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揺れる陽炎、揺れない記憶

作者: 当麻 入

 体中に不快感を感じ、目が覚めた。汗が纏わりついていた。稼働させていたはずの冷房が止まっていた。蝉の鳴く音が聞こえ、扇風機の風が顔に当たる。彼女は窓際で読書をしていた。僕と目が合った。

「おはよう。冷房壊れちゃったみたいで、締め切ってるよりは開けた方がいいかなって」

「そっか、ありがとう。汗が気持ち悪いからシャワー浴びてくるね」

ベランダに干してあったバスタオルを強引にひっぱる。カランと氷が溶ける音がした。彼女は苦手なコーヒーを、渋い顔をして啜っている。

「あれ、コーヒーなんて飲めったっけ?」

「君が毎朝いい顔して飲んでるから、私も今日はカッコつけちゃった。やっぱり全然美味しくないや」

彼女は苦笑した。照れ笑いにも見えた。グラスには赤いストローが挿してあった。普段は紅茶を好み、どうやらお気に入りらしい黒のマグカップに氷をいっぱいにして、そのまま飲んでいた。今日はなんだか違っていた。湯上がりに彼女はアイスコーヒーを出してくれた。彼女が飲んでいたように赤いストローが挿してあった。

「このストロー可愛いね、なんか元気でるよ」

コーヒーを飲んでいるところを凝視され、誤魔化し気味に会話を始めた。

「今日はいいことあるかな」

彼女は微笑んだ。その笑顔は黒く長い髪によく似合っていた。僕には言葉の真意が理解できなかったが、それはいつものことだった。自由気ままで、自分の世界を持っている彼女を尊敬していた。存在自体が好きだった。

「あのさ、なんで今更って思うかもしれないけど」

「うん?」

「いや、やっぱり夜にするよ。お酒でも飲みながらね」

「じゃあ今宵は楽しみだね、期待してる」

なぜか急に恥ずかしくなって、大切な存在だということが、愛おしくてたまらないということが言葉にできなった。


 彼女の命日はこの日だった。


 居眠り運転をしていた車に轢かれたみたいだった。速度制限を大幅に超えたトラックが彼女の小さな体と衝突した。即死だった。宵の帰り道、僕が大好きなポルトガル産の白ワインを持っていたらしい。僕は後悔した、何度も自分を責めた。ワインを買う時間がなければ、事故に遭わなかったかもしれない。あのとき一言、好きと言えたら未来は大きく変わっていたかもしれない。大切な人を守ることができなかったとき、絶望の底にある黒い何かが見えた。胸が異様に痛かった。懺悔の日々に光が差されることをひたすら待った。日々だけが過ぎていった。そんなある日、一年前に僕が彼女宛に書いた手紙が出てきた。


〈こういう手紙を書くときって変に緊張しちゃって、言葉遣いとか色々変わっちゃうよね。だから少しおかしくても笑わないでね。恋人という関係になってから三年が経ちます。真剣な顔、笑った顔、不機嫌な時の顔、ホラー映画を見た後に一人でトイレに行けなくて困っている時の顔、全部大好きで、全部愛おしいです。毎日一緒にいると、新しい表情が、癖が、哲学が見えて本当に幸せです。ありがとう。なんでも肯定してくれる君が好きです。飲み過ぎた日に叱ってくれる君が好きです。寂しいと言えなかった僕を見て、そっと隣に座ってくれる君が本当に好きです。長い文章は苦手だからこの辺で。幸せな未来を僕と一緒に作っていって欲しい。結婚しよう〉


 彼女の死から三ヶ月ほどが経った頃だった。彼女の両親とお墓に挨拶しに、彼女の出生地である長野県長野市を訪れた。三回目の長野だった。彼女の両親にお付き合いのご挨拶をしたとき、結婚のご挨拶をしたとき、そしてこの日。駅まで車で迎えに来てもらい、墓場まで行く最中だった。「赤いストロー」という単語が耳に残った。車から流れる音楽だった。


『君にいいことがあるように、今日は赤いストローさしてあげる。君にいいことがあるように、あるように。』


「お義父さん、この曲ってなんですか」

「aikoの『ストロー』だよ、気に入ったかい?この曲は娘も大好きだったんだよ」

「…亡くなった日の朝、僕に赤いストローを挿して大好きなコーヒーを出してくれました。僕から見たらずっと不思議な子で、それが日常だったので気にもしませんでした…」

大粒の涙が頬を伝った。嗚咽が止まらなかった。

「あの日、僕はなぜか小っ恥ずかしくなって彼女に好きと言えなかったんです。また夜言うね、と約束した日でした。あのとき、あの朝に言えなかったことをずっと後悔してます。あれからいいことなんてなかった…」

「言えなかったことは言えないままでよかったんだよ。言葉は彼我を縛る道具になり得ない。過去を呪うことをしないでくれ、娘はあの日、きっと幸せだったよ」

微笑んでいた。彼女のあの顔にそっくりだった。陽が高く昇り、皺だらけのその顔を照らしていた。あっという間に墓場に着いた。停車した。義父は鞄から便箋を取り出した。

「これは娘から君への手紙、結婚したときのだ。書いたはいいけど渡せなかったみたいだね。君が持っていてくれ」

車窓から陽炎が見えた。彼女の墓はその蜃気楼には飲まれず、はっきりと存在していた。彼女に思いを馳せ、墓の前で合掌した。彼女が好きだったあの本を添えて。


〈何年か前に出会って、何年か前に恋人になったね。冬が好きで、家の中が好きで、くっ付いているのが好きな君。君が好きなものは全部愛おしくて、私も好きになりました。(コーヒーだけは例外だよ!)自分勝手で、気分屋な私をいつもニコニコして側で見守ってくれているとき、どうしようもなく好きが溢れます。私が苦手な料理をたくさん勉強して練習してくれたこと、早く寝ちゃったときに毛布をかけ直してくれたこと、不機嫌なときに大好物を買ってきてくれたこと、帰りが遅いときに大好きなお酒を我慢して帰りを待ってくれたこと、行動一つ一つに愛が溢れて、大好きです。幸せです。これからも言葉じゃなくて、行動で惚れさせてね。これから何年の付き合いになるか分からないけど、君の幸せを一番に願っています。これからも、君にいいことがありますように〉


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