Chapter12
穏やかな風が吹いている。
神威は邸内の池の淵にある桜の大木にもたれ掛かっていた。
ぼんやりと空を見上げる。
遥か高く広がる空は夕暮れ時のせいか、紅に色付いている。
季節は11月。
夏の暑さがまるで嘘だったかの様に辺りを吹く風は少し冷たく心地が良かった。
神威は池を泳ぐ鯉に視線を移す。
「のん気だな…」
再び天を仰ぐと、今度はゆっくりと目を閉じた。
隠槌神社の事件から4ヶ月の月日が流れていた。
結界鏡が破壊されていた為、完全な修復は不可能だった。
だが放っておく訳にはいかず、簡易的に別の種類の結界を張り直す事にした。
しかし、土地自体が持つ力を制御しつつ力を引き出す以前の結界ほど強力なものではない。
敵が再び襲撃してくれば破るのは容易いだろう。
だが、あれ以来『今のところ』は何事もなく仮初めの平穏が続いている。
逆にその平穏が不気味に感じられた。
こちらが長きに渡り、命を懸けて守ってきた結界を破られた。
いとも容易く、簡単に。
誰もが大きな悔しさと怒りを感じていた。
そして…
それと同じくらい、大きな疑念と不安。
『一体、誰が…?』
『一体、何の為に…?』
例え一つでも結界を壊せば、保たれていた均衡は崩れてしまう。
世界はバランスを失い、やがて確実に滅びに向かう。
だからこそ、自分達は命懸けで守ってきたのだ。
結界を破る程の力を持つ術者ならば、その事は十分に理解しているはず。
それでも結界を壊した。
「世界の滅びを望む者、か…」
神威は一人、呟いた。
瞼を閉じた視界が赤い。
夕日で赤いのか?
体を流れる血液で赤いのか?
ふと、そんなどうでも良い疑問が浮かぶ。
赤い血液。
「私の体にも赤い血が流れているんだ…」
何故そんな事を思うのか、自分でも分からない。
だが、不意に無意識の世界に思考が支配される。
落ちる無意識の世界の中、頭上高い場所にもう一人の私が現れる。
とても、冷静に。
とても、冷酷に。
私を見下ろしている。
『血を流すのは、贖罪のつもりか?』
漂う私に何の前触れもなく、もう一人の私が問い掛けてくる。
『痛みを味わえば、罪は消せると思っているのか?』
『容易く命を掛ければ、許されると思っているのか?』
冷たい笑みを浮かべ、もう一人の私は問い掛けを続ける。
『本当は何も感じていないのに、感じているフリをするのは…』
笑みを浮かべた唇が醜く歪む。
『【人間】で居たいからか?』
低く濁った声。
『お前は何も感じていない。
痛みも、悲しみも、苦しみも、怒りも、喜びも、楽しみも。
そして。罪悪も、愛情さえも』
全身の感覚が消える。
それを見計らったように鋭い無数の刃が全身を貫く。
『ほら?本当は痛みなど感じていないだろう?』
『何故、感情を持つフリをしている?』
問い掛けが続く。
傷口から流れているはずの血液の色も温度も感触も感じない。
『感情を待つ者が【人間】なのか?』
『【人間】のフリをする必要が何処にある?』
重なり響くもう一人の私の声。
『自分に正直になれ。
フリはもう止めろ』
抗えない。
流れ続ける血液。
曖昧になっていく意識。
『私を受け入れろ。
そうすれば、自由になれる』
『自由…?』
一つの単語に惹かれ、初めて頭上を見上げる。
『そうだ。自由だ』
関心を示した私にもう一人の私が満足そうに頷く。
『お前が何よりも望んでいる、真実の自由。
お前が何よりも望んでいる、真実の世界』
もう一人の私が手を差し出す。
『さあ…【人間】のフリは止めろ』
『さあ…罪を。お前の背負う全てを。
そちら側に置き捨て、こちら側に来い!』
強く響いた声に視界が赤く染まる。
