温かな協力
誤字をお知らせくださりありがとうございました、修正しております。
窓の外から手を振る栗毛の青年を見て、フィリアは驚いたように彼に頭を下げると、不思議そうに呟いた。
「……あれはイアン様だわ、どうしてここに?」
「君の知り合いかい?」
問い掛けたメイナードに向かって、フィリアはこくりと頷いた。
「はい。ちょうど今お話ししていた、私が勤めている研究所の所長です」
「そうか。君に会いに来たのだろうか」
程なくして、部屋のドアが軽くノックされた。
「メイナード様、お客様がお見えです」
開かれたドアの外側には、先程フィリアを出迎えたのと同じ使用人に案内されてやって来た、長身のイアンの姿があった。
イアンはフィリアより十ほど年上の、伝統ある研究所においてはかなり年若くして抜擢された所長だった。彼はフィリアに微笑み掛けてから、メイナードを見つめて丁寧に一礼した。
「突然お邪魔してしまって申し訳ありません、メイナード様。以前に、一度だけお目に掛かったことがありましたね。申し遅れましたが、私は、フィリアと研究所で一緒に働いているイアンと申します」
イアンの頭の後ろで一つに束ねられた栗色の長髪が、さらっと揺れた。メイナードも彼に向かって、ベッドから半身を起こした状態のまま会釈をした。
「以前、魔物討伐の直前に戦術をご相談したことがありましたね。あの時は慌ただしいまま、ろくにご挨拶もできずに失礼しました。今は立ち上がることもままならず、このような状態ですみません」
「いえ、とんでもない。お怪我のことは伺いました。……あれほどの強力な魔物がまだこの国に潜んでいたとは、私も話を聞いて驚きました」
(英雄と呼ばれたメイナード様にここまでの重傷を負わせて、呪いまで掛けた魔物とは、いったいどのような魔物だったのかしら)
二人の会話の内容に瞳を瞬いていたフィリアの疑問を察したかのように、イアンは彼女を見つめた。
「私も耳にしたばかりですし、フィリアはまだ聞いていなかったかもしれませんね。メイナード様たちの一行を襲った魔物は、大型の飛竜です」
フィリアはイアンの言葉に息を呑んだ。
「あの、伝説の魔物と言われている竜ですか……?」
メイナードがフィリアの言葉に頷いた。
「ああ。王国の端を走る渓谷付近の森に魔物が出たと聞いて向かった時、僕たちの前に立ち塞がったのは、蛇のような身体をくねらせて宙を舞う、空を覆うような大型の竜だった。僕も、はじめは自分の目を疑ったよ。まさか、今でもあんな魔物が生存しているとは思わなかったからね」
フィリアはメイナードを見つめながら、その顔を強張らせていた。
「竜はまだ、この世に存在していたのですね。遥か昔に姿を消した、伝説上の存在のように思っていました」
(これほどのお怪我をなさったとはいえ、竜と戦って、生きて帰っていらしたなんて。さすがは英雄と呼ばれるメイナード様だわ)
フィリアは過去の文献で目にした、竜に関する記載を思い返していた。大蛇に翼を生やしたような姿をした竜は、非常に獰猛で危険な魔物として記されていた。一度出くわしたら最後、生還することは難しいとされるこの魔物からは、命からがら逃げ帰った者たちですらほんの一握りのようだった。
王国の渓谷の奥深くに生息するとされ、人々からもその存在が非常に恐れられていたことから、その付近に立ち入る者自体が、昔は少なかったようだ。
イアンがフィリアの言葉を継いだ。
「私も、竜と聞いて耳を疑いました。最近、渓谷沿いの森を通って隣国に向かった人々のうち、忽然と姿を消してしまった者が少なからずいたようですが、恐らく、あの竜に襲われたか、あるいは逃げようとして渓谷に落下したかのいずれかだったのでしょう」
彼はメイナードに感謝を込めた瞳を向けた。
「メイナード様があの魔物を退治してくださったお蔭で、その後はそのような被害は出てはおりません。メイナード様が受けた傷は、大き過ぎる代償ではありましたが、確かに、貴方様はまたこの国の人々を救ってくださったのです」
イアンは痛々しいメイナードの姿に心を痛めている様子で表情を翳らせていたけれど、次にその瞳をフィリアに向けた。
「それでですね、フィリア。私がここに来た理由ですが……」
イアンはポケットから一通の手紙を取り出した。
「あ、それは……」
フィリアが見つめたイアンの手には、メイナードの元に嫁ぐ予定であること、彼の側にいるために近いうちに仕事を辞する可能性が高いことと、数日間の休暇を申請する旨をフィリアがしたためた便箋が握られていた。彼女が荷物の準備をし終えた後に、昨日急いでイアン宛てに送ったものだった。
「貴女から受け取った、この手紙ですが。急ぎアーチヴァル伯爵家を訪ねたら、もう貴女は家を出たと聞いて驚きましたよ」
苦笑したイアンに、フィリアは申し訳なさそうに眉を下げた。
