第三話
卒業試験も無事終わり、後は卒業式を待つだけ。
それまでの自由登校期間に家を出る準備を終わらせようと考えていた私のもとへ王宮から使者がきたのは、少しだけ寒さの和らいだ晴れた日のことだった。
それはアーダルベルト殿下が我が家へくるという先触れ。
突然のことに慌てふためく家族をなだめて、とにかく恥ずかしくない程度に家を磨こうと、家族使用人総出で屋敷の見える部分を掃除した。
約束の日、どれ程準備しても足りない気分で両親と一緒に殿下を迎え、応接室にお通しした時にはもう、それだけでみんなが仕事が終わったような顔をしていた。
過ぎたる栄誉にびくついている私達を気遣ってくださったのだろう。殿下は早々に私と二人になりたい旨告げられて、両親はそそくさと部屋を出て行く。
しかし若い男女なので当然完全に二人きりではなく。壁際には殿下の護衛の方と我が家の侍女が数人控えていた。
向かい合わせにソファーに落ち着いてから、改めて再会の挨拶を交わした後、本題の前にまずは紅茶とお菓子をお勧めする。白磁のカップを優雅な動作で口許に運んだ殿下が、口を付ける前少し目を見張ったのを私は見逃さなかった。
良かった、ちゃんと殿下がお好みの銘柄だったみたい。
私だって一応恋する乙女。恋した人のことを知りたい気持ちはちゃんとあって、今更ながら殿下についてちょっと調べてみたのだ。
……といっても、兄弟や友人に尋ねた程度なのだけれど、みんな私よりずっと殿下について詳しく、寧ろ六年間競い合った相手のことを何故何も知らないのだと呆れられもした。
だって本当に、あの日まで殿下は、私の所為で不利益を被っている方という認識でしかなく。
王子様なのに異性ですらなく、ただそこにいる<殿下>という人だったのだ。
それが……二月にも満たない時間で随分変わった。
私は今も殿下に焦れている。
決して実らぬ想いだけど、私はこの方が好きだ。
カップを置いた殿下と見つめ合う。
以前の私は、どうやってこの方と真面に見つめ合って平然としていたのだろう。
教えて欲しいくらい殿下が眩しくて、真っ直ぐ見つめているとそれだけで心臓が胸を突き破って出てきてしまいそうに煩い。
ああ、やっぱり好き。
伝えられない想いを噛み締めているなどおくびにも出さず、私も淑女の仕草でカップに手を伸ばして、そうと判らないように殿下から目を逸らした。
「今日訪ねたのは例の件についてだ」
「はい」
「申し訳ない。相手はつき止めたが……名前をはっきり伝えることは出来ない」
……ということは、相手は私より爵位が上の家の子だったのだろう。
そういう可能性は充分あった。寧ろ、そうでなくばあんなに堂々と脅しを掛けてきたりしない。
「だが、安心してくれ。相手は何も知らなかった」
「……あてずっぽうだったということですか?」
「そうだ。人間誰しも後ろ暗いことの一つや二つあるだろうから、曖昧な文言で少しでも君を動揺させられたらいいと思って忍ばせたものらしい」
「そうでしたの……」
だとしたらあれは脅迫ですらなく、悪戯的なものとして押し切られてしまったのかもしれない。なら、罰もそれに順するものだろう。
まあ結局相手の思惑通りにはならなかったし、秘密が守られているなら、厳罰を望むつもりも無い。
何より……あれが届いたから、殿下への気持ちに目覚めたのだし、正直恨む気持ちはあまりなかった。
頷いて受け入れた私に、殿下はやや躊躇ってから、それから……と続けた。
「もう一つ謝らなければならないことがある」
「なんでしょう?」
「君にあんなものが届いた原因は僕だった、本当にすまない」
「殿下が? ………あぁ、つまり殿下に」
「そう、僕を勝たせるためだ。……僕の所為で一時とはいえ怖い思いをさせてしまった、許してほしい」
「殿下に謝っていただく必要はありません。秘密が守られていたなら私は満足です」
「……どうして僕を、とかそういうことに興味はない?」
「そう思ってしまう人がいるのは理解出来ます。私がいなければ、殿下こそが前人未到の大記録を達成していたでしょうし」
