信心
聖騎士リュベンは立ち上がれないでいた。
あれからずっと手のひらを眺めている。
手のひらに残るこの感触。強力な聖神力だ。
クロに力みはなかった。聖句も唱えなかった。
しかもいきなり。そもそも、クロは異教徒だ。
異教徒の指先に女神様の火が灯った。
ショックだった。
女神様の火とは……何の予備知識も修行も無しに、いとも簡単に顕現できるものなのか?
聖神力とは何なんだ?
リュベンの想いはクロを見かけた時刻まで遡っていた。
司祭長の有り難いお話が終わり、民衆達が引けた後の閑散とした大聖堂。リュベンは、この波が引くように、徐々に静けさを取り戻していく時間が好きだ。
貴族の婦女子だけがいつまでも帰らないでいた。
リュベン目当てである事は理解している。リュベンをネチャっとした目で見る女ばかりだ。教会へ来るのに濃い化粧をしていたりする。
リュベンは女性を苦手に思う。原因は家を潰した母である。家を出た母は今頃どこで何をしているのか。知りたくもないが。
リュベンは下級貴族の出であった。領地持ちではないが、役職は持っていた。食うに困らない家柄だった。
いろんな事を母が引き起こし、家が崩壊した。路頭に迷ったリュベンは、縁あって聖騎士に拾われた。この出来事だけは、誰がなんと言おうと女神様のお導きである。間違いはない!
リュベンは容姿に優れている。聖騎士に拾われたのもこの顔が目立ったからだ。自分の容姿に感謝こそすれ否定はしない。
それも大きくなるまでは。
自分は聖職者。そして騎士。その道を迷わせるのが女子。……とは言い切らないが……。
リュベンも男の子である。人並みに女子への関心はある。ただし、ネチャっとした媚びを売ってくる女は嫌いだ。母を思い出させる化粧の匂いが嫌いだ。胃の辺りがコロコロする。
その手の類の女は、必ずリュベンの外観から入ってくる。
神の道、武人の道、人の道、学問の道、それらの話に興味がない。お茶だのお花だのリュベンの顔だの、頭の悪い話ばかりでリュベンと対等に話せる女がいなかった。打っても響かぬ女性。だいいち、リュベンはお茶の味が好みでない。昨今、南方の地より入荷しだした珈琲が好きだ。
やがて、女を避けるようになった。
そして、今日。変わった女を見かけた。
背が高い。編み込んだ黒髪が美しい女性だ。
後ろから近づくリュベンに気付いた風でない。リュベンに気を向けるでなく、静かに瞑想している。
長椅子に深く腰掛け、右足を組み、左手は軽く足に添え、右手の肘を机につき、顎を右手に乗せる。やや前屈みの姿勢。すらっと伸びた背筋。
その姿が美しいと想った。
珍しい事に、リュベンは女性に興味を憶えた。近づいて行くも、無意識に死角をたどったのは、瞑想の邪魔にならないようとしてではなく、女性を疑いの目で見てしまう癖によるものだ。
その距離は絶妙だった。後一歩踏み込めば腰の剣が届く距離。女が体の向きを変えた。後ろ姿しか見えなかった女性の横顔が見えた。あなたの接近は分かっているよと言わんばかりのタイミングだ。
女性は、それでもリュベンを見ない。半眼に保った目はどこを見るでなく、神経はどこか一方に集中して向けられた様。曲線で縁取られた体の線。巨匠が軟らかい素材で作り出した彫塑のよう。
服装から見て、攻略者だと思われる。白粉の湿ったような甘いような胸が悪くなる匂いもしてこない。
瞑想が終わった。
女性は、はっきりと目を開け、黒い瞳でリュベンを捕らえた
「おやおやおや、珍しい物があるので、気配を殺して近づいてみたら感づかれてしまって間が悪くなってしまったお兄さん。なんとも思ってませんから、どうぞお気を悪くなさらずに」
何というか……、なんと言えばいいのか……。
相手を飲んで当たり前な態度。だが、僕も聖騎士の端くれ。怯まぬ!
「いえいえ、瞑想している姿が立派だったので、どのような人物かと気になったですよ。偏見が激しいお嬢さん」
めいっぱいの皮肉を込めた。これでこの女も、僕に嫌われたのでは? と恐れ、媚びを売ってくるだろう。そうなれば、いつものように――
「ひょっとして、貴方も道に迷った子羊に道を指し示そうとしてるけど、実は自分も進んできた道に迷いを憶えている口かな?」
口の端をつり上げて笑っていた。
なにこいつ、全然意に介してない?
それどころか、僕を見る目が間違ってる。どこまで偏見に満ちた目で僕を見るのだ?