「わざわざ私の実家まで訪ねてくださったのですね、失礼いたしました」
「いえ。それより本題ですが、退職願いのようにも見える貴女の手紙を読みましたが、私には、これを受け取る気はありませんのでね。それを貴女に伝えたくて来たのです」
「でも、イアン様……!」
慌ててイアンに向かって口を開き掛けたフィリアに向かって、彼はそのエメラルドのような理知的な瞳をすっと細めた。
「私は貴女の能力を買っているのですよ、フィリア。貴女は、辞めさせるにはあまりに惜しい人材です」
フィリアは、イアンの思い掛けない言葉に微かに頬を染めた。
「イアン様、もったいないようなお言葉をありがたく思います。でも、私は、今はメイナード様のお側に付き添っていたいと思っておりまして……」
イアンの深い緑色の瞳がきらりと光った。
「ええ、貴女の気持ちもよくわかります。それで、貴女のことですから、メイナード様のあの呪詛を解こうとしているのでしょう?」
はっとして、フィリアはイアンの視線を追ってメイナードの首元に目をやった。メイナードは自分の首に現れている赤黒い班点に触れた。
「イアン様。やはり、これはあの竜による呪詛なのですね?」
「はい、メイナード様。私が見る限り、ご認識の通りだと思います」
フィリアは力強い瞳でイアンを見つめた。
「イアン様、私は必ずメイナード様の呪詛を解いてみせます。そのために、身勝手かもしれませんが、退職前に、もうしばらくだけ研究所に通って調べものをさせていただきたいのですが……」
イアンは、なぜか嬉しそうにフィリアに笑い掛けると、手に下げていた大きな鞄の中から、数冊の分厚く古めかしい本と、同じくセピア色に染まっている古い書類の束を取り出した。
「もしかして、これは……!」
フィリアの顔が、目の前に取り出された資料を見て嬉しそうに輝いた。
イアンもにっこりと口元の笑みを深めた。
「ええ、そうです。貴女が読みたいであろう、竜に関する記載のあった、主な古い本と文書を持って来ました。さすがにすべて読み解けてはいませんが、関連しそうな部分には栞を挟んであります」
フィリアは興奮に頬を染めてイアンを見つめた。
「イアン様、本当にありがとうございます。でも、これらの貴重な資料を、私がここで独り占めしてしまってもよろしいのでしょうか?」
「構いませんよ。メイナード様という、この国を支えてくださっている大切な方をお助けするためなのですから。それに、どうせ、難解な古代語をある程度すらすらと読みこなせる者は、貴女と私のほかには研究所にもほとんどいませんしね」
イアンは温かく微笑むと、フィリアの頭をぽんと撫でた。
「私が貴女に伝えたかったのは、貴女はメイナード様に一番近いこの場所で研究を続ければよいのだと、そういうことです。研究所で調べものをすることだけが、仕事ではありませんからね。それに、呪いが身体に及ぼす影響を間近で見守りながら、それを解く方法を研究でき、それが彼を助けることに直接繋がるのですから、この方法が最善の仕事の進め方だとは思いませんか?」
「……では、私はここで、メイナード様のお側にいながら研究の仕事を続けてもよいと?」
「ええ、そういうことです。ま、こんな時こそ所長権限も役に立つというものですよ」
イアンはぱちりと軽くフィリアにウインクをすると、手元の便箋に視線を落とした。
「という訳ですから、これはもう必要ありませんね」
彼は、手にしていたフィリアからの便箋をびりっと勢いよく破いた。
「はい、イアン様。温かなご配慮に、心からお礼申し上げます」
フィリアの瞳には、彼への深い感謝と、仕事を続けられる喜びに、じわりと涙が滲んでいた。イアンは彼女に向かって頷くと、メイナードに視線を移した。
「メイナード様。フィリアは秀才で、類稀な努力家でもあります。彼女に任せておけば、間違いありませんよ。必ず貴方様を救う方法を見出してくれるでしょうから、大船に乗ったつもりでいてください」
「はい、イアン様。フィリアと僕へのお心遣いに、僕も感謝しています」
メイナードは、イアンに軽く頭を下げてから、フィリアを見つめて嬉しそうに瞳を細めた。フィリアも彼ににっこりと笑みを返した。
イアンは微笑み合う二人を眺めてから、口を開いた。
「メイナード様が倒した竜を研究対象として扱うために、これから私を含む数人で、竜が出たあの森に向かうことになっています。また、何かわかればご連絡しますよ。フィリア、貴女も、もし行き詰まってきたらいつでも相談してくださいね。私を含む研究所の仲間たちは、皆、貴女の味方ですから」
「本当にありがとうございます、イアン様」
フィリアとメイナードは、またひらひらと手を振って部屋を出て行くイアンの後ろ姿が見えなくなるまで、彼の背中をじっと見送っていた。
本日は夜にもう1話更新予定です。