その未来を夢見た誰かが私を邪魔に思うのは仕方のないことだ。
私だって<秘密>がなければ、これほど勉学に励むこともなかっただろう。もしかしたら、無邪気に殿下に憧れて記録樹立を願う未来もあったかもしれない。
<秘密>があったから、出会い親しくなれた。
<秘密>があるから、この恋は諦めしかない。
なんて因果な……。
カップの水面を見つめ溜め息にならないよう息を吐き視線を上げたら、それを待っていたような殿下と目が合った。涼やかな目許に凛とした、何処か厳しさのようなものが宿っている。気圧されて、知らず背筋が伸び、慌ててカップをテーブルに置いた。
「君がいなかったら僕は次席で居続けることすらなかったよ」
「ご冗談を」
「いいや、君に勝ちたかったから僕は必死になったんだ」
強く言う、それはまるで熱烈な告白のようだった。
あの日、カフェで全力で試験勉強に励んで欲しいと願われた時と同じ熱意を感じる。
「入学試験で君に負けたと知った時から、次こそはと君を追っていたから残せた成績だ。君はいつでも僕の目標だ、ありがとう」
「光栄です」
「おかげでなんの期待もなかった末っ子の僕が王領を一つ賜ることになって、将来は王弟として国に残ることが決まった」
それは素晴らしい。近年は王家も比較的子沢山で跡継ぎに不自由がなく、王太子殿下以外の男兄弟はご結婚の際に臣籍降下なさるのが常だった。その中で王族として残れるというのは優秀さの証明だ。
「だから……というわけではないのだが、メロディ嬢」
「はい」
「君さえよければ、僕のところにきてくれないか?」
殿下の言葉で、一瞬時が止まった。
その間も見つめ合う瞳の熱っぽさは変わらない。
相変わらず熱心に熱烈に訴え掛けていた。
「六年間ずっと君を見てきた。これから先はどうか僕の隣にいて欲しい」
決定的な殿下の言葉と瞳に宿る激情の意味を理解した途端、口から漏れたのは変な音だけ……しばらくは息をするのも忘れた。
それでもやっと絞り出したのは、小さな、とても小さな、声。
「……殿下、それはなりません」
「どうして?」
「私には……」
<秘密>がある。
漏らしてはならない秘密が……。
一族の命運を左右するような、重大な、秘密が……。
「それは君の髪形が時折極端に変わることに関係してる?」
「…………え?」
「いつも君を見ていたから気付いた。髪が、一日で凄く伸びている時があるだろう?」
控え目にご自身の髪を指差して言う殿下の姿がゆっくり遠のく。
終わった………私も我が家も、これで終わりだ。
王族に知られてしまったのだ。
もう我が家と縁を結んでくれる家はなくなるかもしれない。
既に嫁いでいる姉様たちや兄の婚約はどうなるだろう。
弟妹の今後は?
すべての不安が一斉に脳内を駆け巡る。思い描ける悲観的な未来が膨大すぎて、彼の言葉を否定する思考さえ無いまま、どうやら私は意識を失ったらしい。
◆◆◆◆◆
その後何があったのか私は知らない。
目覚めたらもうとっぷりと日も暮れていて、自室のベッドに寝かされていた。
一瞬は混乱したが、すぐに意識を失う前のことを思い出して、ベッドを出た私は真っ直ぐ文机に向かった。
そして、殿下に宛てて手紙を書いた。
私の体のこと、それを直隠しにしていた理由。
そして、それが故、私は国を出て平民になること。
だから貴方の想いには応えられないこと。
出来ればこのことは殿下の胸だけに止どめおいて欲しい旨を綴った。
綴っている最中ぼろぼろと涙が零れて止まらなかった。
その涙を隠すようにどんどんと前髪が伸びてきて欝陶しい。伸びてきた髪を耳に掻きあげながら、納得する文章が書けたのは夜明け近かった。
気付いたら背中を隠すくらいだった髪は、床に届きそうな程伸びていて、その様に自分で驚く。
どれだけ私は泣いたのだろう。
そして、この涙は何に促されたものなのだろう。
秘密を知られたこと?
それとも、それによってあの方との縁が完全に切れてしまうこと?
