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この作品はフィクションであり、実在の事件・人物等とは一切関係ありません。また、本編における残酷・反社会的描写は犯罪等を助長するものではなく、R15指定相当であることを明記します。
泣きたもうなかれ 愛しきラウディリア
その涙は千の雨となり 我が心に闇深き嵐をもたらす
微笑みたまえ 美しきラウディリア
その喜びは千の光となり 我が心に黄金の春をもたらす
(歌劇『嘆きのラウディリア』第二幕 〈戦神〉ニトの独唱歌より)
かつて難攻不落の代名詞であったリヴェラの城砦は、夜明けを待たずに陥落した。
白みはじめた藤色の空の下、物見の塔の頂ではためくのは深緑の地に宿木の枝葉を金糸で縫い取った紋章旗。それはこの地を治めるエスラディア南部辺境伯のものではないと、見上げるだれもが知っていた。すなわち、リヴェラの命運を懸けた反乱は成功したのだと。
あちこちで残煙が燻る城砦は、深い水の底に沈んだように静まり返っていた。反乱軍の兵士たちは勝利の喜びに浸る間もなく、戦の後処理に動き回っている。忙しない足音ばかりが行き交う廊下を通り抜けながら、きっとまだ実感が湧かないのだろうとニトは思った。ひと段落つき、ふと朝陽のまぶしさに気づいた瞬間、途方もない安堵と歓喜が彼らの頬を熱く濡らすに違いない。
「バルノァ大隊長!」
後ろから近づいてきたなじみの気配に、ニトは足を止めずにちらりと視線を流した。案の定、慌てた様子で追いかけてきたのは副官のミネルだった。
「急に黙っていなくなったりしないでくださいよ、これから部隊長たちとの会議だっていうのに」
「もう戦は終わったんだから俺はお役御免だろう。あとのことはおまえらが好きなように決めてくれ」
「何を言ってるんですか! あなたはこの反乱軍の総大将なんですよ?」
ミネルは神経質そうな細い眉を吊り上げた。今年でようやく成人を迎える彼は、色白で、まるで柳の葉のようにひょろりとした青年だ。だがニトの知る限り、反乱軍のなかで彼の操る槍に敵う者はいない。相応の実力があるからこそ大隊長つきの副官を任されたのだ。
実に優秀で頼り甲斐のある部下だが、いささか上官を買い被りすぎている節がある。ニトは舌打ちを堪えてため息に留めると、立ち止まってミネルに向き直った。
「おまえこそ何か勘違いしてねぇか、ミネル」
鋼色の瞳に鋭く見据えられ、ミネルは小さく息を呑んだ。
無造作に束ねた癖の強い栗毛、日に焼けた浅黒い肌、上背には欠けるが鍛え抜かれた精悍な体躯。目つきの悪さ、あるいは眉間に深く寄った皺のせいか、常に不機嫌そうな印象を受ける。ニト・バルノァは、傭兵として平凡な容姿を持つ男だった。
しかし、彼は特異すぎる一点ゆえに他と一線を画していた。ニトの右肩から先にあるのは血の通った肌色の腕ではなく、美しい銀の光沢を放つ金属の腕だった。まるで厳めしい籠手のような、魔法によって造られたこの世にふたつとない義手。
エスラディア帝国の内外に広くとどろく〈銀の隻腕〉の異名は、この右腕に由来する。ニトが持って生まれた腕を失ったのは二十二歳のとき――今から十年も昔のことだ。その直後に彼はリヴェラを追われ、戦場を渡り歩く流浪の傭兵となった。奴隷として生まれ、二十歳になるまで剣闘士として過酷な環境を生きてきたニトは隻腕であっても充分すぎるほど強かったが、ひょんなことから命を助けた魔法使いに礼と称してこの銀の右腕を贈られた。
以前の力量を取り戻したニトの名声はますます高まり、「〈銀の隻腕〉ほど死神におそれられ、勝利の女神に愛された戦士はいない」と謳われるほどだった。そして十年の放浪ののち、再びリヴェラの地を踏んだニトは、領主の暴政に苦しむ人々から反乱の指揮者になることを懇願された。
「俺はあくまで傭兵としておまえたちの依頼を受けただけだ。お互いの利害が一致したから契約を結び、そしておまえらが望んだ分だけの働きをした。あとは報酬を貰って、とっととおさらばするのが道理だろう」
ミネルはきつく唇を噛んで項垂れた。聡い彼のことだ、本当は理解しているのだろう。ニトは副官の肩を叩くと、いくぶん和らげた声で語りかけた。
「それにな、ミネル。俺は殺し合いや戦争は得意だが、自分の名前もまともに書けねぇ元奴隷だ。どんなにおまえらが期待してくれても、出来のいいご領主様になんかなれねぇよ」
「……そんなこと、ありません!」
弾かれたように顔を上げたミネルの目には涙が滲んでいた。
「おれたちがここまで戦ってこられたのは、あなたのおかげです。確かに最初は〈銀の隻腕〉の評判であなたを選びました。だけど、あなたを信じてついていこうと思えるようになったのは……どんなに怖くても戦場から逃げずにいられたのは、『ニト・バルノァ』だったからだ。あなたの背中があったから戦い抜いて、生き残ることができた。あなたじゃなきゃ駄目だ。おれたちには、これからもバルノァ大隊長が必要なんです」
ミネルは顔をくしゃくしゃにして訴えた。しかしニトは、微かに困ったような表情を浮かべることしかできなかった。
かつて暮らしたリヴェラの人々には、十年の月日を経ても拭いきれない愛着があった。だからこそ雑草のように踏みにじられる彼らの姿を見ていられなかったし、懸命に伸ばされた手を振り払えるはずがなかった。力になってやれるものならなってやりたい。だがニトは、すでに己のすべてを捧げたいと焦がれる存在を見つけてしまっていた。
「……ありがとな、ミネル」
ニトはミネルの頭を肩口に抱き寄せると、ぽんぽんと軽く撫でた。
この青年は、父親と兄をエスラディア南部辺境伯によって殺されたと聞いた。理不尽な増税の撤回を求めて領主に直訴した彼らは、物言わぬふたつの首となって家族の許に送り返されたという。そのとき、ミネルはたった十歳の少年だった。
彼が自分に亡くなった父兄の面影を重ねていることは知っていた。ミネルだけでなく、反乱軍に身を投じた若者たちの多くが慕情や憧憬のこもった目を向けてきた。はたしてニトは、そのひたむきな好意に恥じぬだけの存在になれたのだろうか。
「だけど、すまねぇ」
ミネルの肩がびくりと揺れた。たったひと言の謝罪で部下たちの想いを切り捨てるには充分だった。
ニトはミネルを解放すると、迷子のようなまなざしにほろ苦い微笑を返した。もう一度だけミネルの肩を叩き、踵を返す。
そして振り返ることなく、目指すべき場所に向かって歩き出した。