姉の元婚約者
自室に戻ったフィリアは荷造りをしながら、今後について考えを巡らせていた。
「メイナード様のお側に行っても、今の研究の仕事を続けることはできるかしら……」
魔力の弱かったフィリアは、姉のアンジェリカとは異なり、在学中から文官を志していた。その明晰な頭脳を活かして文官の道を叶えた彼女は、今では王城の一角にある研究所に勤務している。
国民にとって大きな脅威である魔物たちとどう戦うかは、昔から王国の一番の懸案事項だった。フィリアの研究対象は、そんな魔物たちの習性や特徴、そして各魔物にはどのような魔法が効き、襲われた場合にはどのように対処するのが最善かといった事柄だった。
魔物と一口に言っても千差万別で、ありふれた魔物もいれば、滅多に出くわさないような特殊な種類の魔物もいる。その攻撃の方法も、魔法との相性も様々だ。一般にはあまり知られていないような、厄介な魔物への対処方法を、過去の歴史を紐解いて調べることもフィリアの仕事の一部だった。
魔物を倒して華々しい脚光を浴びる魔術師団とは異なり、研究職は地味な仕事である。強い魔力を授かっている者が大抵は魔術師団を目指すこともあり、採用人数の少ない狭き門である割には、注目を浴びることも少ない。フィリアの両親も、彼女が研究職の採用試験に見事に通った時でさえ、特に興味を示さなかった。
けれど、そんな小規模で目立たない研究職の職場は、フィリアにとってはようやく見付けたささやかな居場所だった。普段は「聖女アンジェリカの出来の悪い妹」としてしか認識されていないフィリアも、そこでは一人の研究者として認められているからだった。
回復魔法の力という意味では、フィリアはアンジェリカの足元にも及ばない。けれど、王国では回復魔法の使い手の母数自体が少なかった。弱いながらも回復魔法が使えるフィリアは、魔物から傷を受けた場合の対処方法の研究において、職場で重宝されてもいた。そんな研究職の仕事を辞すことを想像すると、フィリアは後ろ髪を引かれる思いがした。
(でも、何をおいても、まずはメイナード様のお身体が第一だわ)
今まで叶わないと諦めていた彼の元に嫁ぐことを思うと、このような状況で不謹慎かもしれないとは感じつつも、フィリアの胸を切ないような甘いような感情が揺蕩っていた。
けれど、それと同時に、姉に残された不穏な言葉に形容し難い不安も覚えながら、フィリアは、身の回りのものと仕事の道具を詰め込んだ鞄の口を静かに閉じた。
***
「ここが、メイナード様のお屋敷……」
大きな鞄を抱えて馬車を降りたフィリアは、メイナードの住む大きな屋敷を見上げた。王国では、貴族と平民の住む区画は分かれているけれど、彼の住む一角は貴族の住む側の地域にあった。
その土地は、彼が挙げた目覚ましい魔物討伐の功績の褒賞として国から与えられたものだと、フィリアは風の噂に聞いていた。そこに建てられていたのは、瀟洒で立派な屋敷ではあったけれど、ひっそりと静まり返っていた。フィリアが外門の前で馬車から降りても、まだ彼女を迎えに出て来る者もいない。
(やっぱり、お姉様と違って、私は歓迎されていないのかしら)
外門は不用心に薄く開いていた。仕方なく、フィリアはその隙間を通って、重い鞄を携えて屋敷の前まで歩いて行った。
フィリアは一回大きく深呼吸をしてから、屋敷の玄関口で声を上げた。
「ごめんください」
ようやく屋敷の中から足音が聞こえ、使用人と思われる一人の男性が玄関の扉を開いた。どこか疲れた様子で警戒心を覗かせていた男性に向かって、フィリアは丁寧に頭を下げた。
「私、アーチヴァル伯爵家から参りましたフィリアと……」
フィリアの言葉に、男性はその表情をぱっと輝かせた。
「ああ! 貴女様が、あの聖女様の妹君のフィリア様でしたか」
男性は彼女が抱えていた大きな鞄に手を伸ばしながら、にっこりと笑った。
「さあ、どうぞお入りください。お荷物は俺がお持ちいたします。すぐにお迎えに出ることができず、申し訳ありませんでした」
礼を述べたフィリアが屋敷の中に足を踏み入れると、広い屋敷だというのにあまり人の気配は感じられなかった。ほとんど灯りのついていない屋敷内は、昼間だというのに薄暗く、どこか重苦しい空気が漂っていた。
廊下を歩きながら、戸惑いを隠せずにいたフィリアに気付いたように、彼女の荷物を受け取って彼女を案内していた使用人は微かに苦笑した。
「今では、ほとんどの使用人がメイナード様の元を去ってしまい、ここに残っているのは俺を含む数名だけなのです。言い訳になってしまいますが、屋敷内の仕事にもなかなか手が回らない状況でして」
フィリアは小さく首を傾げた。
「それはどうしてですか? メイナード様が大変な時でいらっしゃるというのに……」
彼は寂しげに表情を翳らせた。
「フィリア様は、聖女様からは詳しいことを聞いていらっしゃらないようですね。おいおいご説明いたしますが……まずは、旦那様のところにご案内いたします」
フィリアは胸騒ぎを覚えながら頷いた。使用人は階段を上がってしばらく廊下を進むと、大きな扉の前で立ち止まって軽くノックした。
「メイナード様。フィリア様がお見えです」
使用人がゆっくりと扉を開くと、フィリアの目には、部屋の奥に置かれている一台のベッドに横たわる青年の姿が飛び込んできた。ベッドの横には幼い少年が寄り添っている。
思わず小走りになってベッドに近付いたフィリアは、はっと小さく息を呑んだ。
「メイナード、様……」
随分とやつれた様子のメイナードの着衣の間からは、右の首筋から肩、そして腕にかけてびっしりと巻かれた包帯が覗いていた。けれど、それ以上にフィリアの目を引いたのは、彼の首元から顎を覆うように浮かび上がっている、毒々しく赤黒い奇妙な斑点だった。
(これは、いったい何かしら……?)
落ち窪んだ彼の目元と、そのこけた頬とは対照的に、水疱のようにも見える赤黒い斑点に覆われた部分だけが不自然にむくんでいた。
逞しくしなやかな身体つきで、美しい顔立ちをしていたかつての彼の姿は見る影もなくなっていた。痛々しいメイナードの姿に、微かに瞳を潤ませたフィリアを見つめて、彼は弱々しい笑みを浮かべた。
上半身を起こそうとした様子のメイナードだったけれど、身体が思うように動かないようだった。フィリアは急いで手を伸ばし、ベッドの側にいた少年と一緒に彼を助け起こした。
「フィリア。こんな僕の所まで、よく来てくれたね」
掠れたメイナードの声を耳にしたフィリアは、彼の唯一変わらないアメジストのような瞳を覗き込むと、微笑みを浮かべて、彼の痩せて骨ばった手を温かく両手で包み込んだ。