「……どこをどう見ればそのように見えるのでしょうか?」
「女のカン」
それはずるい。
女に言い負かされたのは初めてだ。
それにもめげず会話を勧めると、どうやらこの女性(クロと言う名前)は異教徒なのだが、聖神教の威光に心惹かれ、入信の可否を迷っている様子。
談話室へ誘ったのは必然の流れだった。
クロさんとの会話は刺激的だった。僕は衝撃を受けている。
クロさんは性悪女だと思っていたが、それは違う。
無垢なる女性だ。先入観にとらわれず、本質を見抜く目。それに悪意も善意も含まれない。
僕の信仰心は揺るがない。だが、見たことのない世界を見せられた。いや、見せられてしまった。
僕の住む世界は広いと思っていた。無限に広がる地平をこの目に映していると思っていた。
クロさんと会話をするまで。
なんという狭い世界だったのだ!
衝撃を受けたのはそれだけではない。
僕が持つ聖神力を見せた直後のことだった。
クロさんの全身が淡い光に包まれた。淡い光はクロさんの指に流れ込むように集まっていき、青い炎として顕現した。
クロさんは、見ただけで女神様の火を再現させてしまったのだ。
僕の混乱を忠実に言葉にできない。ましてや順序立てて追うことなどできるはずがない。
順不同に表れる言葉。初めての言葉もあり、何度も繰り返される言葉もあり、表現を変えただけの同じ言葉もあり、混沌としていた。
なぜ? どうして?
女神様の火。異教徒。若い女性。司祭長より強い聖神力。
なぜ聖神力が? 全身を包む青い光は? 何も知らない人が?
攻略者。聖女。聖神教会。教皇猊下より強い?。
僕のこれまでは? これからどうして? どこが間違っている?
何か言わなければならない事だけが義務感としてあった。言葉を口にしなければ、これから先の人生を後悔だけで過ごすことになるという確かな予感があった。でも言葉は出てきてくれない。訳が分からない。
混乱だけが頭の中で渦を巻く。心臓の動きが速くなる。首の太い血管が、大量の血を頭へ送り込んでいるのを感じる。
クロさんが桜色の唇を薄く開いた。混沌とした渦が押しのけられる気がした。なんでもいい、言葉をもらえればこの苦しさから逃れられると思った。
「聖騎士リュベン殿。有り難う。貴方のおかげで知りたいことを知り得た。お礼に言葉を贈ろう……」
この人、綺麗な目をしていたんだ。
僕は、僕は……心の声が口に出ない。後悔が訪れるであろうこれからの人生に対して、なにもできないでいる。
「修行の前に道はない。修行の後に道ができる。また会おう、聖騎士リュベン」
はっとした。正気に戻った。
僕が、僕の、僕を、僕は!
薄暗い談話室に光が差し込んだ。
クロが出て行く。
光は扉に閉ざされた。
「扉の向こうに、クロがいる世界がある」
リュベンは涙を流していることに、まだ気づかない。
「なかなかに充実したお出かけであった」
今気づいたのだが、聖職者達は魔法を使っていることになる。無意識に。魔法を魔法と認識せずに。
「本人が幸せならそれで良いか」
余計なことは言わないのが優しさである。クロは聖神力=魔力であることを心の奥底に鍵をかけそっとしておくことにした。忘れるとは言ってない。
お昼はまだまだな時間。とっとこと宿への道を歩いているクロである。
聖神教会界隈を抜け、入り組んだ市街地へ足を踏み入れた頃であった。
「お姉ちゃーん!」
「へけっ!」
クロは横へくの字になった。脇腹を直撃する質量弾。チョコだった。
「お姉ぢゃーん! ああ゛ーっ!」
チョコがしがみついてガン泣きしている。
「ちょっとお待ちって! やっと追いついたよ!」
肩で息をしているのは宿の女将さんだ。
「クロを送り出したのはいいものの、すぐにぐずりだして。お姉ちゃん、お姉ちゃんってやかましいから連れてきたのさ! 会えて良かったよ!」
「アーっ! お姉おねッおねッ!」
「よしよしよしよしよしよしよしよしよしよし!」
ダメージから回復を遂げたクロは、チョコの頭をかいぐりかいぐりする。なつかれて嬉しい模様。
「もう泣かないでいいのよ。手をつないで帰ろう。帰りに何か買って帰ろうか? 泣きやんだら買ってやろう。泣きやんだ? お利口さんだねぇ」
どこからともなく取り出した布でチョコの涙を拭いてやる。
「あんた、チョコちゃんの扱い方が上手いねぇ」
女将さんが感心している。
「じゃ、帰ろうか……こうやって並んで歩いているとお婆ちゃんと娘と孫みたいだね」
「だれが婆さんだよ!」
荒ぶる女将さんだが、満更でもない様子だ。
「キャーッ!」
「なんだい?」
「きぬをさくようなおんなのひめい?」
「チョコちゃん、難しい言葉を知ってるね。さ、早く帰ろう」
「イヤーッ! 誰か! 誰かーッ!」
ちょっと先から聞こえてくるようだ。
「何も聞こえない。いいね? 何も聞こえなかった」
「キャー! 誰かー! 助けてくださいまし!」
「ちょっと、あんたクロ。何とかおしい!」
「……今日はイベント盛りだくさんだねぇ」




