フィリアの魔法
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フィリアはメイナードに向かって、労わるように微笑んだ。
「メイナード様は強い方ですね。このような呪いを身体に宿しながら、ご自分のことだけでもお辛いはずなのに、むしろ弟君の心配をなさっているのですから」
(あ、そう言えば……)
フィリアはメイナードのベッドの奥に視線を向け、床に転がったままになっていた、さっきルディが投げた人形を見付けた。彼女はその側に近付くと、布でできた小さな人形を屈んで拾い上げた。それは魔術師のようなマントを纏った青年の形をした、年季が入っていることが感じられる薄らと汚れたものだった。
メイナードは、フィリアが手にした人形を見つめて切なげに笑った。
「それは、数年前に、遠征帰りにルディへの土産に買って帰ったものなんだ。ルディは、それを僕に似ていると言ってね。いつも僕の無事を祈りながら、それを腕に抱いて帰りを待ってくれていたらしい」
「そうだったのですか。これはルディ様にとって、特別なお人形なのですね」
それほど大切なものを、感情を迸らせるようにして彼女に投げ付けた時のルディの表情を思い出し、フィリアの胸はまたつきりと痛んだ。
人形をベッド脇のサイドテーブルの上にそっと置いてから、フィリアはメイナードに視線を戻した。
「メイナード様が回復なさったら、ルディ様もきっとまた笑顔になってくださいますね」
「ああ、そうだね」
フィリアは再びメイナードの正面に戻ると、白く細い指先で、彼の首から顎に浮き出ている赤黒い模様を確かめるようにゆっくりとなぞった。連なる呪詛に触れる度、それらの一つ一つが微かに動いているように思われた。
彼女はメイナードに尋ねた。
「この呪詛が現れている部分に、締め付けられるような感じがあると仰っていましたね。ほかに、痛みや痒みといった感覚はありますか?」
「息苦しさの他には、内側から疼くような痛みが多少ある。それから、徐々に力を奪われるような、力が吸い取られて抜けていくような感覚があるんだ」
フィリアは真剣な表情で彼の言葉に頷いた。
(これ自体が命を持って、メイナード様から力を奪って成長しているようにも感じるわ。一刻も早く、この呪詛を解く方法を見付けなければ)
メイナードは真摯に彼の呪いと向き合って解こうとしているフィリアを感謝を込めて見上げた。
「今まで、この僕の症状を見た者は、気味悪そうに顔を顰めるか、恐怖に後退るかが大半だったのに、君こそ心の強い人だね。君には驚かされてばかりだよ」
「いえ、そんなことは」
謙遜して小さく首を横に振ったフィリアは、資料を積んだ机の脇の椅子に腰掛けると、メイナードに向かって口を開いた。
「あの、私はこちらで書物を読んでいますが、メイナード様は休んでいらしてくださいね。休息を十分に取ることも大切ですから」
「ああ、わかった」
メイナードはフィリアを見つめてから、ゆっくりとその瞳を閉じた。
フィリアは先程開き掛けた古く分厚い本を手に取ると、栞が挟んであったページを改めて開いた。
(あ、ここだわ……)
竜の記述がある部分に、フィリアは目を走らせた。
知性が極めて高く、高い魔力に素早い身のこなしを誇るこの魔物とは、極めて戦いが難しいこと。その大きな翼が巻き起こす風は激しく、鱗には猛毒があり、触れた者の肌は赤黒く爛れたことなどが記されていた。ただ、呪いに関する記述は見当たらなかった。
フィリアは次に、薄めの色褪せた資料を手に取った。そこには竜の特徴に加えて、呪詛と見られる描写もあったものの、当時の勇者と呼ばれた者が、呪いに蝕まれて命を落としたことしか残されてはいなかった。
次々と資料を読み進めていったフィリアだったけれど、いずれにも竜についての断片的な情報が多く、呪詛の詳細や治療方法といった核心に触れるような記載は、なかなか見付けることができなかった。
(……やはり、簡単ではないようね)
フィリアは小さく溜息を吐いた。古代語を読み進めるのは、近代の文書に比べて多少の時間がかかるのに加えて、資料も古いことから、時々文字が掠れていたり、一部のページが損なわれていたりするところもあった。
さらに、竜という存在自体が魔物の中でも特別なせいか、書物の一部は勇者と聖女が竜を倒し国を救う物語のようになっていて、それが事実なのか、作り話なのかを判断することすら難しいものもあった。
そのような中でも、フィリアが気になった記述がいくつか見付かった。
古代語には、現代の言葉と違って独特のリズムがあり、それは読む際の難しさでもあるのと同時に、読み手に訴えかけてくるような抑揚があるようにフィリアには感じられていた。時に、当時の書き手が見た情景が伝わってくるように感じる古代語を読み解くことは、彼女の得意分野であるのと同時に、何が問題解決の鍵になるかを見極める勘も鋭かった。
フィリアには、文字に込められた感情のようなものが色付いて浮かび上がるように感じられることがあり、その独特の感性は、地道に積み重ねた知識とも相まって、研究所の所長を務めるイアンにも信頼され、一種の才能だと評価されていたのだ。
古い資料には呪詛そのものに関する記載が少なかった中で、これまでにフィリアの目を引いたのは、二つの事柄だった。
まず、竜を退ける鍵となった人物は、残されていた書物によれば、いずれも勇者ではなく聖女のようであったこと。
また、最も古いと思われるすっかりと変色した羊皮紙には、竜は魔物ではなく聖なる存在として描かれていたことも、フィリアの興味を引いた。
(これは、どういうことなのかしら……?)