あまりの視界の赤さに有意識が反応し始める。
鳴り響く警告の鐘。
『私は、許されるとは思っていない…』
『私は、自由など望んでいない…』
出し掛けていた手を引き戻す。
全身を貫いていた刃が掻き消える。
『逃げる場所など何処にもない。
私は自分の罪から逃げはしない』
もう一人の私の顔が不快に歪む。
『私は【人間】だ!』
真っ直ぐに頭上を見据える。
『だから、こちら側で生きていく』
拳を握り締め、唇を噛む。
『愚かだな。そう自分に言い聞かせているだけだ!』
口に広がる血の味。
もう迷わない。
『私は…お前とは違う!』
強く叫んだ私の声にもう一人の私が姿を崩していく。
『強がっていられるのも今だけだ。
もうすぐお前は私と一つになる』
醜く崩れるもう一人の私が不敵な笑みを浮かべる。
『お前が本当に望む【私】になる日が必ず来る…』
赤い世界ともう一人の私が消える。
『また、会える…』
有意識が完全に戻り、ゆっくりと目を開ける。
目の前には半分沈んだ太陽といつも通りの風景。
そして、桜の大木。
頭は靄がかかった様にぼんやりとしている。
『私は眠っていたのか?
今のは、夢…?』
先程までのビジョンを思い返す。
「私は【人間】か…」
声に出して呟いてしまった言葉に自嘲な笑みが自然と浮かぶ。
「あなたはちゃんと人間ですよ」
突然、邸側から声がする。
声の方に目をやると翔が上着を手にして立っていた。
「いつまでそこにいらっしゃるんですか?」
独り言を聞かれた恥ずかしさから視線を池に移す。
「さあな…」
翔は上着を神威に差し出す。
「外にいて、しかもそんな薄着で居眠りをしていたら風邪をひきますよ」
「大丈夫さ。そこまで弱くはないさ」
神威は粗暴に上着を受け取ると肩に羽織る。
その様子を微笑みながら翔が見つめている。
「ずっとそこに立っているつもりか?」
素っ気なく翔に言う。
「それは隣に座れという事ですか?」
「好きにしろ」
翔は困った様に肩をすくめると神威の隣に腰を下ろす。
「あなたはちゃんと人間です」
先程の言葉をもう一度繰り返す。
「お前は私の独り言の意味まで分かるのか?」
池を見つめたまま、神威が不機嫌に問い掛ける。
「いいえ。私はあなたの独り言の意味など分かりません」
「なら…」
神威の言葉を翔が遮る。
「でも。あなたがちゃんと人間だという事は分かっています」
ハッキリとした口調に神威が振り向く。
真っ直ぐに自分を見つめる目。
「ふん。何だ?ちゃんと人間って、おかしくないか?」
「確かに。よく考えたら、そうですね」
「それに、改めて人間って言われるのも微妙だ」
「ええ、それも確かに」
「第一、何の事だか分からずに答えただろう?」
「はい、分からないですよ」
一瞬の間を置き、互いに笑う合う。
穏やかな風と穏やかに流れる時間。
神威が煙草を取り出し口にくわえる。
翔がライターを取り出し火を付ける。
深く吸い込んだ紫煙を空の向かい吐き出した。
「お前もどうだ?」
煙草の箱を翔に差し出す。
「いいえ、私は結構です」
「お前は私の前では吸わないからな」
翔が苦笑いを浮かべる。
「だが…たまには良いだろ?」
箱から1本取り出し翔に差し出す。
翔は観念し煙草を受け取り口に運ぶ。
火を付けようとしたライターを神威が奪う。
「ほら」
「ありがとうございます」
顔を傾け煙草に火を点す。
「火ぐらいでいちいち礼を言うな」
神威がライターを返す。
二人の吐き出す紫煙がゆらゆらと宙を舞う。
「穏やかだな」
沈んでいく太陽を眩しそうに見つめ神威が呟いた。
「こんな日が続いていけば、それは幸せな事なんだろうな…」
翔も空を見上げる。
