Chapter10
その湖は深緑に囲まれていた。
辺りからは鳥の囀りが聞こえる。
眩しく暖かな光が水面に反射している。
『愛しているよ…』
湖の畔。
目の前には白のローブを纏った男の後ろ姿がある。
『愛しているよ…この世界に在る全てよりも…』
揃いの白のローブを纏った私は微笑む。
愛おしい想いの全てを込めて、男を後ろから抱き締める。
私の腕に男が触れる。
『愛しているよ…この世界の全てを犠牲にしても構わない…』
先ほどまでとは違う強い声と共に、触れた手に力が込められる。
不意に襲われる刹那。
『……?』
次の瞬間、抱き締めた腕は身体ごと無理矢理に引き剥がされる。
辺りに満ちていた光は突然、闇に掻き消された。
叫びにも似た奇声をあげながら一斉に飛び立つ鳥達。
私は困惑を浮かべ男を見る。
『けれど…今のこの世界では私の想いは叶えられない…』
男が私に振り向いた。
だが、顔は闇に覆われ見えない。
『だから…私は眠る…』
両手を広げる。
ゆっくりと湖に向かって倒れていく男。
私は瞬きも出来ずにただ見つめている。
『その時が訪れるまで…』
男の身体が水飛沫をあげながら水面に吸い込まれる。
私は男の落ちた場所に駆け寄り水面を覗き込む。
両手を広げたままの姿で沈んでいく男。
手を伸ばし白のローブを掴もうと水面に触れた瞬間。刺すような冷たい感触が指から全身を伝う。
水面が一瞬にして厚い氷に変わる。
顔が分からない筈なのに、何故か私は男が微笑んでいると感じた。
同時に覚えた違和感。
私の姿が白のローブから黒のスーツに変わる。
『…貴方は…誰…?』
男は答える事無く湖底に沈み、やがて姿を消していく。
氷に触れた掌に暖かな私の涙が落ちる。
無意識に流れた涙が困惑をもたらす。
ふと顔を上げると辺りの景色は豹変していた。
深緑は真っ白な氷と雪に変わり、静寂に支配されていた。
白の世界で私はいつまでも水面を見つめていた。
『貴方は…一体…誰なの…?』
返る事のない問い掛けを繰り返しながら…
神威は蒼龍邸のリビングのソファーで目を覚ました。
昨日、着ていた黒のノースリーブのパンツスーツのまま。
その上から薄手のブランケットが掛けられている。
疲れていたせいか、帰宅後にそのまま眠ってしまったようだ。
同じく着けたままの腕時計を見ると、時刻はPM2:00を指している。
とても哀しい夢を見た気がする。
胸に残る鈍い痛み。
だが、内容を思い出す事が出来ない。
「目が覚めた?」
夢の記憶を探る作業に夢中になってしまい、旬が入ってきた事に気が付かなかった。
手にはティーカップセットと料理をのせた大きなトレイを持っている。
そのままソファーに近付いてくる。
神威はそれをぼんやりと見つめていた。
ふと、その姿に違う人影が重なる。
黒の革の上下にエンジのマント。
茶の長髪を持った細身の青年が陽炎の様に揺らめいている。
「どうしたの?」
旬がソファーの前のテーブルにトレイを置く。
不思議そうな顔で神威に問い掛ける。
重なった人影は旬の声に姿を消してしまった。
「いや…なんでもない…」
曖昧に返事をする。
「そう。紅茶で良い?もう昼だし。昼食、食べるよね?」
「ああ…」
ティーカップセットや料理を並べていた旬が心配そうに神威を覗き込む。
「大丈夫?」
「少し疲れているが、大丈夫だ」
今度は微笑みながら返事をする。
旬は安心したように頷くと神威の隣に座った。