後者である自覚があって、またじんわりと涙が滲んだ。
こんなに泣ける程彼が好きなんて不思議。
恋心に気付いたのは、ついこの間。
想っていたのは二月に満たない時間。
その大部分は勉強に明け暮れて、想っていたとは言えないだろうに……。
それでも好きで好きで堪らなくて。
好きな方に望んでいただいたのに、断ることしか出来ない我が身が呪わしくて。
自室とはいえ声を上げて泣いたのはいつぶりだろうか?
久し振りに一切を構わず泣いて泣いて……気付いたら夜も明けていた。
気付かないうちにドアの隙間に差し込まれていたのは、食事もお風呂も準備しているから気が済んだら顔を見せて、という母のメモだった。
両親は大体の事情を察しているに違いない。でも何も言わないで私の意思を尊重してくれようとしている。
両親の愛情が暖かくて、また涙が出た。
何年も何年も鍛練によって堪えられていた涙がちょっとした感情の高ぶりで嘘みたいにたやすく零れる。そして髪は、とうとう床に届いた。
床に跪いた私は、メモと同じように、先刻書いた手紙をドアの下へ滑らせた。
途端にひったくるような抵抗を感じて、走っていく誰かの気配がする。ずっとそこで待ち構えていた誰かがいたのだと思うと、少し申し訳なかった。
はしたなく床に座り込んだまま伸びた髪を掬い上げて、遥か昔、子供の頃を思い出した。
淑女教育を終えても、結局どんな切っ掛けで泣いてしまうか判らなかったから、あまり家を離れることはしなかった。必然的に私の興味は部屋の中で出来ることに向いた。
絵画でも、刺繍でも、音楽でも、良かったろうに。
私が選んだのは読書だった。
見知らぬ知識を与えてくれる読書が本当に楽しくて、特に主人公が様々な場所へ赴くような冒険活劇が好きだった。それは、長じても自分にこんなことは出来ないだろうという諦めがあったからかもしれない。
……でも、たくさんの物語を読んで、主人公に心を重ねて泣いて笑って、満足感と共に伸びた髪を見つめて、思った。
どんな困難にもへこたれない主人公達のように、私も我が身に降り懸かる困難に立ち向かってみようか、と。
それからは目的を持って幅広く様々な本を読み漁った。
外国の難しい専門的な本を読むために、別の本を読んで言語を学ぶ……そんなことを繰り返していたら、いつのまにか私は随分と賢くなっていた。知識だけならとっくに兄や姉も追い越していて、学院に入学する頃にはもう卒業レベルの内容まで学び終わっていた。
それだけの知識を得ても、私のような体質について判ることはなかった。
でも、その時にはもう決めていたのだ。
探し尽くしても見つからないなら……。
自分で原因究明して自分で解決法を見つける!!
それが私の人生の目的。
家を出て行くのも平民になるのも、大本の理由はそれ。
今日までそれは当然のことで、そのために必死に頑張ってきたのに……。
……殿下の笑顔がすべてを掻き消す。
『これからはどうか僕の隣にいて欲しい』
……いたい!! あの人の隣にいたい!!
殿下の手を取って、殿下に愛されたい!!
でも出来ない!!
だって、もし、これが何か悪い病気の予兆だったら?
私を始祖に血脈で広がっていくようなものだったら?
原因の判らないことに対する不安は限りなく。
解明されない限り、取り除かれることはない。
だから無理なのよ……また涙が溢れて、止まらなくて。
メソメソ泣いている自分は数日前までとは別人のようだった。
物語の主人公たちのように困難に立ち向かってみようと決めた日から、強くあろうと決めたのに……今はもう人生の目的も放り出して、嘘をついてでも殿下のそばに行きたいと思っている。
髪が伸びるだけなのだ、他害はない。後の世に不都合があっても、知らなかったといえばいい。もしかしたら、結果が判って責められる頃には私はいないかもしれない。
先のことなど考えずに今の望みを叶えたっていいじゃない。
今の望みを……。
思い浮かべ、西日に照らされた殿下の笑顔を抱き締めると、また止めどなく涙が落ちた。
……出来るわけない。
私が素知らぬ顔であの方の妻に収まったことで、未来に不都合が起きたら、殿下も謗りを受ける。私を選んだ所為で彼が責められるなんて絶対に嫌!!
好きだから応えたくて、
好きだから応えられない。
「好きです、殿下……」
初めて声にしたら、胸が裂けるかと思う程の痛みが心臓を貫いた。
読んで頂きありがとうございました。