「あなたがそう思うならば、それが幸せなんですよ」
夕日を浴びて二人の体が赤く染まる。
「本当は…許されたくて、仕方ないのかもしれないな…」
珍しく力ない声に驚いて翔が神威を見る。
「許される為に私は今を生きているのかもしれない」
ゆっくりと次の言葉を続ける。
「未来の為などではなく、過去の為だけに…
私は…今を生きている」
煙草を地面に押し付ける。
「そう思う自分が、そんな自分が…
どうしようもなく許せない」
絶望に近い溜息を吐く。
「神威様…」
それまで黙って聞いていた翔が声を発する。
「人の一生は儚い。
だからこそ、いつか必ず来る終わりの時まで。
私が私であり続ける為に出来うる限りの事を全てやる」
突然の言葉に神威が困惑を見せる。
「遠い昔、迷っていた私にある人が言ったくれた言葉です」
優しい笑みを神威に向ける。
「例えどんな生き方を選んでも。
あなたが自身を見失いさえしなければ、嫌でも未来は訪れます。
訪れたあなたの未来を変える事が出来るのは、あなただけなのですよ」
じっとこちらを見つめていた神威の頬を撫でる。
「そして…あなたがどんな未来を選んでも、変わらない確かな事が一つだけあります」
強い思いを込めて神威を見つめ返す。
「私はあなただけの味方です。
私は…あなたの傍を決して離れない」
二人の間に秋の風が舞う。
神威は頬に当てられた翔の手を握り締める。
「翔…私は…」
言い掛けて手を引き離す。
立ち上がり池の畔に歩み寄る。
「私は自分で自分を認められないような不様な生き方だけはしたくない。
迷いに振り回されてしまうような弱い心もいらない」
神威の声に少しずつ力が戻る。
「自分が大切だと思えるモノをこの手で守る為に。
もう二度と大切なモノを失わない為に…」
翔も立ち上がり神威の背後に歩み寄る。
「だから、その為に。
誰よりも強くある為に。
今日まで多くのモノを犠牲にして生きてきた」
太陽が沈み闇が包み始めた空間に神威の静かで強い声だけが響く。
「その事に後悔はない。
そして、これからもそうして生きていく」
翔に振り向く。
「だが…もし…
今の私が…
私でなくなってしまう日が来たら…」
黙って聞いていた翔の胸に飛び込む。
神威の突然の行動に体の自由を奪われる。
感じる鼓動。
肌に伝わる暖かい体温。
神威の腕に力が込められる。
無意識に答えるように力を込めて抱きしめる。
「私が…私でなくなってしまう日が来たら…
その時は…お前が、私を殺してくれ…」
神威の言葉があまりに唐突すぎて理解が出来ない。
激しい困惑の視線を向ける。
腕の中の神威は困ったように微笑んだ。
「お前の手で、私を、殺してくれ」
同じ言葉をはっきりと繰り返す。
「…神威様…?」
困惑を問い掛けにしようとした翔の言葉が遮られた。
神威の唇が翔の唇に重なる。
翔が驚きに目を見開く。
神威は閉じた目を開くと翔から離れる。
「約束だ、翔」
そのまま振り向かずに邸内に向かって歩き出す。
翔は神威の遠ざかる背中を何も言えずに見つめていた。
突然に抱きしめられ、突然にキスをされた。
ほんの一時の時間が永遠の様に感じられた。
何よりも…
神威の突然の申し出に、心が大きな音を立てざわめく。
幻のように消えた体温と鼓動。
口の中に広がる自分の物ではない、血の味。
「神威様…あなたは…」
込み上げてくる強い苦しみに押し潰されそうになる。
消えてしまった神威の背中に語り掛ける。
「あなたは…やはり、誰よりも、残酷な人だ…」
いつの間にか穏やかだった風は、冷たく鋭い刃のように変わっている。
唇を噛み締め、ただ佇む翔を桜の大木は静かに見下ろしていた…