暇潰した
実在の人物・企業・その他諸々と関係はありません。
さて、とてつもなく暇なもので。そうそう、「とて」と打ったら、「迚」と漢字が出たのだ。この時間が終われば、調べようと思う。
さてはて、話を戻ろう。会社説明会では、人を見る時、抽象的な事ではなく、具体的な事を好みたいのだと言う。さて、私の意見が入ったかな。四万も文字が書けると言うのに、携帯からでは五千、と書けないのが残念だ。能や舞楽における「目が合うと離せない」と言う話題は非常に興味深い。目を合わせて離さないままでいると距離が縮まるような気がする、と言う話も興味深い。目に対する話は四万と五万とでも聞きたいが、書き方に対する話は五千とも聞きたくない。
はて、どうするものだろうか。教壇に老人が立ち、必死に教鞭を振るっている。論文を書く時に型を使えともあるが、私にとっては型を使うよりも、その型が作られた所以も聞きたいものだ。
老人の話も興味深いのだが、もう何千も書いた私にとっては、もう無用の長物なのだ。どれも、分かりやすく書けと言っている上に、私にもどうとでも書けるような物だ。課題を出せば、直ぐにでも筆を取って書くと言うのに。
不要の長物を聞きながら、時間が過ぎることを待つ。ほんの僅かな時間でさえ、本人にとっては長いように感じるものだ。ミーティングは座ると長くなる、と教壇に立つ老人の教師が言った。全員の分を読むと言う。
老人の教師の話を聞きながら、暇に任せて書いた物が、一体どのような評価を受けるものか、楽しみである。
話は変えよう。作文は具体的な体験を書け、論文は分析や考え方を書けと言う。私はココで失敗してしまった。いやぁ、作文はこうだと言うのに、わざわざ論文の態勢である、と誤った事を書いたのだ。その上、この紙に考えを纏めた本人が、今教壇で教鞭を振るっていると来た。あぁ、しまったなぁ。私は評価が下落する瞬間を感じた。
論文や文と言う物は、「カラオケのようだ」と言う。自分では分からないものだから、と言う。私は空笑いをした。
この文を書いて長いこと人に読まれなければ、それだけ人に魅力がない文に映ると言うことか。私は空笑いをまた一つした。
正直に書くと言う。果たして、これは全ての文字を振るうものに通じるのだろうか。いや、通じるのだろうな。哲学や科学的根拠でさえ、自分を通して見てるのだ。
自分に正直に生きよと言われても難しいものだ。ストレスフルな社会ではどうしようもない。まぁ、ストレスフルな社会をどうにか周りから、と言うのが重要であるのだろうなぁ。
人を排除する行いは簡単であろうが、自分の内からそれを行なおうとする要因を外そうとすることは案外難しいもんだ。自分に正直に生きよと言うのに、要因を外せと言うことはどう言うことであろうか。この世は世知辛いものである。
獣を狩った時代になら、獣を狩る事で人を排除する気持ちを代償できるであろう。ふと、無人島に漂着した船の船員が恋慕を邪魔された原住民に殺された話を思い出した。貶されても伸びないと言うが、そこに愛があればどう出るのか。案外、想像だけでは行けないものだ。
漂着した船員も原住民も、殺し合いを始めた島民も、自分の欲に正直に従ったと言うであろうに。
人間は獣と違って、破壊的な事では無く協調的な事をやれ、と言うのであろうか。狼が群れを作って心安まるように、人間も集団を作って安まりを持った方が良いのであろうか。
独りでいた方が心安まるが、それは安全な寝床があるからである。安全な寝床が無ければ、心安まる事すら出来ない。
携帯で打っている間、このように暇を潰す事が出来た。後、もう一つの講義を受ければ帰れると言う。
私は欠伸を一つした。既に、後一つの講義で受ける筈の論作文は、後一文で終わらせた。
と言うか文学って自分の体験を主に書いてるから、結構曖昧じゃね、線引くの。
関係ありません諸々については、太宰治の「人間失格」を主に考えています。あれ、文字変