黄金色の紅茶をティーカップに注ぐと神威に手渡す。
受け取ったティーカップからは白い湯気が立ち上る。
「…!」
カップに触れた瞬間。
手に伝わる異様な冷たさに激しく違和感を感じた。
「神威?」
カップを持ち上げて止まったままの神威を旬が怪訝そうに見ている。
旬の声に異様な冷たい感触が通常な熱い感触に変化する。
我に返り旬を見る。
「いや、なんでもない」
「神威、今日2回目だよ」
くすくすと笑い出す旬に神威が戸惑う。
「いや、なんでもないが2回目」
悪戯っぽくウィンクする。
「ああ…」
「ああ…も2回目だね」
細く切られたパンを取り分けながら旬がまた笑う。
「悪かったな」
カップを置き、不貞腐れたように煙草に火を点ける。
紫煙が宙を漂う。
「神威ったら。いじけない、いじけない」
灰皿を手元に寄せながら旬を睨む。
「早く食べなって」
神威は深く煙を吸い込むと灰皿に煙草を押しつけた。
何故か手が微かに震えている。
今度は動揺が襲う。
だが、それを旬に悟られまいとバターの塗られたパンを手に取り無理に口に運ぶ。
「翔達はどうしたんだ?」
旬は神威の変化に全く気付かず、困ったように首を傾げた。
「皆、部屋に引き籠もったままだよ」
「そうか…」
神威が深い溜息をつく。
「仕方ないよ。こんな状況になったんだから。皆、予期せぬ事態って感じだよ」
サラダを口にしようとしていた旬も溜息をついた。
「予期せぬ事態か…」
神威は再び煙草に火を点ける。
「神威、何かあったの?」
真っすぐで真剣な眼差しが向けられる。
「最近、変だよ?深く考え込んでるって感じに見えるよ」
神威は前を向いたまま紫煙を吐き出す。
「言えないような事?」
旬が神威を覗き込む。
「なあ、旬。こうして二人きりで食事をするのは久しぶりだな…」
あからさまに話題をそらす。
旬の表情が険しく変わる。
「神威はいつもそうだね。肝心な事は話さない。全部を一人で背負い込む」
強く神威の腕を掴む。
「こっちを向きなよ」
珍しく強い口調に驚いた神威が旬を見る。
「大変な事が起ころうとしてる事くらい分かるよ。だからこそ、皆が心配してる。また神威が皆の代わりに傷つくんじゃないかって」
一息の間を置き、旬が続ける。
「そんなに僕達は頼りない?信用できない?」
神威は旬の顔を無言で見つめていた。
「答えてよ、神威」
掴んだ腕に更に力を込める。
神威の腕に痛みが走る。
「……私は…」
答えを言い掛けた時。
ぼやけた白の世界の映像が幻覚のように、神威の脳裏に浮かび上がる。
「………?」
途端に沸き上がる動揺、不安、恐怖。
動かない現実の身体。
『何か』が神威の動きを止めている。
その『何か』が分からない。
神威は沸き上がる幾つもの感情を必死に押さえ、幻覚に意識を集中させる。
白の世界は濃い霧に包まれたようにぼやけ、ハッキリしない。
だが、そこには確実に『何か』が存在する。
更に強く意識を集中させ、探索する。
白の世界と、そこにある『何か』を。
しばらくして、神威の探索に呼応したかのように霧が晴れていく。
クリアになる映像。
それを目にした瞬間。
今度は懐かしさを覚えた。
雪に包まれた森。
厚い氷に覆われた湖。
畔に立つ自分。
静寂に支配された白の世界。
以前に目にした風景。
そして、自分は確かにこの場所に居た。
…いつ?
…そこはどこ?
…誰かと?
……誰と?