時間を忘れて資料を読み耽っていたフィリアの顔を、窓から橙色の夕陽が照らし始めていた。
彼女がふとベッドの上のメイナードに視線を移すと、彼のアメジストのような瞳と目が合った。
「あら、メイナード様。起きていらしたのですか?」
メイナードに優しい瞳で見つめられていたことに気付いてどぎまぎとしたフィリアに、彼は柔らかく笑い掛けた。
「ああ。フィリアは凄く集中しているようだったから、邪魔したくはなくて、君の様子をここから眺めていたんだ」
「……すっかり長居をしてしまって、すみませんでした。そろそろ失礼しますね」
フィリアは、読み終えた書物とこれから読もうとしていた資料を重ねて腕に抱え上げると、メイナードに向かって微笑んだ。
「今日はゆっくりお休みください。また明日まいりますね」
「僕のためにここまでしてくれて感謝しているよ、フィリア。明日、また君に会えるのを楽しみにしているよ」
「こちらこそ、楽しみにしています。……あの、」
フィリアは少し躊躇ってから、やつれた様子のメイナードを思案気に見つめて、手にした資料を再びテーブルに下ろした。
「もし差し支えなければ、メイナード様に回復魔法を掛けさせていただいても? ただ、私の魔力は弱いので、姉とは比べるべくもありませんし、ほんの気休め程度にしかならないかもしれませんが……」
姉とのあまりの力の違いに彼を落胆させてしまうのではないかと、フィリアにはそれが気掛かりだった。それでも、出来ることなら、少しでも彼の体力を回復させたかった。
メイナードは嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう。君にあまり負担にならない程度にお願いできたら助かるよ」
フィリアは頷くと、彼に近付いてその首元に手を翳した。彼女の掌から放たれたふわりと白く柔らかい光が、夕陽に満たされた部屋の中でメイナードを淡く照らし出した。
メイナードはフィリアの両目を覗き込むようにじっと見つめていた。そして、瞳を細めて、彼女に向かって口元を綻ばせた。
「君のお蔭で身体が軽くなったのがわかるよ。君の魔法の力は、温かいね」
その言葉の通り、彼の顔色も表情も少し明るくなったようにフィリアには見えた。彼女はほっと安堵の笑みを浮かべた。
「少しでも私の魔法がメイナード様のお役に立てたなら、嬉しいです」
「……少しなどではなく、君の魔法にも、君自身の存在にも、僕はとても救われているよ」
メイナードは、彼に翳されたフィリアの手を、大切な宝物にでも触れるかのように持ち上げると、その甲にそっと優しく唇を落とした。
「……!!?」
手の甲にとはいえ、憧れの人からの口付けに、フィリアの頬にはみるみるうちにかあっと熱が集まっていた。
しばし呆然としながらも、フィリアは混乱気味の頭をどうにか回転させた。
(こ、これは回復魔法のお礼のようなものかしら?)
フィリアの胸は、思いがけない彼の唇の感触に、苦しいくらいに高鳴っていた。
そんな彼女の様子に、メイナードは申し訳なさそうに口を開いた。
「驚かせてしまってすまない、フィリア。もし嫌だったら、もうこんなことは……」
「い、いえ! 嫌なはずがありません」
しどろもどろになって答えたフィリアに、メイナードはほっとしたように笑い掛けた。
「そうか、それなら良かった」
あまりに嬉しそうなメイナードの表情を目にして、フィリアの顔も真っ赤に染まっていたけれど、部屋を染める夕陽の赤色にちょうど隠れるように重なっていた。
フィリアははにかんだ笑みをメイナードに返すと、積み上がった資料を腕に抱えて、ふわふわとした足取りで扉を出ると自室へと戻って行った。




