い屋根が見えた。

 蔓薔薇が支柱を伝うその下に、華奢な人影が淡く浮かび上がっていた。

 四阿の階下にたどり着いたニトは、ゆっくりと片膝をついて頭を垂れた。

「……たいへんお待たせ致しました」

 微かな衣擦れが頭上からこぼれる。ニトはこみ上げる感嘆を堪え、彼女の言葉を待った。

 声が聞きたかった。

「――よくぞ戻りました、ニト・バルノァ」

 それは、彼女の母親のものとよく似ていた。

 やわらかな足音がゆっくりと階を下りてくる。「顔を、見せて」と震えているような声音がささやきかけた。

 ニトは視線を上げた。

 曙の女神の羽衣のような、長いサフラン色の髪が揺れる。ほっそりとした身を包む藍色のドレス、白い首と小さな顎、固く引き結ばれた珊瑚色の唇と――雫を湛えて見つめてくる青い瞳。

 仄かな光を帯びたような十八歳の乙女がそこにいた。

「……本当に、ニトなのね?」

 こわごわと伸ばされた繊手を、ニトは目を伏せて押し戴いた。

「お久しぶりです――我が君ル・マーレ

 彼女こそ、ニトが再会を願い続けたそのひと――南部辺境伯クレメンシス・ドゥ・ティグレーの息女、ラウディリアだった。

 かつてニトに名と魂を与えてくれた小さな姫君。この手で守ると誓いながら、結局何も果たせなかった。

 優しかった彼女の母親と右腕を失ったあの日から、ラウディリアの望みだけがニトを生かしてきた。

「ニト……よく、よく無事で」

 ラウディリアはドレスが汚れるのもかまわず、ニトの目の前に膝をついた。やわらかな掌がぎゅっと両手を包みこむ。

「十年前、あなたから受けた依頼を果たしにきました」

 ニトはラウディリアをまっすぐ見つめて告げた。少女は目を瞠り、すぐに悲しみに顔を曇らせた。

「……ニト」

「父君を討ち、母君の仇を取ってほしい――あなたは傭兵おれにそう望みましたね」

 ラウディリアの唇が微かにわななく。何かを言いかけ、呑みこんで、彼女はそっと睫毛を伏せた。

「ええ……確かに、わたくしはあなたに母の仇討ちを頼みました。だから……あなたは、リヴェラに戻ってきたのね」

「傭兵は、引き受けた仕事を完遂してこそ傭兵ですから」

 ニトは彼女の傭兵だった。誇り高い騎士などなれない。あるのはただ、ラウディリアからの報酬を手に入れたいという欲望だけ。

 長くつらい放浪の日々も、それだけで耐えられた。

「あと少し――夜が明けたら、南部辺境伯は処刑されます」

 ラウディリアはひゅっと息を呑んだ。夏の空を映したような双眸が震え、縋るように見上げてくる。

 ニトは静かに彼女を見つけ返した。

「リヴェラは解放される。……あなたも、もうだれも憎まず苦しまなくてもいいんだ」

「ニ、ト」

「俺が望むのはひとつだけです。もう一度、あなたの笑った顔が見たい」

 少女の美しい顔が歪む。溢れた涙が青ざめた頬を濡らし、細い体がニトの腕の中に崩れ落ちた。

 ニトは万感の思いをこめてラウディリアを抱き締めた。

「泣かないでくれ、おちびちゃんメイ

 十年ぶりにこぼれ落ちたそれは、ニトだけに許された幼い姫君を呼ぶ愛称だった。

「ひとりぼっちにしてごめんな。ずっと泣いてたんだよな」

 ラウディリアが首を横に振る。しゃくり上げながら言った。

「な、泣けなかった。泣いちゃいけないと思ったの。だって、ニトがこんな目に遭ったのはわたくしのせいなのに……!」

 泣き虫だった少女の告白に、ニトは狂おしいほどの愛しさを覚えた。奥歯を噛み締めて両腕に力をこめる。

「もう、いいんだ」

 いくつもの夜を越えて、ラウディリアを想わぬ日などありはしなかった。彼女も自分と同じように忘れずにいてくれたことだけで、ニトの十年は報われた。

 ただ、ただ、今願うことはひとつだけ。

「どうか笑ってくれ」

 ニトは少女の向こうに輝くような朝焼けを見た。透きとおった光がたなびく雲に射し、静かな産声が上がるようにリヴェラの街を黄金に染めていく。

 生まれ変わろうとする世界の中心で、ニトは確かに祝福の鐘の音を聞いた。

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