自問自答を繰り返す。
思い出そうと記憶を探るが『何か』に遮られ思い出せない。
『愛しているよ…』
静寂の中に声が小さく響いた。
周りを見渡す。
だが、誰もいない。
『愛しているよ…』
再び発せられた声は後方から聞こえる。
「!」
振り返った神威は目を見開いた。
そこには、全身を厚い氷と雪に覆われた人形のような物が立っている。
顔は白の仮面が着けられているせいで分からない。
『愛しているよ…』
声はこの人形から発せられている。
神威は無意識に人形の顔の部分に触れた。。
「…!!」
冷たさを感じたのと同時に激しい頭痛に襲われる。
静寂を破る耳障りなノイズと共に白の世界は形を歪め消えていく。
「神威!神威!」
耳元で旬が叫んでいるのが聞こえる。
意識は現実に還り、身体の自由は完全に戻っていた。
「神威!どうしたんだ!」
旬が慌てながら神威の身体を揺さ振っている。
「…旬。今、何があった?私は…」
神威が旬を真っすぐ見つめる。
「私は…今、何をしてた?」
旬の眼が微かに見開かれる。
揺さ振っていた手を引っ込める。
「分からないの?」
言いながら、テーブルの上にある神威のカップを指差す。
視線を向けると淡青のカップは無残にも粉々に砕け、中の紅茶が白のテーブルクロスを茶に染めている。
「…私が…やったのか?」
旬がこくりと頷く。
「話してる途中で神威の動きが止まって…眼を見開いて…そしたら…」
神威の腕に旬が触れる。
握り締められていた部分にまだ鈍い痛みが残っている。
「急に身体が冷たくなって…僕、驚いてさ。気が付かせようとして神威の身体を揺さ振って…」
「…」
旬の次の言葉を待つ。
「そしたら…変なノイズが直接、頭の中に響いて…カップが内側から砕け散ったんだ」
ふと、旬の左の掌を見ると幾つかの赤い線が走っている。
飛んだカップの破片で怪我をしたらしい。
神威はその掌を取ると、左手をかざす。
淡い光が生まれる。
傷は光に包まれ治癒していく。
「すまなかったな…また私のせいで怪我をさせてしまった」
神威は掌を離すと力なく笑う。
煙草に火を点け、深く吸い込んだ。
旬は怪我の治癒した掌を黙って見ている。
「やっぱり…何か隠しているんだね」
俯いたまま、旬が問い掛ける。
「どうして、何も言ってくれないの?」
神威は相変わらず答えようとしない。
「そんなに僕達は頼りない?信用できない?答えてよ!」
旬は顔を上げ神威を睨む。
煙草を灰皿に押しつけ、旬に振り向く。
「これは私の問題だ」
真っすぐ旬の眼を見返す。
「信用などの問題ではない。これは私だけの、個人の、問題だ」
決意したように一息つくと、ゆっくりと次の言葉を続ける。
「お前達には関係ない」
言い終えると部屋を出る為、立ち上がる。
「待ちなよ。答えになってない」
神威の腕を旬が掴み、強い視線で見上げる。
「僕の質問の答えになってない。ちゃんと答えてよ!」
「お前達を信用するかしないかの問題ではないんだ。これは私の問題だ。だから、自分の手でカタをつけなければならない」
掴まれた腕を引き離し、出口に向かう。
「なら…僕達は何の為に神威の傍にいる?」
背中に旬の力ない小さな声が突き刺さる。
立ち止まり、その声に耳を澄ます。
「神威にとって僕達は…何なんだよ…?」
「お前達は…」
込み上げる想いを押さえ込み静かに答える。
「私にとって、他に変わりのない大切な者達だ。だから…」
「だから?」
旬も立ち上がり、神威の背中に問い掛ける。
「だから、何も言ってくれないの?心配を掛けない為に?」
神威は微笑んだ。
「食事はまともに出来なかったが…今日は久しぶりに二人きりで居れて良かった」
出口に向かう。
「ありがとう。そして…すまない、旬」
そのまま振り返らずリビングを後にする。
「神威、僕は…」
引き止めることも出来ず、消えた神威の後ろ姿を見つめ深い溜息をつく。
「僕は…貴方を…」
治癒した左の掌を右手で包み込む。
「何があっても、守り抜くよ…」
強く噛み締めた唇。
口の中に錆びた鉄の味が広がる。
「例え、貴方が何に変わろうとも…」
虚ろな眼差しで神威の消えた出口を見る。
旬の背後で割れたカップの破片がカチャリと小さな音を立てた。